第3話 宿屋【花の妖精亭】
2015/4/2 ひっそりと書き直し
第一章の書き直しなんてすぐに終わると思って始めたのに、かなり時間がかかるという大誤算
魔道具店【バロウズ】を出た黒尽くめの青年はしっかりと荷物を背負い直し、迷宮から遠ざかる方向へ歩き始める。
【バロウズ】の老店主と会っている間に、店の外は夕暮れを通り過ぎて夜になっていた。
大通りであれば<持続光>の魔道具を用いた街灯が立てられていることもあるが、青年が歩いているような裏通りにそんな金がかかる物は設置されていない。
だが、夜闇に包まれた道を歩く青年の足取りは、昼間の道を歩いている時とほとんど変わらなかった。
夜道を歩く程度であれば、首にかかった<暗視>ゴーグルを使うまでもない。何故ならば、探索者として活動してきた5年間のおかげで、常人の数段上のレベルで夜目が利くようになっていたからだ。
ろくな光源がない迷宮の中と比べれば、空に月や星があり、道の横に並ぶ酒場や商店の窓や入口から光が漏れてくる裏通りは、青年にとって歩くのに支障が出ない程度には明るい。
それはそれとして彼が今どこに向かっているかと言うと、それは本日の宿泊場所である。
ここ1年ほどは月の半分以上の日数を迷宮の中で過ごしている彼だったが、迷宮から戻った時の定宿の1つくらいは当然持っている。
その宿は名前を【花の妖精亭】と言って、商業地区の中にある、どちらかと言えば探索者向けではなく一般人向けの宿だった。
【花の妖精亭】が本来狙っている客層はマッケイブの町を一時的に訪問する観光客や商人たちであるため、宿泊費はそこそこ取られる。提供されるサービスの質を考えれば、妥当どころかむしろ安いと思えるくらいの金額だが。
安さのみを追求するのであれば、貧民街に建てられた貧乏探索者向けの木賃宿という選択肢もある。
宿に期待される水準は全く満たされていないが、屋根と壁はあるので雨風をしのぐくらいはできるだろう。
探索者として下の上くらいの金額を稼いでいる青年は、あえて劣悪な環境に身を置いてまで節約する必要を感じていないので、まともな宿に泊まっている。
青年が【花の妖精亭】を選ぶ理由は他にも色々と理由があるのだが、それは追々語っていくことにしよう。
「こんばんは」
「いらっしゃい! あーらアンタだったのかい。相変わらず全部真っ黒な格好だけど元気だったようだね。部屋ならいつものところが空いてるよ。いいや、それよりも時間も時間だし腹が減ってるだろうから先に何か食べるかね? でもやっぱり臭うから、やっぱり先に部屋にいって着替えてからにしなさいね! すぐにお湯を持ってってあげるから」
青年が挨拶をするなりこちらの答えも聞かず一方的に捲し立てたのは、四十がらみの少々ふくよかな小母さんだった。
彼女は【花の妖精亭】のオーナーであるエイダで、それなりに流行っているこの食堂兼宿をほとんど一人で切り盛りしているという女傑である。
今のエイダの姿は妖精と言うよりも妖か―――ただの肝っ玉母さんといった感じだが、頭の中で彼女の体重を半分にした上で20歳ほど若返らせてやれば、妖精の渾名に違わぬ可憐な女性が出現する。
若返るのは無理としても、せめてもう少し体重が少なければ男たちが放っておかなかっただろう。
「それじゃ、最初にお湯を。その後適当に何か食べるものを頂きます。エイダさんが作るものは何でも美味いから全部お任せで」
「おや、嬉しい事を言ってくれるね。そしたらすぐに腕によりをかけたのをたっぷり用意しとくからね! お湯はすぐにベティに持って行かせるから先に行ってな。部屋はいつものところを使っておくれよ」
指定された部屋の鍵を取り、その体型からは想像できないくらいに機敏な動作で調理を始めたエイダを横目に見つつ2階へと続く階段を上がる。
5部屋並んだ一番奥の部屋が彼の「いつもの部屋」である。食堂兼宿と言っても宿泊客が普段はあまりいないので、実質的には宿泊もできる食堂といった状態だ。
客室に入ると、中にはいつもの見慣れた風景がある。
