第15話 迷宮中層:森林地帯
なんとか書き上がったので出発前に置いときます。
次話はおそらく連休明けではないかと
今回の中層探索では森林地帯に行き当たっていた。
高木林と言うのだろうか。背の高い樹木が多種多様に生えていて、周辺の気温はどちらかと言えば冷涼である。
倒木があったり、草花を摘んでも迷宮が出現させたモンスターのように分解が始まったりしないので、迷宮外にあるものと同じ植物が中で成長したものなのではないかと予想される。
小型の虫類を潰した場合も死体が残るし迷宮の外でも生息できているようなので、これらも植物と同じように迷宮外に由来を持つものなのだろう。わざわざ確認したこともないしやり方も知らないが、微生物なども地上の森林と同じように存在しているのではないだろうか。
限定的かも知れないが立派に生態系が構築されているため、実は迷宮外にある森を地面ごと切り取って中に置いたのだと言われてもそれほど違和感がない。
しかし一見しただけでは迷宮外の森とほとんど区別が付かないと言っても、自然の森林であれば当然存在しているはずの鳥類、哺乳類などに普通の動物が一切存在しないという大きな違いがある。
生態系における生産者・消費者・分解者の区分のうち、消費者の地位は迷宮外に由来を持つ存在ではなく迷宮の中で生み出されたモンスターが占めているのだ。
迷宮上層では通路を目的も無いままに徘徊し、人間を見つければ問答無用で襲いかかってくるような動く障害物としか言い様がないモンスターが大半だった。しかし、中層ではモンスター達によって生態ピラミッドが創られている。
今までに見たモンスターの中で最も小型だったのは体長30cm程の鼠だ。
一匹だけを見れば少々ユーモラスで、それなりに可愛らしいと言っても良いような見かけだったのだが、鼠としてはかなり大型のそいつらが百匹以上もの群れを作っているとなれば怖気を震わずにはいられない。
それでも、のんびりと草でも食んでいたなんて状況なら話は別だが、ケンが見かけた時にはその大集団で疾走していたのだからなおさら恐ろしさが先に立ってしまう。
全長1メートル、翼開長2メートルに達しようかという巨大な鷹が逃げる鼠に空中から襲いかかり、次々と屠っているのを目撃した時は、自然の厳しさというものを実感するとともに、狙いが自分ではなかったことに対して神に感謝を捧げるしかなかった。
その時に識った事だが、モンスターがモンスターを狩った場合は魔石が残らないらしい。
残るのであれば、モンスター同士の争いで負けた方の魔石を拾っているだけで危険を犯さず大金が得られるのだが、世の中そんな美味い話はなかったようだ。
そして最大級のモンスターとして挙げられるのは、数百メートル先の斜面に転がる岩の上で日向ぼっこをしている処を見かけた熊型のモンスターだ。
初めは体長3メートル程度だろうと思っていたのだが、後日その斜面に近付いた時に気付いた岩の大きさからして、5メートルを軽く超えていたのではないかと思われる。
鼠や熊に限らず、迷宮内の動物型モンスターは全体的に迷宮外の動物より巨体である。その巨大なモンスターを近接戦闘で斃してしまう奴も居るのだから、この世界の人間も侮れない。
そんな人外魔境の戦闘能力など持ち合わせていないケンが何をしているかと言えば、いつものように樹上で身を隠しているのだった。
幹の直径が10メートル近くもあるケヤキの枝の間で、幹と同じ模様した<色彩変化>マントを被ってじっとしている彼の姿は樹木と丸っきり同化していて、そこに居ると知っていても見つけるのには困難が伴うだろう。
迷宮内の季節が外と連動しているのかどうかについてはまだ確証が持てないが、9月初旬の今はまだ緑の葉が茂っているため尚更見つかり辛くなっている。
気温が比較的低いせいなのか他の理由があるのかは分からないが、森林地帯では蛇型のモンスターも猿型のモンスターも見たことが無いので、葉が茂っている木に登っていればひとまずの安全は確保できていると思っていい。
