第26話 5年前についてのこと
いつもの事ですが延々とアレな事を考えているだけなので、細けえことは良いんだよって方は"◇"の後"◇◇"もしくは"◇◇◇"まで飛ばしても大丈夫だと思います。
黒尽くめの迷宮探索者、ケンこと鈴木健一郎は異世界人である。
少なくとも彼自身はそう信じている。
彼が彼としてこの世界で最初に意識を持った時、既に成長した肉体を持っていた。それに加えて会話もできたし文字の読み書きにも不自由しなかった。
前の世界にいた時に鈴木健一郎が話せたのは日本語と文法がかなり怪しい片言の英語ぐらいだが、この世界の言葉はそのどちらとも違っている。普段は全く意識していないが、固有名詞やこの世界に存在しない概念を表す単語を口にした際にその部分だけ明らかに音の響きが違うのだ。
そういったものについては意味がなんとなく伝わっている場合もあるが、大抵の場合は意味のない音の羅列として相手に聞こえているらしい。
文字についても鈴木健一郎が知っているどんな種類の文字とも違う。一度も見た事が無いはずなのに読もうと思えば意味がわかるし、書こうと思えば他人が内容を分かる文章が書ける。
自分が別の世界から来た人間だと思うのならどうしてそれらについて疑問に思わなかったのだろうか?
言い訳ならばある。
この世界に来た瞬間に迷宮の入口が目の前に開いていて、探索の準備が万端に整えられていた。今から考えれば準備不足過ぎて鼻で笑ってしまうが、その当時は本気でそう思っていた。
忙しいが退屈極まりない社畜として過ごしていた状況から一転、オトコノコなら誰しもが憧れるであろう冒険と言う場面の真っ只中に突然放り込まれたのだから、興奮して細かい事に頭が回らなくなっても仕方ないだろう。
熱狂のままに迷宮に突撃して返り討ちに遭い、町の中を右も左も分からないままに駆けずり回り、徒労感で打ちひしがれていたところを優しい言葉で誑かされ、酒に酔って寝て起きたら全財産を喪っていた。
熱狂が醒めないまま今度は混乱の渦に叩きこまれ、ただ生き抜くことに精一杯で余計な事を気にしている余裕がなくなってしまったのだから仕方がないとケンは主張している。
では何故、命を繋ぐことに汲々としなくても良いようになってからも考えていなかったのかと言えば、そんな事は「もうどうでも良くなっていたから」というのが彼の本音だ。
その頃にはもう前の世界の日本人PG鈴木健一郎ではなく、この世界の迷宮探索者ケンイチロウとしての意識も身分も確立されていたし、それまで一度も昔の自分を知っているという人間が現れなかったので前世だとか今世だとかを別に気にする必要性を感じなかったのだ。
あまり真剣に考えすぎては夢から覚めてしまうのではないかと無意識で恐れていたのかも知れない。
この身体の以前の持ち主との関係を仄めかす少女と出会ったのも何かの縁だ。
前の世界と今の世界について少し考えてみることにしよう。
◇
先ず、前世と今世の繋がりについて、いくつか仮説を立ててみる。
これは単なる思考実験のようなもので今回の本題ではないが、本題に入る前の前振りのようなものだ。
1.今世は鈴木健一郎の脳内に存在する空想世界である
2.前世はケンイチロウの脳内に存在する空想世界である
3.前世と今世は同じ宇宙にあり、今世において前世の記憶が甦った
4.前世と今世は別の宇宙にあり、何らかの現象が発生した結果前世から今世に転移した
1番の仮説に該当する物で思い浮かぶのは、眠っている時に見る本当の意味での夢、実用化されたなんて話は寡聞にして聞いた事が無いが全感覚没入型仮想現実ゲーム等、あとは白昼夢と言うか精神病による妄想の類と言った処だろう。
このうちのどれであっても世界の中に居る状態で否定するのが難しい。
夢の中に居る間はどんなに現実では有り得ない事が起こっていても、それが現実だと思い込んでいるものだ。
VRゲームだと考えた場合は彼自身にゲームをしているという認識がないのが不自然だが、それはゲームをより楽しむために記憶を制限するという仕掛けなのだと言われてしまえば絶対に有り得ないと否定することも出来ない。前世と今世で色々と共通した物が有るのも「それがゲームだから」当たり前の事だ。
妄想の類ならもうどうしようもない。「これが妄想の世界だとするなら、その世界を壊しかねない認識など生まれな得ないのではないか」と誰かが主張しても「妄想ではないと否定するためにわざと疑ってみせるのだ」と反論されてはぐうの音も出ない。