ベッドと荷物を置くための棚、書き物をするための小机が置かれているだけのさほど広くはない部屋だが、寝るためだけの部屋だからこれで十分だろう。
いつもと同じように掃除は行き届いており、ベッドにかけられたシーツはきちんと洗濯されている。
あまり汚れを落とさないようにそっと床に背嚢を置き、迷宮で過ごした数日間はずっと着けっぱなしだった鎧と服を手早く脱ぎ始めた。
彼が着けている鎧は厚手の布製鎧で、その上から胸部や関節などの要所に硬革鎧の一部を取り付けただけのものだった。
後衛の魔術師でも全身に革鎧ぐらいは着けるという探索者の常識から考えれば、信じられないくらいの軽装である。
だが、彼も伊達や酔狂でこんな格好をしているのではない。本人なりに効率化を図った結果として今の状態がある。
迷宮に潜って探索を行っている間は常に隠密行動をとって周囲にこちらの存在を気取らせず、こちらがモンスターを先に発見して奇襲をかけ、反撃を許さずに仕留める。
普通の探索者のようにランタンなどの光源を持たずに<暗視>ゴーグルで視界を確保しているのも、武器・鎧・背嚢・その他の道具に至るまで全てを黒で統一しているのも、迷宮という光源の乏しい空間において隠密性を最大限に高める工夫だった。
敵に対して奇襲をかけられない状況であれば戦闘の回避・逃亡に努めるが、どうしても正面から戦わなければいけない場合がある。
青年は、敵の攻撃を受け止めるのではなく躱すことに重点を置いた戦闘スタイルを選んでおり、それに合わせて装備の改良と取捨選択をしていった結果が、今の奇抜とも言える状態だった。
全ての防具を脱ぎ終えてトランクス型の下着一枚のみになった後、手鏡などを使って体の各所の状態を念入りに確認していく。
今回の探索行受けた攻撃は軽い打撲がせいぜいで、痛みが残るような怪我は全く負っていない。しかし、人間の皮膚は意外と柔なもので、少し擦った程度なのに裂けてしまう場合がある。
だだの擦り傷だろうと侮ってはいけない。
迷宮探索中などの理由で傷口の清潔さを保つことが難しい環境では、小さな傷を負ったことが原因で命を落とすことさえあり得るのだ。
小さな傷を不潔な状態で放置してしまったばかりに傷口が化膿してしまい、適切な対処が取れずに悪化し、最終的に四肢の切断や感染症によって死亡に至るというのも絶対に起こらないとは言い切れない。
この世界には瞬間的に傷を癒やすことができる<治療>の魔術や、<治療>の効果をもつ魔法薬も存在しているが、そういった利便性と効果が高いものは例外なく高価だ。
魔法薬の需要はかなり高いため、欲しいと思ってもすぐに手に入らないという可能性もある。
それに、魔術や魔法薬も万能ではないのだ。<治療>には傷口を塞ぐ効果はあっても喪われた血や体力を回復させる効果はなく、傷の影響で発症した病気などには効果が無い。
青年もいざという時のお守り代わりに中程度の品質の<治療>薬を1本だけ所有しているが、これだけで彼の1ヶ月分以上の収入が吹き飛んでいる。
欲を言えば破傷風などの感染症にも効果がある<病気治癒>薬も欲しかったのだが、希少な上に高価すぎて手が出せなかった。
この世界のどこかには骨折を短時間で治せたり、喪われた四肢すら再生させてしまう程の効果をもつ魔法薬があるらしいが、そういったものを手に入れようと思うなら金以外のものが色々と必要になりそうだ。
青年が傷の確認を済ませ、次に防具の破損状況を確認し始めようかと考えたところで、扉の向こうから階段を上る足音が聞こえてきた。
とたとたという軽い足音が青年がいる部屋の前で停止し、それから数秒間の沈黙。
「ねーっ、お湯、持ってきたんだけど、ちょっと手が離せないからドア開けてー」
「ああ、いま開ける」
扉の向こうに立っていたのはエイダの姪であるベティだった。
もうすぐ11歳になるか、まだ10歳だったかという年頃の小柄な少女で、今は右手にお湯が入った把手付きの桶を持ち、左手に男物の服一式を抱えている。
「キャッ! な、なんで裸のまま出てくるの!」
「ん? ああ、すまん」
