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迷宮探索者の日常  作者: 飼育員B
第三章 過去よりの使者
35/89

第33話 行動開始

※ご注意

ご覧になっている作品は「迷宮探索者の日常」です。

「盗賊ギルド員の日常」や「幼馴染がヤンデレなんだが、もう俺は限界かもしれない」ではありません。


碌なプロットも書き溜めもなくやっているので一度ズレた軌道がなかなか戻せません。最低でもあと3話くらいはこんな感じだと思います。

 ケンは盗賊ギルド【夜鷹】によるリサ・ウェッバー誘拐計画の発動まで、なるべく普段通りの日々を過ごすように心がけている。

 しかし"鼠"の頭領に会った日以来、ベティとグレイス(リサ・ウェッバー)からの監視が何故か厳しくなってしまったので、普段通りに生活しようにも精神がどんどんと削られてしまい、なかなか思い通りになっていない。

 恐らく【花の妖精亭】で生活している女達にはとっくに隠し事があると見抜かれているだろうが、隠し事の内容さえ漏れてしまわなければ問題が無いだろうと思う。

 ただし、隠し事の内容を強く追求されて逃げきれなかった場合に備えて、本当は人に知られて欲しくはないが知られても問題ないような小さめの秘密を幾つか準備しておく必要があるかも知れない。



 監視を強めている女達の言い分はこうだ。

 普段、迷宮に入らない日はだいたい夕食の頃に【花の妖精亭】まで帰ってくる男が、その日は深夜になっても帰って来なかった。

 事故にでも遭ったのかと心配しながら眠りに就いたら、翌朝には何食わぬ顔で食事を摂っていた。男に対して何かあったのかと尋ねてみても、適当にはぐらかすだけで肝心な部分は何一つ答えない。

 そしてその日の夕方、今日はいつもより大分早い時間に帰って来たと思ったら、いきなり装飾品(アクセサリ)を「今までの感謝の印」や「お近づきの印」という口実で手渡して回った。

 これまでずっと、誕生日ぐらいにしか個人的な贈り物(プレゼント)なんてしてこなかった男が、特に何の祝い事もなく記念日でもない日に前触れもなく、突然に、である。

 しかも、ここ数日はベティとグレイスを何処となく避けていた印象があったのに、その日を境に自分から積極的に話しかけるようになったのだ。


 怪しい。

 特に勘が鋭くない人間でもそう思っただろう。

 朝帰り、突然のプレゼント、急に親しげになった態度。

 これらの事実を女たちの勘と感情という色眼鏡(フィルタ)をかけて見てみると、一つの言葉が浮かび上がってくる。

 「浮気」である。

 もしも誰かが「ケンは誰とも恋人関係には無いので浮気ではない」と主張するのであれば、道を歩く時は馬に蹴られないように気を付けておいた方が良い。犬に喰われないように注意する必要もあるかも知れない。

 邪魔はしていないなどという言い訳は、馬や犬が聞いてくれるなんて期待しない方が良いだろう。



 もちろんケンの側にも色々と言い訳がある。

 何をしていたのかと尋ねられても"鼠"の頭領から聞いた話は当事者達に教えられるような内容ではないし、なるべくなら【黒犬(盗賊ギルド)】とケンの間に協力関係が在る事は隠したままにしておきたい。

 急にグレイスに話しかけるようになったのも、出来る限り彼女の行動予定を把握しておきたかったからだ。

 食事時にグレイスに話しかけると大抵の場合はハンナが隣に居るし、3人で話をしているとまず間違いなくベティが寄って来る。1人だけ邪険にするのも気が引けるので、そういう時は出来る限りベティとも話をするようにしている。

 グレイスの商売に関わる面会相手の素性は【黒犬】側でも調べているだろうし、誘拐計画が実施まで秒読みとなった時点で"鼠"の頭領から連絡が来るはずなので、ケンがわざわざ情報を集める必要は無いのかも知れない。 しかし、これから起こる事を考えると、グレイスとはなるべく親しくしておくに越したことはない。


