第30話 監視される日常
グレイスが再来襲した日から数日が経過した。
当然だが、まだグレイスとハンナの2人とも【花の妖精亭】に滞在を続けている。
グレイスの行動はケンが想像していたよりもずっと大人しい。
エイダやベティにそれとなく聞いてみると、日中はずっと外出していたり【花の妖精亭】の食堂に人を呼んで話し合いをしていたりと忙しく過ごしているようだ。
再来襲初日の夕食時に本人から聞き出した「ここだけの話」によると、グレイスの実家は王国東部の町に本拠を構える商家で、後継者候補の1人である彼女は王国西部にあるマッケイブで商売を興すのが目的らしい。
商売の才能を見極めるために実家の縁故は使用してはいけないと言われているので、家名は明かせないそうだ。
彼女が言った内容がどこまで本当なのかは分からない。
全てが本当の事でケンの正体を見極めるのは物のついでなのかも知れないし、ケンの周囲に来るために急遽でっち上げた物語なのかも知れない。
かなり上手い口実だ、とケンは思う。
後継者レースのためだと言えば、少し観察しただけで良家出身と判明するようなうら若い女が共を1人しか連れずに遠方からはるばるやってくる理由になるし、宿への長期滞在するのも当然の事だ。
【花の妖精亭】は商業地区の中にあるから比較的交通の便が良いし、庶民向けの宿なので宿泊費もそれほどかけずに済む。
商売を始めようと思っているのなら頻繁な外出も全く不自然ではないし、人と会って話をするのも当然だ。
コネの使用禁止は家名を隠す理由にも、念の為に偽名を使う理由にもなる。
何よりもケンに対して嘘をつく理由を作っておけば、辻褄が合わない部分を突かれた時に誤魔化しが効くというものだ。
周囲の人間から不審に思われないために日中は普段通り迷宮に潜ったり訓練をしたりしているので、ケンが近くに居ない時のグレイスの行動はエイダやベティに聞くしか無い。
その時、大人し過ぎるお嬢様を不思議に思って細かい部分まで根掘り葉掘り聞いていたせいで、藪から蛇が出てきてしまった。
「ケンってさあ……グレイスさんの事好きなの?」
「にゃ、何でそんな」
ある日の夜、ケンの部屋でいつものようにベティとリバーシをしている最中の唐突な質問に思わず吃ってしまう。
「だって、いっつもグレイスさんはどうしてたーってわたしとか伯母さんに聞いてるじゃない」
パタンパタンと白黒の板を裏返しながら、ベティが何でもない事のように言う。
確かにグレイスの事は気にかけているが、それは恋愛感情とは全く縁遠い理由からである。
「いや、そういうのじゃない。これから先しばらく同じ宿に泊まる人達だから、なにか困った事でもないかってちょっと気にしてただけだよ」
「そーお?」
ベティが疑わしげな目を向けて来たが、ケンとしては誤魔化しはあっても嘘を言っているつもりはない。
「でも、グレイスさんの方はケンの事が気になってるみたいだよ? ケンの事をよく聞かれるし、いーっつもケンの事を目で追ってるもん」
「それは、俺が昔の知り合いに似てるからだろ」
「そうかなぁ? グレイスさんも同じ事言ってたけど……ただ似てるだけならケンがどんな人で何をしてるのかーなんてあんなに気にしたり、ケンの事をあんな目で見つめたりしないと思うけどなー」
やはり、グレイスはグレイスでケンの事について調べようとしているのは間違いないようだ。
彼女に周囲を探られても特に困る情報は出てこないはずなので、敢えて止める必要は無い。
肉体的にはどうなっているか不明だが、精神的には完全に別人なのでケンの行動から一切グレン某を思わせる情報は出てくるわけがない。
5年前に着ていた服以外の所持品を全部盗まれてしまった上に、その時の服もとっくの昔に着られなくなって捨ててしまったから所持品から辿るのも不可能だ。
「あんな目って、どんな目だよ」
「恋する乙女の目。伯母さんは『昔の男に捨てられて、それでも忘れられずにずっと追い続けている女の目』って言ってた。女のカンがビビビビッと来たんだって」
あの人はまだ11歳の子供に対してなんという事を言っているのだろうか。
しかし、女の勘というのはそう馬鹿にした物でもない。恋愛感情云々を別にすれば、エイダの言っている事が真理を穿っているのは間違いないのだ。