"シミュレーション仮説"ではないが、ここが仮想世界であると肯定する事は出来ても否定するのは不可能に近い。
これが仮想世界ならもうちょっと英雄的な活躍を望んで行動しているはずなので、ケンの個人的な心情ではこの仮説は否定しておきたいところだ。
2番の仮説を選んだ場合、5年より前の記憶が一切存在しないのをどう考えるかというのが問題になる。
ケンは記憶喪失について詳しく知っている訳ではないが、自分が誰でここがどこかというエピソード記憶は喪なわれる事があっても、この世界についての一般常識まで抜け落ちているというのはおかしいのではないだろうか。
常識が抜け落ちるような記憶喪失もあり得たとして、それならどうして会話や読み書きは可能なままだったのだろう。あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか。
別の考え方をしてみよう。
仮に、ケンイチロウとしての意識を持つ前の自分が妄想に支配されて別の世界の記憶をでっち上げ、自分が異世界人だと思い込むためにこの世界についての記憶を意図的に忘却したのだとしたら。
いや、それだとケンイチロウになる前の自分は未来永劫名を残す大天才だったということになってしまう。
魔法が関わらない状況において、以前の世界で習い覚えた「科学」はこの世界でも通用する事が過去の幾つかの実験で確かめられているので、誰も知らない理論体系を構築していたという事になってしまうのだ。
科学以外の制度や文化といった知識も一人の人間が全て考えたにしては矛盾が無さ過ぎる。
1番と2番は似ているように見えて全く違う。
1番なら目が覚めた時に前世に戻ってしまうが、2番ならずっと今世で生活し続けるという意味だからだ。今のケンは前の世界よりも今の世界で生き続けていきたいと思っているので、重大過ぎる差である。
逆に仮説の3番と4番は実質的にほとんど差がない。
宇宙と表現したが、次元でも界層でも世界線でも何でも良いし、前世と今世でそれが同じか異なっているかについてはここではそれほど重要ではない。
「同じ世界に転生」するのも「別の世界に転移」するのも、有り得なさという点ではどちらも似たようなものだ。
前世と今世の繋がりについて、どれだけ考えても分からないという結論しか出てこないが、ここでは4番の「別宇宙への転移」説を採用することに決めた。
何故なら、それが一番浪漫があるからだ。
◇◇
ここでようやく本題に入る。
異世界人の鈴木健一郎がこの世界でケンイチロウとして目覚めた瞬間、生まれたての赤ん坊の状態ではなく十数年分の成長を経た肉体を持っていたのは何故だろうか。
細かい部分について部分はいろいろ考えられるが、大きく分ければ「容れ物ごと中身が発生した」か「元々あった容れ物の中身が変わった」かのどちらかになるだろう。
A.成長した状態の肉体が虚空から発生し、そこに鈴木健一郎の意識が書き込まれた
B.その世界で普通の人間として誕生して成長し、その後鈴木健一郎の意識が上書きされた
Aだとすれば正体不明の少女の探し人とケンは他人の空似になる。
前の世界、特に身分証明を頻繁に要求されるような先進国であれば、存在していないはずの人間が突如現れるなんて事が起きたとすれば少なからず問題が発生するだろう。
だが今の世界においては必ずしもそうではない。
四大迷宮の1つが存在しているマッケイブの町には、毎日数人から十数人という単位で新人探索者がやって来る。探索者を志願する奴以外も含めれば増減は1日で百人を軽く超える。
少なく思えるかもしれないが、生まれた村から出ないまま老いて死んでいく人間が珍しくない社会においてこれは驚異的な数だ。
王国内の他の場所ならともかく、この町では昨日まで影も形も無かった人間が今日は隣に立っていたり、昨日まで親しくしていた人間が今日はどこにも居ないなんていうのは至って普通の出来事である。
よほどおかしな真似をしていない限り町への出入りは原則自由だし、迷宮の出入りについても入場税さえ払えばあとは自由だ。地上の出入口から迷宮に入るような有象無象の探索者を管理する担当者は居ない。
入った覚えがないのに迷宮探索に似合わない完全装備の男が中から出てくれば、迷宮の前に立っている徴税官や警備担当が不審に思うのではないかと問われれば、それは状況によるとしか言い様がない。