 アクセサリをプレゼントした事にしても、そこに男女の感情は一切存在しなかった。

 単に、グレイスにある物(・・・)を文字通り肌身離さず身に着けさせておきたいと考えた場合に、アクセサリ以外の物が思いつかなかっただけである。

 初めはグレイスだけに贈ろうと考えていたのだが、誰かが頭の中で「彼女(グレイス)1人だけを特別扱いすると恐ろしい結果を招く」と囁いてきた。

 確かに、贈ったアクセサリが特別な意味を持った物だと周囲の人間に認識されてしまうのは都合が悪いので、日頃から付き合いのある女性全員、つまりエイダ、ベティ、グレイス、ハンナの4人に対してそれぞれ1つずつ贈る事にしただけだ。

 どんな種類のアクセサリにするかで少々悩んだが、最終的にロケットペンダントにした。ペンダントなら服の下に隠しておくこともできるので、常に身に着けておくのが難しく無いと思ったからである。

 最初に思いついたのは指輪だったが、仕掛け(・・・)を施すには小さすぎたので廃案となった。

 そもそもグレイスの指のサイズが判らないし、この世界で「男が女に指輪を贈る」行為にどれほどの意味が有るか判然としなかったので、できれば避けておきたかったという理由もあったが。


 この辺りの行動について上手く説明が付けられるような嘘を思いつければ良かったのだが、ケンという男は相手の嘘を見抜く能力はそれなりのものを持っていても、相手を騙す能力の方はお粗末極まりないので、最初から嘘を吐こうとは考えなかった。

 "鼠"の頭領か誰かに嘘の内容を考えさせて完璧な台本(ストーリー)が描けたとしても、主演を務めるケンが大根役者では騙されてはくれまい。




 いや、ケン自身も今の状況がペンダントを渡すときに少し―――かなり失敗した結果だというのは解っているのだ。

 グレイス(リサ・ウェッバー)にとってグレンという男が特別な人間であるというのはこの数日でよく理解していたが、顔がよく似ているだけで別人であると主張しているケンが彼女の中でどういった位置付けにあるのかが不明だった。

 ケンがただ普通に贈り物をしただけでは、それがグレイスがいつも身に付けるアクセサリとしての地位に納まる事ができるという確信が持てなかった。

 だから、ペンダントを渡す時につい過剰に念を押してしまい、それをベティに見られてしまったのは痛恨事だった。


「グレイスさん、少しお時間を頂けませんか?」

「ええ、構いませんわよ」

 ケンがグレイスに声を掛けたのは彼女が外出先から戻ってきた直後で、ハンナを引き連れて【花の妖精亭】の二階を歩いている時だった。

 奥から3番目のケンが泊まっている部屋の前を通り過ぎ、奥から2番目のハンナの部屋の前にちょうど差し掛かった場所である。

 宿の部屋だと言っても夜に未婚女性の部屋を訪ねるのは気が引けるし、かと言って自分の部屋に招き入れるのも問題が有る。食堂という衆人環視の中でプレゼントを渡すのは気恥ずかしかったからこの場所を選んだだけで、渡すのを秘密にしようとしたなんていう意図は無い。


「では、私は一足お先に部屋に入らせていただきますね」

 グレイスから目配せを受けたハンナが扉を開けて自分の部屋に入ると、その場に居るのはケンとグレイスの二人だけになった。

「どうやら私の事をお待ちになっていたようですけれど、どうかなさいましたの?」

「ええ、実は町をブラブラと歩いていた時に、こういった物を見つけたんですよ」

「まあ!」

 そう言いつつ布の包みを解いてペンダントを見せると、グレイスの目が輝いた。

 そのペンダントは、銀を編んだ細めの鎖で構成されたネックレス部分に、比較的小さめのペンダントトップが付いただけのシンプルな物だ。

 鎖の部分は門外不出の特殊な加工によって細くてもそう簡単には切れないという触れ込みで、実際に細さの割にはかなり丈夫にできていた。普通の銀の鎖に比べてかなり値が張るものだったが、目的を考えると少々の事で千切れてもらっては困るのでこちらを選択している。