グレイスがケンを追うと決めたのも女の勘だろうか。だとすれば諦めさせるのには相当骨が折れそうだ。
その後も主な話題はグレイスの事についてでであり、そこにハンナが少々と言ったところである。
ハンナはエイダの作る料理が甚く気に入ったようで、毎食のように太る太るとボヤきながらもしっかりお代わり分まで完食しているようだ。
日中はグレイスと行動を共にしていることが多いハンナだが、1人だけでどこかに出かけていることも有るらしい。
ただし、ベティのハンナに対する認識が「太い三つ編みにリボンを付けている人」というものだったので、三つ編みを解いた状態で店内に居るのに気付いていないだけという可能性もある。
やがて日課とも言えるリバーシ五番勝負が久々のケンの勝利で幕を引き、ベティが部屋から去る時間となった。
「グレイスさんって、本当はそんなに悪い人じゃないと思うから、泣かせちゃだめだよー?」
「だから、好きとかそういう事じゃないって言ってるだろ。それにあんな美人が俺なんか相手にしてくれないよ」
「大丈夫、わたしも伯母さんもけっこうケンの事好きだよ? 伯母さんって今はあんな感じだけど若い頃はすっごい美人だったってみんな言ってるし、わたしも小さい頃の伯母さんとそっくりだってみんなに言われるから、たぶん美人になると思うよ?」
誰がどう聞いても傲慢極まりない発言だが、ベティの発言は単なる自惚れだけでもない。
伯母であるエイダの姿を頭の中に思い浮かべて年齢と体重を半分にして化粧を施せば、王の後宮に居たとしても不思議ではないくらいの美女が出来上がる。
姪であるベティはそんな伯母のエイダの子供の頃にそっくりだと云う話はケンも聞いたことがあるが、それが本当であれば間違いなく美人になるだろうし、今の時点でベティは十分に美人になる事を予想できる顔立ちをしている。
「いや、だからそういう問題じゃなくて……あんまりそういう事を他人の前で言うなよ?」
「ケン以外には言ったことないから大丈夫だよー。でも、ケンがこれからもずーっと独身だったら、私がケンと結婚してあげるから安心して良いよ? 私は別にどっちでも良いんだけど、前に約束しちゃったからそうしてあげないとケンがかわいそうだもん。約束したんだったらちゃんと守らないとね!」
「はいはい、ありがとう」
約5年前に今よりも幼いベティと出会ってからある程度の月日が経ち、ケンに懐いた頃に何度かベティが「けっこんしてあげる」と言っていたことを懐かしく思い出す。ここ最近は全くそういう事を言わなくなってしまったので、若干の寂しさを感じつつも姪を可愛がる叔父の心境で成長を喜んでいたのだが。
ニコニコと機嫌良さ気に微笑むベティに他意は無さそうだが、唐突に言い出した所が不気味―――というのはグレイスに抱いた勝手なイメージを女性全般に広げ過ぎたせいだろうか。
微笑むベティの頭を撫でながら礼を言い、片付けを終えた少女が扉を開けて廊下に出たところでくるりと振り返った。
「それに、グレイスさんはあんまりケンの好みじゃないもんね! 伯母さんも大きいし、わたしも多分これから大きくなるから私の方が良いよね?」
ケンと3メートルも離れていない距離に立っているのに、何故かベティは声を少し張り上げるようにして話している。
「何の話だ?」
「だって、ケンは大きい方が好きでしょ? おっぱい」
あっけにとられたケンを部屋の中に残し、扉を閉めて立ち去っていくベティの足音がやけに大きく聞こえる。
暫し呆然とした後、何も聞かなかった事にして灯りを消した後にベッドに潜り込む。
胃のあたりがキリキリと痛むが、用意している胃薬は目が覚めてから飲むことにして何も考えずに目を瞑った
翌朝、いつもより遅い時間に起きだしたケンは食事を摂ってから【花の妖精亭】を出た。胃薬は忘れずに飲んである。
ケンが食事を摂った後、部屋に戻ろうとしている時にちょうどグレイスが2階から降りて来るのを目撃していた。
顔を合わせたベティとグレイスの間に一瞬火花が散ったように見えたが、実際には2人ともにこやかに挨拶を交わしていたので単にケンが見間違えたのだろう。
最近は精神的な疲れが酷いので、幻覚ぐらい見えてもおかしくはない。
黙って2階に上がって弩と太矢を収めた袋だけを持ち、いつもの場所で射撃訓練を行う。