裸を見られた程度で恥ずかしがるような歳でもなかったので気にせず扉を開けたが、年頃の少女にとって半裸の異性というのは見るのが恥ずかしいものだったようだ。
ベティは微かに頬を赤く染め、青年から目線を逸らしている。
しばらく前に同様の状況があった時には特に気にしている様子がなかったはずなのに、女の子の成長は早いものだ。
「お湯はここに置くよ! こっちは前に置いてった服。ちゃんと洗濯してあるから!」
少女はそっぽを向いたまま早口でまくし立て、扉のすぐ内側の床にお湯が入った桶を置き、入口の脇にある棚の上に着替えをそれぞれ置いた後、青年の返事も待たずに廊下に出て行ってしまった。
仕方が無いので閉じられた扉越しに少女にお礼を言っておく。
「ありがとう。助かったよ」
桶の縁に引っ掛けてあった手ぬぐいを熱めのお湯に浸してから固く絞り、顔から順番に体を拭いていく。全身を拭き終えてさっぱりとした気分になったところで、先ほどベティが持ってきてくれた服に着替えた。
できれば頭も洗ってしまいたいのだが、乾くまでに時間がかかるので今はやめておく。食事の後にまたお湯を貰えばいいだろう。
ようやく人心地が付いたところで、控えめに扉がノックされた。
「ベティ? 鍵は空いてるぞ」
「……ちゃんと服、着た?」
「ああ、大丈夫だ」
恐る恐るといった感じで少しだけ扉が開き、隙間からそっと覗いて青年がきちんと服を着ていることを確認して、それからようやく少女が部屋に入ってきた。
ベティは腕組みしながら怒ったような表情を作り、青年に対して可愛らしく抗議の声を上げる。
「レディの前にはだ……あんな格好で出てくるなんて、ちょっとデリカシーが足りないんじゃないの?!」
青年からすれば、目の前の少女は外面的にも内面的にもまだまだ子供の範疇だった。しかし、女の子の成長は男の子とは比べ物にならないくらい早いのだと聞いたことがある。
ベティがもっと幼い頃から頻繁に顔を合わせていたせいで、彼女がこの先もずっと子供のままであり続けるかのように錯覚していた。
だが、よく考えれば彼女はもう思春期真っ只中の、大人扱いするのは難しいが完全に子供扱いするのも憚られる、そんな微妙な年頃になっているのだ。
先ほどの出来事に関しては青年が不躾であったことは確かだし、これから先の数日間を【花の妖精亭】で過ごすのに、ベティの機嫌を損ねたままなのは宜しくないだろう。
「これは大変失礼いたしました、お嬢様。お詫びの印としてどうかこちらをお納めくださいませ」
芝居がかった仕草で少女の前に跪き、傍らの背嚢から取り出した一輪の花を少女に向けて差し出した。
「……いつもいつも物で釣られると思ったら大間違いなんだからね。でも、反省してるみたいだから今回だけは許してあげるね」
ベティは子供扱いされて怒っているのだから、機嫌を直すためには大人扱いしてやればいい。そんな安易な考えでとった行動だったが効果は覿面だった。
少女はあっさりと機嫌を直して貢物を受け取り、嬉しそうにはにかみながら胸に抱いた。
「可愛い花……それに、いい香りがする」
彼女が手にしている白くて小さな花は、この辺りでは俗に安眠草と呼ばれている物だ。主に標高が高く寒冷な地域に自生しており、煎じて飲めばその名の通りに鎮静・誘眠作用が得られる。
そんな花を迷宮から出たばかりの青年がどうして持っていたかと言えば、これが迷宮内のとあるモンスターから得られる戦利品だったからである。
迷宮の中には、少女が持つ安眠草と同じく安眠草と名付けられたモンスターが存在する。
樹人の一種とされているこの小型モンスターは、探索者がすぐ近くまで来てもゆらゆらと体を動かすだけで敵対的な行動は一切とらないという変わり種である。
安眠草は探索者に対して危害を加えないだけではなく、安眠草を中心とした一定の範囲には何故か他のモンスターが積極的に近づいてこなくなるという能力を持っていた。
だから、安眠草の周囲はモンスターからの襲撃を避けられる休息場所として知られ、探索者たちに利用されている。