 ペンダントトップの方は服の下に隠すことを考え、なるべく邪魔にならないように小型であることを優先してはいるが、ケンなりにグレイスに似合いそうなものを選んだつもりだった。


「こういった物の見立てに自信があるわけではありませんが、これは貴女に似合うのではないかと思いまして。お近付きの印として受け取って頂けませんか?」

「……よろしいのですか?」

「ええ。グレイスさんのためにと考えて手に入れた物ですから、受け取って頂けないと逆に困ってしまいます」

「そこまで仰るのであれば、これ以上遠慮するのは却って失礼になってしまいますわね。それでは、有り難く受け取らせていただきますわ!」

 そう言って、ケンと向かい合って立っていたグレイスが体全体をくるりと回転させてケンに背中を向けた。その状態で腰まで伸びた光沢のある金色の髪を掻き上げて、首筋を露わにする。

 全く陽に焼けていない真っ白なうなじが艶かしい。

 グレイスに対しては細すぎる体型のせいで普段はあまり「女」であることを意識していないのだが、首筋から漂う甘い匂いにどきりとしてしまう。

 当然の事ではあるが、中性的な少年のように見えてはいても男と女は全く違っている。


 グレイスの唐突な行動に一瞬だけ戸惑ったが、これはお前が付けろという意思表示だと受け取ったので、なるべくグレイスの身体に触れないように注意しながら付けてやる。

 ケンが手際良くペンダントの留め具を填めると、グレイスが自分でペンダントの位置を調節してからケンの方に向き直った。

 何故か興奮したように目を潤ませ、頬がほんのりと赤くなっているように見える。

「いかがでしょう?」

「とても良く似合っていると思いますよ。グレイスさんの場合は、何を付けても似合ってしまいそうですけどね」

「まあ、お上手ですのね……」

 グレイスは付けたままのペンダントを掌の上においてじっくりと確認し、開閉式になっているペンダントトップを何回か開け閉めする。

 そして納得したように頷くとケンに向かって微笑んだ。

「改めて、有難うございます。大切にさせていただきますね」

「どういたしまして。しかし、グレイスさんのような方に私の選んだアクセサリをずうっと(・・・・)付けて頂くとなると緊張してしまいますね……私のせいでグレイスさんの感性(センス)が悪いと言われてしまわないか、今から心配です」

「ずっと……?」

 不思議そうに首を傾げるグレイスの反応には構わず、さらに畳み掛ける。

 こういったものは勢いが重要なのだ。


「ああ、でもずうっと(・・・・)付けておくならこのくらいの大きさでちょうど良かったかも知れませんね。服の下に隠すのも簡単ですし、寝ている時にずうっと(・・・・)付けたままにしても邪魔になりませんからね。このペンダントの鎖は細いように見えてもとても丈夫な物ですから、末永くずうっと(・・・・)使っていただけると思いますよ」

「ずっと……ずうっと……ええ! ケンイチロウ様から頂いたペンダント、とても、とっても気に入ってしまいましたので、これから先はずうっと肌身離さず身に付けさせて頂きますわね!」