ここ最近は30メートルの距離で無風という条件下なら、直径15センチメートルの円の中に10発中9発以上は命中させられるようになっている。
世の中には倍以上の距離からこれ以上の精度で命中させてしまうような達人も存在するが、その域に到達するためには努力だけではなく天禀の才も必要になってくるだろう。
射撃に関して人並み以上にはなれないと思い知っているので、それなりには満足している。
小一時間ほど訓練をこなしてから【花の妖精亭】に戻り、お湯を貰って汗を落としてから他所行きの服に着替える。
今日は魔術師ギルドのジョーセフを訪れる積もりだった。前回会った時に「10日に1回は顔を出せ」と言われていたが、グレイスにまつわる様々な事があったせいで一度も顔を出していなかった事を思い出したのだ。
急に思い出したので面会予約は取っていないが、会えないならそれで構わない。顔を出したことだけ伝えてもらえば一応は義理を果たした事にできる。
急ぐ理由もないので周囲の景色を見ながらゆっくりと歩いて行く。辿り着いた魔術師ギルドの本部、魔術大学院の建物はたった2週間では何一つ変わらない威容を誇っていた。
正面玄関を入ってすぐの所にある受付窓口で用件を伝える。
「すいません、ジョーセフ師に面会をしたいのですが」
「はい、ようこそ魔術師ギルドへ! ……ジョーセフなんて方は居らっしゃったかしら?」
窓口で2人並んでいた受付嬢のうち、前回の来た時に会議室まで案内してくれたボブカットの活発そうな女性に話しかけたのだが、残念ながら彼女の方はケンの事を覚えてはいないようだった。
ジョーセフという名前を聞いて疑問符を浮かべるボブカットに、隣に座っているロングヘアの大人しそうな方の受付嬢が何事かを囁いた。
「えっ……えっ! ホント?! ジョーセフ様ってギルド長のことなの?!」
前回会った時の態度と発言内容からしてかなり高位の幹部なのではないかと疑っていたが、かなりどころではなく最高位だったらしい。
ロングヘアが呆れたような半眼でボブカットを睨む。部外者のケンならともかく、受付嬢という役目にある人間が最高幹部の名前を知らないのは問題が有り過ぎる。
「コ、コホン……失礼いたしました、お客様。ギルド長に面会をご希望との事ですが、お約束はございますか?」
「いいえ、ありません」
「申し訳ございませんが、ギルドの幹部級以上との面会を希望された場合、事前のお約束が無い限りはお取り次ぎできない規則となっておりまして……」
この世界においては珍しい事に、事前の予約をしてなければ相手が在席中かどうかすら教えてはくれないようだ。大抵は断られる事は前提として話を通すぐらいしてくれるものだが。
訪問したことだけを後で伝えてもらえるように言い残して帰ろうとしたが、その時にジョーセフから受け取った指輪について思い出した。駄目で元々と一応見せてみることにする。
「以前にお会いした時、これを見せれば話が通るようにしておくとジョーセフ師が仰っていたのですが……」
「こ、これは!」
ジョーセフから貰った指輪が受付嬢からよく見えるように左手を挙げると、ボブカットがケンの左手首を掴んで自分の顔の前に引き寄せ、中指に填めた指輪に限界まで顔を近づける。指先に当たる吐息がくすぐったい。
指輪に刻まれた魔術文字と、手元に置いてあった本を見比べながら何かを確認しているようだ。
「これは間違いなくギルド長の……思い出した! あなたは、いえ貴方様はこの前ご案内させて頂いた方ですね?!」
たっぷり30秒以上もかけて指輪の真贋を確認した後、次にケンの顔を穴が空くほどに見つめた事でようやくケンを思い出したようだ。
するとボブカットが握りしめたままだったケンの手首を離し、そしてそのまま両手でそっと指を絡めるようにして握ってくる。
ケンの顔を興奮に潤んだ目でじっと見つめ、玄関ホール全体に響き渡るくらいのはっきりとした声でとんでもない発言を始めた。
「一目見た時から好きでした! 結婚を前提にお付き合いしてください!」
一目見た時も何もつい先ほど思い出すまでずっと忘れていたはずなのに、この女は何を言っているのだろうか。随分と都合のいい記憶回路を持っているらしい。
ホール中に居た全員の視線が受付に集まり、隣のロングヘアが額に手を当てて嘆息する。