家督相続権を保たない貴族の次男坊以下や商人の息子が新品の長剣と盾を持ち、ピカピカの板金鎧を着込んで意気揚々と迷宮に乗り込み、迷宮からの洗礼を受けて逃げ帰って来るというのは月に1回以上はある恒例行事なので、よほど奇矯な行動でも取っていない限りは中に入った奴なんて一々記憶に留めない。
彼らも一日中迷宮の前に立っているのではなく数時間毎の交代制なので、中から見覚えのない人間が出てきても自分が担当していない時間に中に入ったのかと思うだけだろう。
Bの場合、Aとは違って今の世界でケンイチロウが知らない過去が存在する事になる。
生まれ落ちたその瞬間から体の中で眠っていた記憶が何かの拍子に甦ったのか、神意や人意によって記憶が書き換えられたのかは別として、ケンイチロウの精神がこの世界で過ごした期間と肉体がこの世界に存在する時間に食い違いが発生するので、ケンイチロウが知らない知人が存在する余地が生まれるのだ。
こちらの仮説が正しいとすると正体不明の少女は正真正銘過去を知る女だという可能性も出てくる。
現状、仮説AとBのどちらが正解かを判断するには材料が足りない。
過去の知り合いだと称する正体不明の少女が存在するので今のところBが有力のようにも思えるが―――人違いという可能性もゼロではないし、世の中には知り合いを装うことから始まる詐欺も存在するのだ。
少女の反応や話の流れからしてこちらを騙そうとしている可能性はゼロに近い気がするが。
正体不明の少女が探し人とどういう関係だったかについて全く聞いていないので、それが過去のケンなのかそれとも別人かは考えても答えが出せない。
◇◇◇
詳しい事情も聞かずに逃げ出してしまったのは失敗だったと今更ながら後悔する。
過去に感情の起伏が激しい美人に煮え湯を飲まされたという心理的外傷があったせいで、同じように美少女で感情的に見えた少女と深い関わりを持つのを反射的に拒否してしまったが、せめて少女がどこの誰かぐらいは確認しておくべきだった。
今となっては少女が口にした断片的な情報が残っているだけだ。
少女がケンの正体だと言った内容を思い出してみる。
グレン・ビーチャム、トラッリーオ村出身。21歳の男で5年前に村を飛び出して以降は全く音沙汰が無かったらしい。
仮に5年前にマッケイブの町を訪れたグレン・ビーチャムという男が、迷宮の入口で鈴木健一郎に変化したのだとしたら彼女の言っている事と辻褄が合う。
今のケンの肉体が21歳なのかは分からない。前の世界に居た時の28歳よりは間違いなく若いだろうと察してはいたが、あまり細かい年齢など気にした事も無い。
5年前の時点からほとんど身長が伸びていないから、もうとっくに成長期が終わっているのだろうとは思っていた。 15歳はまだ成長期の真っ只中のはずだが、それより前に成長期が終わる人間なんていくらでもいるので否定の材料としては弱すぎる。
名前と地名には一切聞き覚えがないが、地名については調べれば分かるはずだ。
存在していなければ少女の言った事が嘘だとはっきりするし、存在するならばいつか訪れてみても良い。
行動の方針を決めると何となく気が軽くなった。別に今すぐやる必要もないし、必ずやらなければいけない事でもない。気が向いたらこの世界での出自について調査してみようと思う。
いつの間にか夕の鐘を過ぎ、外はすっかり暗くなっていた。
今頃一階にある食堂は超満員になっているだろう。扉によって大部分を遮られているのに階下は大分賑やかな状態なのが分かる。
水汲みや薪運びぐらいしかできる事は無いが、部屋の中で何もせず過ごしているのも無駄だから手伝いでもしようかと考えて部屋を出た。
普段の倍は忙しかった【花の妖精亭】の営業時間が終わり、客席と厨房の掃除も済ませた後の時間。
【花の妖精亭】の二階の一室でケンとベティがボードゲームに興じていた。8×8のマス目が切られた盤と丸く繰り抜いた板の片側を黒く染めた物で行うそれは、間違いなくリバーシである。
この世界にもトランプに似たカードゲーム、チェスに似た棋類、囲碁に似た陣取りゲームは色々と存在していたが、リバーシのように挟んだ石を裏返して行うゲームは存在していなかった。
道具も比較的簡単に用意できる上にルールが単純なリバーシは、今ほどに店の戦力になれなかったせいで暇を持て余していた幼い頃のベティとやるには最適なゲームで、千局以上打っている今ではケンが本気でやっても負け越すことが多くなってしまった。
最近は知識神教会が社会奉仕の一環として無償で読み書き計算を教える「学校」でもかなり広まっていて、ベティはリバーシ・チャンピオンとして君臨しているらしい。