今はそうして身を隠しながら、百数十メートル先にある湖を観察していた。
こういう時のために最近調達した<望遠>眼鏡があれば、この距離からでもモンスターたちの仕草まで詳細に見ることができる。
その湖は主に草食動物型モンスター達にとっての水場になっていて、様々なモンスターが入れ代わり立ち代わり訪れている。
湖へと続く何本かの獣道のうちの一本がケンが潜んでいる場所の近くに通じていて、今回はここを通過するモンスターを襲撃する予定を立てていた。
襲撃のために選んだ武器は弩である。
短弓では威力が足りず、長弓では木の上など回りに障害物が多い場所での運用が困難だ。小型の弓の中でも複合弓であれば威力は高くなるが、探索者としては非力な部類に入るケンではたかが知れている。
クロスボウでは速射性が絶望的に低くなってしまうが、1射目で仕留められなければ向こうが逃走するかこちらが逃走するかのどちらかになる。ケンの場合2射目以降は元々無いものだと考えれば良い。
ちなみに、この世界にも"銃"は存在している。
火薬で鉛弾を飛ばす代わりに魔法でエネルギーの塊を飛ばし、引き金を引いて撃鉄を動かす代わりにボタンを押して魔術を起動する物が銃と言えるなら、だが。
個人で携行できる中で最も強い威力のクロスボウよりも"銃"の方が更に攻撃力が高いが、"銃"は魔道具だけあってただでさえ高価な上に国家が製造方法を秘匿しているので、余程の財力と強力な伝手が両方備わっていない限り入手は不可能である。
仮に銃本体を入手出来たとしても、今度は高額な弾丸代金という壁が立ち塞がる。
暫くして本日の獲物が決定したようだ。
大小2匹の鹿がこちらへと進んで来ているのが<望遠>の魔道具によって強化された目に映る。1匹は肩高2メートル程で角が生えておらず、もう1匹は肩高1メートルに満たない小さな個体だ。
母子なのだろうか。迷宮の中のモンスターが普通の動物のように繁殖したり成長したりするという話は聞いた事がないが、それは単に誰も調べていないだけとも言える。
特に悩むこともなく大きい方を狙う事に決めた。
これは別に子供を狙う事に対する心理的抵抗があるからではなく、成功した場合にどちらの方が収穫が大きいかを考えた結果だ。母鹿が死んだことで子鹿の動きが長い間止まるような事があれば、2匹とも頂くことができるというのは甘すぎる見通しか。
クロスボウを構え、息を殺して待つ。
今いる側は鹿から見て風下なので、匂いのせいで察知される心配は少ない。
鹿の視力がどの程度の物かは知らないが、このあたりには頭上から襲いかかるようなモンスターが居ないので、あまり注意は払われていないだろう。気をつけるべきは音を立てないことだ。
中層に来てからは今回のように遠距離から攻撃できる機会が増えたので、最近はなるべく時間を取って射撃の練習をしているが、才能が無いのか今ひとつ上達の速度が遅い。
今は30mでは体のどこかに当たれば良いという程度の腕前でしかないので、頭を狙うのなら10mぐらいまで引きつけたいところだ
それほど警戒する様子も見せず鹿の母子がゆっくりと歩く。
ケンと母鹿の距離が30メートルを切り、20メートルになろうかというところでピタリと立ち止まる。何かに耳を澄ますような仕草を見せた後、つぶらな瞳でケンの方を見ようと―――したかは永久に分からなくなってしまった。
一瞬で20メートルの距離を食った太矢が母鹿の目の間を貫き、勢い良く頭部を弾き飛ばす。意外に大きく響いた弦の音と母親が倒れた事に驚いたのか子鹿は一目散に逃げ出していった。
そろそろ迷宮に入ってから3回めの夕暮れが訪れる。最後に一つ収穫も得られた事だし今回の探索は切り上げるとしよう。
その後、<転移>門を通じて地上へと戻ったケンは帰還報告をするために窓口へと向かった。
上層にいる間は探索者の名前すら記録しないのに、中層に来ると迷宮の入退場時間や獲得した魔石の量まで一々記録しているらしい。