ケンが何とも言えずにいると、受付窓口の背後にあった扉からコツコツという足音高く一人の女性が歩み寄ってきた。受付嬢の2人より10歳ばかり年嵩に見えるその女性は氷のように冷たい美人で、フォックスフレームの眼鏡がよく似合っている。
その女性は手に持っていた分厚い本を大きく振り上げ、背表紙でボブカットの頭を叩いた。
紙の束と頭蓋骨が当たる音が大きく響く。
「い゛っ」
硬くて重量のある物で叩かれたボブカットが机の上に突っ伏した。そんな状況でもケンの手を離さずにいる根性は賞賛すべきなのだろうか。
「お客様に対して何をしているんですか、アイリス? ……しばらくは口も開けないようなので、ジェナ、貴女が説明してください」
「は、はいっ、了解しましたケイト様!」
悶絶するアイリスを完全に放置したまま、ジェナがケイト女史に対して事情を説明する。
説明が行われている間にアイリスは何とか復活できたようだが、目の端には大粒の涙が浮かんでいる。さすがに握っていたケンの手を離し、悪戯を叱られる前の子供のように項垂れた。
「事情は分かりました。こちらの方は私がご案内しますので、貴方達は仕事を続けてください。……アイリスは後で私の部屋に来るように」
「は、はいぃぃぃ」
アイリスが更に泣きそうな表情に変わったが自業自得だ。全く可愛そうだとは思えないし同情する気が一切起きない。
「大変お待たせしました。ここからは私がご案内させて頂きます」
「はい、お願いします」
ケイト女史に先導されるままに付いていくと、一見しただけで明らかに部外者立ち入り禁止と分かる場所へと連れて行かれる。案内を受けているのだから当然だが、扉の両脇に立っている警備員は直立不動で敬礼をしたまま行く手を遮る様子は見せない。
周囲から全く人の姿が消えた後もどんどんと先に進んでいき、1つの扉の前で立ち止まった。
「大変失礼かとは存じますが、指輪をお見せ頂けないでしょうか。いえ、填めたままで結構です」
ケンが指輪を外そうと止められたので、指輪を填めたままの手を差し出した。ケイト女史がケンの左手を両手で捧げ持つようにして抑えると、金色の指輪をじっくりと観察し始める。ひんやりとしたケイト女史の手が心地良い。
やがて手が離され、ケイト女史が静かな目でケンの目を見据える。
「確かに、間違いありません……失礼ですがお名前を伺っても?」
「ケンイチロウと申します」
「ではケンイチロウ様、これからギルド長の執務室近くまでご案内致します。まず、この扉の前に填めたままの指輪を近付けてください」
言われた通り扉に手を近付けると先ずは扉の表面に魔術文字が浮かび上がり、次いで扉が左右に開いた。中はエレベーターのような2メートル四方の小さな部屋になっていて、ケイト女史に続いてケンも部屋の中に入る。
「次に、そこに埋め込まれている金属製の板にまた指輪を近付けてください。すると行き先を尋ねる表示が出ますので、ギルド長の執務室に行く場合は『最上階』と指定してくださいませ」
ケンが言われたとおりに実行すると扉が自動的に閉まり、直後に軽い浮遊感を感じた。
エレベーターの「ような物」ではなくエレベーターその物だったようだ。魔術大学院の建物は一番上まで三十階以上はありそうだったから、こういった設備がなければまともな活動など望めないだろう。
エレベーターがゆっくりと上昇している間、向い合って立っているケイト女史がジッとケンの事を観察してくる。ここ最近は何故だか女性から凝視される事が多い気がする。
「ギルド長がお弟子さんをとっていたとは、失礼ながら全く存じ上げませんでした」
「弟子? 私は魔術師ではありませんが……」
「ケンイチロウ様が填められている指輪には、ギルド長の弟子である旨が記載されているのですが……ご存じなかったのですか」
「はい、全く。ジョーセフ師からは『通行証のような物だ』とだけ」
ケンの答えを聞いたケイト女史が一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情を見せ、眼鏡を外して眉間を揉んだ。
「あの人はっ……!」
小声で毒づくケイト女史からそっと目を外し、先程の表情も含めて何も見なかったことにしておく。色々と気苦労が多そうな女性なので自愛してほしい。