 グレイスがケンの肩越しに彼の背後をキッと睨みつけた後、一瞬だけ勝ち誇ったような表情を浮かべた。

「では、これで失礼させていただきますね」

 すぐに元の穏やかな笑顔に戻ってケンに一礼すると、廊下の一番奥にある彼女の部屋に入っていく。



 グレイスの部屋の扉がパタリと音を立てて閉じられた瞬間、ケンは背後から今までに感じた中で一二を争うほど強烈な殺気を受け、反射的に振り返った。

 そこに、阿修羅が居た。


「ど、どうしたんだ、ベティ?」

「べつに……これ、洗濯物」

 阿修羅ではなくケンの洗濯物を持ったベティだった。

 完全に感情が抜け落ちたかのような表情をしている。ベティとの付き合いはもう5年以上になるが、こんな状態の彼女は今まで一度も見た事が無かった。

 完全な無表情を保ったままケンに洗濯物を渡し、すぐに踵を返して一階に戻ろうとするベティを慌てて呼び止める。

「ちょっ、ベティ、ちょっと待ってくれ。渡したい物があるから部屋まで来てくれないか?」

 ベティの表情は全く変わらなかったが、頼んだ通りに付いて来てくれるようだった。

 ベティを伴って部屋の中に入り、とりあえずベッドの上に洗濯物を放り投げてから背嚢の中を漁る。


「本当は、今夜ベティが部屋まで来た時に渡そうと思ってたんだが、ちょうど良いから今渡しておくよ」

 ケンが背嚢の中から取り出した物を見て、たちまちベティの目が輝きだす。

「わたしの分もあるの?!」

 グレイスに渡したペンダントを包んでいた物と同種の布を解いて、中から取り出したペンダントをベティに見せる。

 鎖の部分は全く同じものだが、ペンダントトップはグレイスに渡した物とは全く違ったデザインになっている。ケンなりにベティに一番似合うと思った物を選んだ結果だ。

「へー……キレイだねー。ケン、ありがとっ!」

 満面の笑みを浮かべたベティはケンが差し出したペンダントを受け取らず、くるりと背中を向けて首までしかない短めの髪を掻き上げた。

 これは間違いなく、グレイスにやった事を自分にもしろと主張をしているのだろう。断る理由も度胸も無かったので、ベティにもペンダントを付けてやった。

 ペンダントが丁度良い位置に来るように調整しながらこちらを振り向き、ロケットを数回開け閉めする。

「ケンから初めて貰ったペンダント、大事にするね! これからずーっと(・・・・)、起きてる時も寝てる時も絶対に外さないで付けておくから安心してね!」

 ニッコリと微笑んだベティは、ペンダントを見せびらかすように付けたまま部屋を飛び出していった。



 何故か冷や汗が止まらない。



 その後、エイダにペンダントを渡した時には有り難い助言を頂いた。

「あら! ありがとうね。他人からアクセサリなんて貰ったのは十年以上ぶりかねぇ……それはそうとアンタ、多少のコトは男の甲斐性って言ってやれるんだけどさ、それが許せる女と許せない女が居るんだからちゃんと見極めてから手を出さなきゃダメじゃないのさ。あの2人は見るからに許さない方なんだから、あんまり下手を打って眠ってる間に酷いことにならないように気をつけなさいよ! ウチで刃傷沙汰は御免だからね」


 そして、ハンナからは感謝の言葉と少々の苦情を頂いた。

「お嬢様、とっても機嫌が良いみたいですよ。ありがとうございました! あ、私にも頂けるんですか? すごく嬉しいんですけど、何と言うか、ちょっとお嬢様の前では付けられませんよね……」





 ここ2週間で迷宮探索の勘もだいぶ取り戻せている。

 だから本当はほとぼりが冷めるまで迷宮の中に逃げ込んでいたいくらいだったが、誘拐計画を打破するまではそうもいかなかった。

 世界広しと言えど、迷宮の外よりも中の方が安らぐという男はそうそういないのでは無いだろうか、などと考えても仕方がない事を考える。


 リサ・ウェッバーの誘拐計画を知る前と同じように日帰りで迷宮に入る日と訓練を行う日を交互に繰り返し、宿に帰る前に"鼠"の頭領からの情報が残されていないかを確認すること1週間。

 遂に、誘拐計画が実行直前の段階まできたという連絡があった。

 その日の夕方に【花の妖精亭】に帰った時、これからはまた以前のように数日続けて迷宮の中に潜ると宣言して、翌日の早朝には約1ヵ月間連続して泊まっていた部屋から迷宮探索に必要な荷物を全て持ち出した。


「では行ってきます。恐らく明後日の夜には戻ってくると思いますが」

「はいよ! あんたなら大丈夫だと思うけどさ、くれぐれも気を付けるんだよ」

「いってらっしゃーい」

 店の入り口でエイダとベティに見送られながら出発する。部屋の窓からこちらを窺っているグレイスに手を上げて挨拶をすると、手を振って見送ってくれた。


 人通りの殆ど無い早朝の町を迷宮入口前広場に向けて歩いていく。

 グレイスが付けた監視の気配は、彼女が【花の妖精亭】に姿を現した翌日からは感じなくなっていたが、ここ2,3日はまた後頭部がむずむずとするような、誰かに監視されている時の感覚が復活していた。