現在の窓口担当は名前をフローラと言って、腰までの長い栗色の髪を太い三つ編みにまとめた可愛らしい女性だった。彼女の勤務シフトとケンが迷宮に入るサイクルが丁度合っているのか、2回に1回は彼女が窓口担当として座っている。
「お帰りなさい。ケンイチロウさん」
「只今戻りました」
「今回も大きな怪我がなかったようで、何よりです」
「ええ、今回も【リュシェンナ】様にご加護を頂けたようです」
幸運神【リュシェンナ】は探索者の中では最も多く信仰されている女神である。信仰と言っても大抵の奴が形だけのもので、せいぜいが偶に少額の寄付を行うといった程度の事しかしていないのだが。
幸運の女神は同時に出逢いも司っているので、信徒には商売人も多いようだ。目の前のフローラもマッケイブで五指に入る大商人の三女だったか四女だったはずなので、その関係もあって幸運神の信者になっている。
いつものように<転移>門の利用登録証を渡して出場の手続きをしてもらう。それほど待たされることもなく作業は完了し、いつもならそのまま挨拶をして別れるところだったのだが。
「あっ、ケンイチロウさん。貴方に指名依頼が来ているみたいです」
「指名依頼?」
思わず怪訝な顔になってしまう。わざわざ仕事を依頼してくるような知り合いは居なかったはずだ。
指名依頼は文字通り特定の個人、もしくはパーティやギルドに対して何がしかの依頼をするための制度だ。指名した相手が迷宮管理局に登録している場合、こうして本人に伝えてくれる。
しかし、制度はあっても利用者は皆無に近い。指名した相手が依頼を請けるか請けないかに関わらず管理局に手数料を取られるし、報酬は依頼を出す時に全額納付しておかなくてはならない。しかも依頼達成後に請負人に支払われる報酬からも手数料を引いていくという極悪さだ。
探索者なら迷宮管理局で待っていればそのうち通りかかるのだし、わざわざ手数料を払ってまで仲介してもらう必要があまりない。直接声をかけて無視されるような関係なら指名依頼を出した所で断られるだけだ。
「ええ、ダニエル・ファブリチウス様から、御自分の屋敷に来て欲しいという依頼です。拘束時間は半日程度でできれば明日、9月10日の午後もしくは11日が良いとの事です」
提示された依頼書に目を通す。記憶の中にダニエル・ファブリチウスなる人物は存在しない。
報酬額は中層探索者を半日拘束する時の相場から考えれば問題外と言えるくらいに安い。どうせこれから2日は休養日なのだし、半日ぐらいであれば付き合っても構わないと言えば構わないのだが。
「あまり依頼人の素性について私が明かすのは良くないと思うんですけど……ファブリチウス家は王国中西部に領地を持つ伯爵家です。ダニエル様は現当主のご子息で、たしか三男だったかと」
依頼を請けるかどうかについて悩んでいると、フローラがこっそりとそう教えてくれた。貴族の依頼なのだからなるべく断るなと言いたいのだろう。
「ダニエル・ファブリチウス卿について、何か知っていることがあれば教えてもらえませんか」
ケンがそう尋ねると、フローラは一般的な情報しか知りませんがと前置きしつつ基本的な情報について幾つか答えてくれた。
現在32歳独身のダニエルは昆虫研究家として知られており、近頃は迷宮内に生息する動植物についての研究を始めたようだ。とうの昔に結婚適齢期は通りすぎているが女っ気はなく、日がな一日研究をしながらの生活でたまにご同輩の研究者達と成果を披露しあっているそうだ。
「なるほど。噂でも良いんですが、ご本人はどういった性格の方か知っていますか?」
「ええっと、清貧を旨とする方で……とても個性的な方だと伺っております」
彼女の言葉を分かりやすく翻訳すれば、貧乏で変わり者ということになるのだろう。
貧乏なのはともかくとして、貴族出身で研究者をしているとなれば変わり者だと言われても納得できるし、変わり者でもなければ迷宮の研究などしていないだろう。
フローラからのアドバイスもあり、依頼を受諾することにする。
それに、迷宮について彼がどういった事を考えているのかについて興味がある。一応報酬もあるのだし、何か役に立つ情報が聞けるかもしれない。