やがてエレベーターが最上階へと到着し、扉が開いた。ケンだけがエレベーターの中から降りる。
「申し訳ありませんが、私が立ち入りを許されているのはここまでなのです。次回からは受付を通らずに直接ここまでいらして頂いても結構です。後ほど、私の方から警備の者に通達しておきましょう」
「分かりました。案内ありがとうございました」
「では、失礼致します」
深々と頭を下げるケイト女史とケンの間でゆっくりと扉が閉じるのを見届けた後、エレベーターの正面にある大きな扉に向き直る。高級そうな木製の扉には、よく見ると魔術文字が隙間なく刻まれていた。
扉には把手が付いておらず、扉の周囲を見回しても呼び鈴と思えるような物すら見つからない。
どうしたものかと思案するケンの耳に、扉の前の天井部分から聞き覚えのある嗄れ声が届いた。
「お主に渡した指輪を近付ければ開くんじゃ」
ジョーセフの言葉通りにしてみるとやはり音も無く扉が開いた。何でもかんでもこの指輪で開けられるのは便利だが、失くしたり盗まれた場合に大問題になってしまうのではないだろうか。
そんな心配をしつつ部屋の中に足を踏み入れると、大きな机の向こう側でジョーセフが大きな椅子に埋もれるように座っていた。
今いる場所は純粋な応接室のようで、椅子と大きな机、それに机の上に置かれた数枚の紙とペン以外は何も置かれていない。
「久方ぶりじゃのう。もう2度と顔を出さんかと思ったわい」
「はっ、ご無沙汰しておりました」
ギロリと睨んでくるジョーセフに対して直立不動で畏まる。
ここに来た本来の目的である、オーク・リーダーが落とした謎の黒い球体の調査進捗報告はごく短い時間で完了した。
要約すると以下のようなものになる。
「アレは今のところ全く正体が分からんのう。この儂が全力でやっても未だ手がかりすら掴めんとは、あれを作った奴はどんなに低く見積もっても人間を超えとるわい」
この発言をした本人の性格を考えると、これは最大限の賞賛である。
「左様でございますか。では、お忙しいところ誠に申し訳ありませんが、引き続き調査の程よろしくお願い致します」
「まあまあ、そんなに急いで帰らんでも良いじゃろ。一度、お主の話をじっくりと聞きたいと思っておったところじゃし」
面倒事が始まる前に立ち去ろうとケンが急いで扉に向ったが、それをジョーセフが見逃す訳がない。引き止めの言葉が全く聞こえなかった振りをして扉の前まで戻ったが、左手の指輪を近付けても扉は微動だにしなかった。
ジョーセフの意地の悪い笑顔を見て観念し、対面に置かれていた椅子に座る。
「そうそう、師匠の言う事には従っておくべきじゃなあ」
「その『弟子』の件についてなのですが……私は魔術師ではないのに、一体どういう理由があってそんな扱いを受けているのでしょうか」
「この部屋に部外者を入れるとなると手続きが面倒過ぎてのう。便宜上弟子ということにしておいた方が手間がかからんのじゃい。それも今のところ正式な弟子じゃなくて仮免じゃがな」
規則というものはいくら無駄なように見えていても、少なくともその規則が出来た瞬間には必要があって作られたものだ。規則に従うのが面倒だからとあまり抜け道を使っていると、結局自分自身にその報いが返ってくる。
ケンはこのことに付いて彼女にきっちりと報告しておこうと心に決める。彼女には心労をかけてしまうが、ケンが言ってもジョーセフには馬耳東風であろう。
ジョーセフの尋問は長時間続いた。
それはただ話を聞くなどという生易しいものではなく、尋問や詰問といった表現こそが適切である。
話は【バロウズ】での魔道具開発に関わる事を中心に行われ、様々な方向に脱線しながらもケンの思考について何もかも明らかにしようという凄まじい執念が感じられる。
エミリアに対して魔術の使い方をアドバイスした件まで完全に把握されており、それに付いても同様に根掘り葉掘り聞かれた。
「ふーむ、単機能の魔術を複数組み合わせる事で様々な効果持った魔術を柔軟に構築する、か。これは研究の余地があるのう」
「やはり、そういった方向性は今まで考えられてはいなかったのですか?」
「ふんっ! 無駄に複雑であれば複雑であるほど高等であると信じきっておる阿呆共がそんな事思いつくわけ無いじゃろ! ……しかし、専用ではなく汎用的に使えるようにするとなると、どうしても効率は悪化するのう。それに例えば<氷槍>のように氷を生み出す魔術の場合、"水を生み出し"て"凍結させる"という2つの術に分かれているのは迂遠に過ぎると思うがのう」