「こ・れ・で、この回も私の勝ちだね!」
パタンパタンと音を立てて、板を白から黒にひっくり返しながらベティが宣言する。彼女が言うとおり、既にマス目が全て埋められた盤上では黒が優勢だった。
「ああ、負けた負けた。3-2で今日も負け越しだな」
「今日で私が3日連続勝利!」
「はいはい、今度のお土産もまたいつものところのクッキーで良いのか?」
「うーん、今度はどうしよっかなあ」
ベティが勝てばお菓子や雑貨を渡してやり、ケンが勝てば食事のおかずが一品増えるというのがいつも2人で賭けている内容だ。
実際におかずを作って提供するのは彼女の伯母であるエイダなのでベティ本人は負けても損害ゼロだが、子供との他愛無い賭け事なのだからそれで構わない。
「あっ、おみやげで思い出したけど、ケンって明日はヒマ?」
「明日は昼に人と会う約束をしてるが……どうしてそんな事を聞くんだ?」
「昨日クレアさんがお店に来た時に、『友達が闘技大会に出場するので応援に行きませんか?』って誘われたからケンも一緒に行かないかなって。伯母さんも昼時間終わった後なら行っても良いよーって」
「収穫祭」と「闘技大会」の2つの間に全く関連性を見出だせないが、この町の収穫祭では催事の一つとして闘技大会が開催されている。探索者という荒くれ者が数多く暮している街なので参加者が多く、かなり人気がある。
優勝すれば一般人の平均年収の10倍という高額の賞金が手に入る上に、過去に上位に入賞した者が騎士団に入ったり貴族の私兵として高額の報酬で雇われたりしている実績があるので参加者の本気度はこの上なく高い。
毎年参加者が多数いるので全部の試合を祭り期間中にやるには時間が足りないことと、大勢の観客がいる前で程度の低い戦いが頻発しては盛り下がってしまうという商業上の理由から予選と本戦に分けられていて、予選は祭り期間が始まる前に済まされてしまう。過去に上位入賞経験があるなら予選は免除だ。
クレアの友人が「明日戦う」と言っているならそれは本戦出場が確定しているという意味になるが、もしかしてアルバートの事だろうか。
彼ならば予選突破なんて軽く突破できるだろうし、予選免除どころか本戦でも準々決勝辺りまでシードしてしまっても良いくらいだ。
本当にアルバートが出場しているなら賭けで儲ける事ができるまたとない機会になるだろう。
アルバートの剣の腕が立つことは探索者の間で周知の事実となっているが、直接その腕前を見たことが有る人間は少ないはずだから賭け倍率もそこまで低くならないはずだ。
「始まる時間は早いけどいつ終わるかが全然読めないから、残念ながら一緒には行けないかな。もし行けたら後から参加するよ」
「そっか。残念」
明日ケンが会いに行くのは貴族であるファブリチウスとその友人達である。
ファブリチウスが主催する集まりにケンが招かれる形だから勝手に約束を延期したりはできないし、趣味人の集いだから話が盛り上がった時は何時間でも際限なく続くだろう。
闘技大会は3日間行われる収穫祭の1日目と2日目の両日に渡って開催されるので、出場者がケンの予想通りアルバートならば1日目は難なく突破するだろう。
その頃には彼のオッズは下がり切っていて、大儲けするのは無理になっているだろうが。
クレアの言っている「友人」が誰かという事よりも、ほんの少しだけ気になっていることが有る。
「ところで、いつの間にクレアと仲良くなったんだ?」
「えへへ、ひっみつー」
一瞬きょとんとした表情になった後に悪戯っ子そのものの笑いを浮かべるベティ。
「気になる? でも乙女の秘密だからダメー」
「はいはい」
これ以上は地雷原に踏み込むようなものなのは今までの人生で痛いほど理解しているのですぐに諦める。まったく、乙女の秘密という言葉は便利過ぎやしないだろうか。
ベティがリバーシの道具を片付け終え、盤と板を入れた袋を小脇に抱えて立ち上がる。
「じゃあ、私はもう寝るね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
廊下まで出て、一階にある住居に戻るベティが階段を下って見えなくなるまで見送る。
日本人としての感覚ではまだ深夜と言うには早すぎる時間だが、この世界の人間は基本的に早寝早起きなのでもう夜更けという認識になる。少なくとももう子供は寝る時間だ。
今日は特にやることも無いし、明日の集会ははなかなか忍耐強さが必要とされそうな予感がするので、ケンもさっさと眠ってしまおう。