モンスター以外の敵―――つまり、悪意を持つ探索者の侵入を防ぐ効果はなく、モンスターが「近付けない」のではなく「近づかない」だけであるため、安眠草の近くだからといって無警戒に安眠するというわけにはいかないが、それでもかなり有用だろう。
こちらを攻撃してこないと言っても迷宮が生み出したモンスターには違いないので、安眠草を斃せば後には魔石が残される。
運が良ければドロップアイテムとして薬草の安眠草が得られるが、安眠草を傷つける行為は探索者にとって禁忌である。
安眠草が強い衝撃を受けた場合、それまでとは逆に周囲のモンスターを誘引するフェロモンが放出される。
周囲のかなり広範囲に存在するモンスターが安眠草を攻撃した者に殺到することになるので、よほど運と実力を兼ね備えていない限りはまず間違いなく全員が命を落とす結果となるだろう。
得られる対価が莫大であれば、危険を冒してでもも安眠草を狩ろうという探索者も現れるだろうが、安眠草はそれほど高値の付く薬草というわけではなく、獲得できる魔石もほぼ最低質であるため全く割に合わない。
したがって、青年が迷宮から持ち帰った安眠草はモンスターを斃して手に入れたものではない。実は、交換で手に入れたものだ。
あまり知られていない―――正確に言えばこの青年以外は誰も知らない可能性がある―――事実だが、安眠草は甘いものが大好物だった。
黒砂糖の欠片を安眠草に渡してやると、うねうねと歓喜の舞を披露した後に少しずつ吸収し始める。その後、運が良ければお礼として安眠草を受け取ることができるのである。
青年が同じ場所に生えていた安眠草に対して何度か繰り返して黒砂糖の欠片を与えてみたところ、最終的に青年がその場所に行くたびに黒砂糖をねだって踊るようになった。
モンスターを近付けない特性と合わせ、殺伐とした迷宮内での唯一の癒やし要素として青年の中では株が急上昇中である。
安眠草が喜びの舞を披露する光景を何となく重ねあわせながら、青年からの贈り物を胸に抱いて小躍りするベティの頭を撫でた。
青年の手をくすぐったそうな表情で受け入れる少女を見てまだまだ子供だと思ったが、もちろんそれを口に出したりはしない。
「そろそろエイダさんの料理も完成してる頃だろうし、下に行くか」
「あっ、後で私が持って行くから置いてって良いよー?」
青年は中身がきれいなお湯から濁った水に変わってしまった桶を持って廊下に出た。慌てて追いかけてきたベティに対して気にするなと仕草で応える。
「この程度のことで今更遠慮するような仲でもないだろ」
「うんっ! ありがとっ、ケーニチロー」
満面の笑みでお礼の言葉を発したベティだったが、怪訝そうな顔に変わって小首を傾げる。
「あれ? ケンニチローだっけ? ケーイチロウ? ケンチロ?」
「ケンイチロウ、だよ」
「そうそう、ケ、ン、イ、チ、ロ、ウ。ケンイチロー。ケンイチロってずっと東の方にある島から来たんだっけ? 向こうの人ってみんなこんな感じの名前なの?」
「呼びづらいなら今まで通りに『ケン』でいいぞ。……どうだったかな、東の方の島でどういう感じだったかは分からない、かな」
「べつに教えてくれたっていいじゃない。秘密にすることじゃないでしょ!」
青年―――ケンイチロウはずっと東の方にある島国とは縁もゆかりもないので、秘密にしているわけではなく本当に知らないのだ。
だが、一言で事情を説明するのは難しい上に、家族のように思っている相手に適当な嘘を言うのもためらわれる。
だから左手にまとわりついてくる少女を適当にはぐらかしながら、並んで階段を下りていった。
「おや、ちょうどいいタイミングで降りてきたね! もうすぐできるからちゃんと手を洗ってきな。桶はいつものところに置いといてくれれば後はやっとくよ。ベティ! いつまでも遊んでないでさっさと料理を運んどくれ。その前にあんたも手を洗うんだよ! 指の股も爪の間もしっかり全部ね!」
「はーい」
エイダの叱責をくらって小走りになったベティの後に続いて洗面所に向かう。
これから色々とやらなければならない事、考えなくてはいけない事があるが、今は久々に食べるまともな食事を堪能することにしよう。