今まで、【バロウズ】の店主であるジョン・バロウズを含めた数人にアイディアを話してみてもほとんど理解されなかったが、ジョーセフは一度聞いただけでケンの真意を理解しただけではなく、欠点を的確に指摘してきた。
最初から解っていたことだが、単なる口先だけの爺ではないようだ。
「この方法は新たな魔術の作成効率を上げるための手法ですので、使用時の効率が劣るのは仕方がありません。ですが、基礎部品を注意深く設計すれば専用の魔術と遜色ない効率を得るのは不可能ではありません。それと、頻繁に組み合わせて使用されるパーツであればその2つを組み合わせた新たなパーツを作ってしまえば良いでしょう。<水作成>プラス<凍結>ではなく<氷作成>という事ですね。あまりやり過ぎると元の木阿弥ですが」
「ふーむ。やはり要研究、じゃなあ。最初のパーツ作成が難関じゃわい」
そこからもジョーセフとケンの質疑応答は続き、ようやく区切りが付いた時にはとっくに夜になっていた。
「長い間引き止めてしまって悪かったのう。面白い話を聞かせてくれた褒美として、次に来た時には儂が直々に魔術を教えてやろう。仮免とは言っても儂の弟子ならばやはり魔術の10や20は使えんとなあ?」
魔術と言うものは訓練しさえすれば誰でも使えるようになると言われている。
当人の才能によって何をどこまで使えるかは変わっても、魔力を一切持っていないという特殊な体質でも無い限り全く使えないということは有り得ない。
では何故、この世界に魔術師がごく少数しか存在しないのかと言えば、そのごく少数が魔術の知識を独占しているからである。
魔術師になるためには魔術師ギルドに所属して教育を受ける必要があり、魔術師ギルドに所属するためには強力な縁故か大量の金が必要になる。
ここでジョーセフの話に乗ると更に深みに嵌る事が確定しまうが、この機会を逃すのはあまりにも惜しい。
「……宜しいのですか?」
「師匠が弟子に物を教える事に何の問題が有るんじゃ? まあ、教える魔術について希望を聞くだけは聞いてやるから言ってみるが良いじゃろ」
ケン自身にとって、どんな魔術が有用なのかを考えてみる。
探索者であり、モンスターと戦闘を全ては避けて通れないケンにとって攻撃魔術は有用だが、強力な魔術になればなるほど発動するまでに 時間が掛るので壁となる人間が居なくては使用し辛い
魔術の発動準備をしている間はどこかに身を隠すという考え方もあるが、未熟な魔術師の場合は発動のために大声での詠唱や大きな身振りが必要とされるのでそれも難しい。
弱い攻撃魔術を使うくらいならクロスボウで十分だ。
そもそも単独探索者のケンが積極的に戦闘を仕掛けるのは寿命を縮めるだけの愚行である。
だからいつものように逃走手段の充実を図った。
「それでは、<閃光>と<消臭>をお願いします」
「ほっほう。また渋いところを突いたもんじゃのう……若い男ならば大抵は派手な攻撃魔術やらを選ぶもんなんじゃが、変人というかお主らしいというか。相分かった、お主の希望通りにしてやろう」
「ありがとうございます」
「ああ、帰る前に指輪を見せてみい」
これから帰ろうとケンが立ち上がったところでジョーセフに呼び止められた。
なんとなく嫌な予感がしたが、言う通りにしないとまた扉が開かないような気がしたので言われた通りにする。
差し出した指輪に触れてジョーセフが何事かを呟くと、指輪が一瞬だけ強く光を放った。光が収まった後の指輪を見てみると、表面に刻まれた魔術文字が変わっているように思えた。
「これでお主は儂の正式な弟子となった。今までに7人しかおらん希少な地位じゃから、知り合いに自慢するとええぞ」
「はぁっ?!」
「7人のうち2人は既にあの世に居るし、別の2人は他国の人間じゃからな。つまり、お主はたった今この魔術師ギルドの序列第5位になった訳じゃな。本人の実力よりも誰の弟子かで序列を決めとる馬鹿共の吠え面が目に浮かぶようじゃ……実際に見るのが楽しみじゃわい!」
せいぜいが水溜りだと思って踏み込んだ穴は、実は奈落の底まで続く底なし沼だったようだ。