 これは恐らく、グレイスの誘拐関係でケンの事を監視している【夜鷹】の盗賊どもが発する気配だろう。もしかしたら、協力関係にある【黒犬】から警護代りに付けられた監視人の気配も含まれているかも知れないが。

 こちらが監視に気付いている事はおくびにも出さない。

 ただ、監視している人間を意識して探そうとしなくても、視界の端にチラチラと入ってくるのが鬱陶しい。グレイスの連れてきた配下ならば、気配は感じさせても決して姿は見せなかったのだが。

 これは【夜鷹】の下部組織とやらの練度があまりにもお粗末すぎるのか、それともケンが舐められているだけなのか、一体どちらだろうか。

 敵が無能で困る事は無いので、別にどちらでも構わない。



 やがて目的地である迷宮入口前広場に辿り着いた。

 広場に入った瞬間に監視の目が緩むのを感じ、あまりにもお粗末だと内心で嘲笑う。

 迷宮に入れるようになる朝の鐘(午前6時)を前にした広場には、いつものように数十人の迷宮探索者が屯していた。

 ここ最近は2日に1回はここに顔を出しているので、今更ケンが来た事を不思議に思う奴はいない。広場にいる探索者達はちらりとこちらを見るくらいで、すぐにそれまでしていた雑談や探索準備を再開する。


 朝の鐘が鳴って徴税官が姿を現すと、一斉に探索者が群がって次々と迷宮入り口を囲む柵の中に入っていく。人が少なくなる頃を見計らってケンも同じようにした。

 いつものように"順路"を固まって進む探索者達の中で一番最後に迷宮の入り口を潜り、すぐに集団から距離を置く。

 ケンがいつの間にか集団から離れているのはいつも通りの事なので、仮に集団の中の誰かが居なくなった事に気付いても特に不審には思わないだろう

 集団の中で最も新米の探索者パーティが自分たちの狩場に行くために"順路"を離れるより先に、ケンが誰にも気付かれる事なく横道に逸れていった。


 当然だが、今日は迷宮を探索するために中に入った訳ではない。


 独りきりで30分ほども歩けば、本日の目的地に到着する。

 そこは、ケンが知る限りで最も迷宮入口から近い安眠草(スリーピング・グラス)の発生場所だ。

 安眠草の特殊能力であるモンスターを寄せ付けないという効果のせいか、それとも入口から近すぎるせいなのかは判らないが、ここに来るまでの通路の中にはモンスターが全くと言って良いほど湧かないので、道に迷ったという理由以外で探索者が訪れる事は皆無である。

 しかし、ケンは道に迷ったせいでここに来た訳ではないし、今日この場に来ているのは彼だけではない。

 安眠草が生えている場所に近づいていくにつれて、だんだんと人の気配が強く感じられるようになってくる。一人ではなく複数人がそこに居るようだ。

 目的地前の最後のカーブを曲がりきるとその気配がさらに強くなり、<持続光>の魔道具によるものと思われる光が漏れてくるようになった。

 ケンは気にせずそのまま進んでいく。



 安眠草が生えている小部屋の入口近くには見張りらしき男が立っていたが、呆れた事に完全に気を抜いていたようだ。

 <持続光>の光が届く範囲に音もなく現れたケンに気付いてぎょっと目を剥き、慌てて武器を構えようとしたところで現れた人間が誰であるかに気付いたようだ。その男が武器を構えるのを止めてほっと息を吐く。

 だが、ケンの方はまだ気を抜かない。

 無言のまま事前に取り決めておいた合図を見せると、その男―――【黒犬】の下っ端盗賊(シーフ)が慌てて合図を返してきた。

 間違いなく待ち合わせの相手であると確認できた後で、ケンも少しだけ気を抜いた。

 "鼠"の頭領に付いていた護衛2人は流石だったが、【黒犬】も下っ端の方は大して練度が高くなさそうだ。

 ケンの黒尽くめの格好を見て仲間だと思って気が抜けたのだろうが、それが似た格好をした別人だったらどうするつもりなのだろうか。


 小部屋の中にケンの来訪を知らせに行く男の後に続いて中に入る。

 そこには、先程見張りに立っていた男を含めて5人が居た。部屋の隅に生えている安眠草の周囲には、万が一にも衝撃を加えないようにするためなのか鉄製の柵が作られている。

 全員が硬革鎧ハード・レザー・アーマーを着けて思い思いの武器を持っているので、全員が人相が悪いという事実にさえ目を瞑れば単なる探索者パーティにしか見えない。


 小部屋の中に居た男達は横一列に整列してから全員で腰を折り、声を合わせて小声で怒鳴るというなかなかに器用な真似をしてきた。

「「「「「お疲れ様です、叔父貴殿」」」」」

「叔父貴?」

 ケンが発した疑問に対し、中央に立っているリーダーらしき男が代表して答える。

「"鼠"のおやっさんから『黒鎚は俺っちの兄弟分として扱えよ』というお達しがあったもんで、そうするとあっしらにとっては叔父貴ということになりますんで」

 単に協力関係を結んだだけだったはずだが、いつの間に盗賊ギルドの幹部なんかと義兄弟になってしまったのだろうか。

「……まあ、今は良い。だが、これから先は俺とお前たちはただの探索者パーティで、俺はリーダーでも何でもない平メンバーだ。呼び方を含めた態度には気を付けるようにな」

「「「「「へいっ!」」」」」

 上にそう聞かされて、それに合わせて適切な態度を取ろうとしている彼らに向かって文句を言うのは筋違いな気がしたので、この場では必要な注意だけをするに止めた。

 文句はこの後で"鼠"の頭領にたっぷりと言えば良い。



「それで、俺と入れ替わるのは誰なんだ?」

「へいっ、あっしでさあ!」

 列の端に立っていた男が元気よく手を挙げた。その男はケンと同じように黒い髪で、背格好もケンとよく似ている。

 今着ている鎧と服を脱いでその男から渡された服と鎧を着ける。愛用の鎚矛(メイス)も男が持ってきた普通のメイスと交換して腰に下げた。

 背嚢も自分がここまで持ってきた物ではなく、その男の背嚢を借りて必要な荷物だけを移した。


「これが黒鎚ですかい……」

 男がキラキラとした瞳でケン愛用の真っ黒なメイスを捧げ持っていた。強面の男が少年のような表情を浮かべているのは、なかなかに奇妙(シュール)な絵面である。

「……別に振ってみるぐらいは良いが、壊すなよ」

「そりゃあもう! 叔父貴の荷物はあっしが責任を持って預からせて頂きやす!」

「頼んだぞ。水は多めに持ってきたし、中に入ってる食料は全部食っても良い……保存食だからあんまり美味いもんでもないがな。ただし、これから最低でも2日間はここで過ごすんだからちゃんと配分を考えろよ。それとこれを渡しておく。暇つぶしぐらいにはなるだろう」

「黒砂糖ですかい? あっしはあんまり甘い物は……」

 怪訝そうにする男の目の前で、黒砂糖の小さな欠片を袋から取り出して安眠草に投げ与える。すると安眠草が上手い具合に空中で受け止め、喜びに踊りだす。

「へえー! こいつは甘い物が好きなんですかい。可愛い奴やのう」

 強面がデレデレしている様子は全く可愛く無かった。


 その場でできる全ての準備を整え、これから迷宮の外に向けて出発する。

「迷宮の入り口に居る奴らはこっちの事なんて碌に見てないから、よほど変な行動をしない限り気づかれる心配しなくていい。だが、くれぐれも慎重にな」

「「「「へいっ」」」」

「行ってらっしゃいませ、叔父貴殿!」



 ケンはこれから迷宮の外に出て"鼠"の頭領と合流する。

 大した偽装ではないが、恐らくケンを監視している奴らは「黒尽くめの男」を追っているはずなので、この程度でも十分誤魔化せるだろう。

 グレイス(リサ・ウェッバー)を誘拐する【夜鷹】の盗賊が目の前に現れてからが本番だ。

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