その他諸々の手続きを済ませてから迷宮管理職の外にでる。既に日は暮れ、空に輝く星を見ながらケンは宿に向けて歩いて行った。
翌々日の午後、世間では昼食休憩が終わる時間になった頃に、ケンは依頼の通りファブリチウス邸を訪れていた。
指定された住居は行政府が集まっている関係で貴族などが多く住んでいる町の南側区画ではなく、庶民が集まる西側区画の外れにあった。その家は一般人向けの家屋としてはそれなりに大きいが、貴族の住む家としてはあばら屋も同然である。
扉の前で声をかけ、出てきた家政婦の老婆に対して名前と用件を伝えると、待たされること無く目的の人物に出会うことが出来た。
「いやあ、わざわざ来てもらって済まないね。僕がダニエル・ファブリチウスです」
そう言いながら姿を現した男は、シンプルだが質の良さがひと目で分かる服装をした細身の壮年だった。くすんだ金髪に緑の目を持ち、広く秀でた額が印象的な彼は柔和そうな笑みを浮かべている。
ケンも付け焼き刃で覚えた対貴族の礼法をぎこちなく披露しつつ挨拶を返す。
「お目にかかれて光栄です、ファブリチウス卿。私は……」
「いやいや、そういう仰々しいのは無しにしよう。貴族の息子って言っても僕は爵位も持ってない三男坊だし、堅苦しいのは苦手だしね。それにできればケンイチロウ君とは長い付き合いにしたいと思ってるんだ」
どこの馬の骨とも知れない初対面の探索者如きにこの気安さというのは、なるほど、変わり者の噂に間違いはなかったようだ。
「初めまして、ケンイチロウと申します。ファブリチウス卿が私にご依頼があると伺い、参上しました」
「うん、そうなんだよ。玄関先で立ち話というのもなんだからこっちに来てくれないか。それと、僕の事は姓ではなくて名前で呼んでくれ」
「はい、ダニエル様」
「うん、今後は公式の場でも無い限りはそれでいこう」
先に立って歩くダニエルに続いて廊下を進み、一つの扉をくぐる。
そこは書斎として使っているのだろうか。本や紙の束、用途の不明な道具類が雑然と積まれていてひどく狭苦しい。古い紙と新しいインクと何かの薬品の匂いが混ざり合って、苦手な人がこの部屋に入ったら体調を崩してしまいそうだ。
ソファではなく普通のテーブルと椅子が二脚置かれていて、ケンは促されるままにそこに座る。
「まずはこいつについてのお礼を言わせてくれ。ありがとう、助かったよ」
そう言ってダニエルがテーブルの上に置いたのは、一匹のカミキリムシが収められた小型の標本箱だった。
その虫には正直に言って見覚えがないが、おそらくケンが約2週間ほど前に迷宮の中で捕獲して納品したものだろう。それ以外にカミキリムシに関する記憶がない。
ちょうど帰り支度をしていたところで倒木の上を歩いていたこの虫を見つけ、ふと、前に眺めていた依頼書の中に虫の納品が含まれていた事を思い出したので駄目で元々と捕まえてみたものだった。
地上に戻った後に依頼書を確認してみたところ、そのものずばりの買取依頼があった。中層向けに出されている依頼の中ではかなり低い報酬だったが、虫一匹の値段と考えればかなりの高額だった事を覚えている。
「報酬も頂いていますし、殊更お礼を言われるような事ではありません」
「うん、でも想定していたよりもずっと良い状態だったからね。何と言っても欠損も無い上にまだ生きていたというのが素晴らしい。こういった採集依頼で集まった虫っていうのは、死んでしまっているのはともかく触覚が折れていたり足が取れてしまっていたりするのが多くてね……」
「そうなんですか」
ケンとしては特に生かして連れて帰ろうと気を使ったわけではなく、実験のために持ち込んでいた麻痺毒を入れていた口広の小瓶が空になっていたので、適当にその中に追い込んで持ち帰っただけだったのだが。
「調べてみたら、こいつはもう迷宮の外では見つからなくなってしまった亜種だって分かってね、以前に迷宮の中で見かけたという話を―――」
嬉しそうにカミキリムシを始めとする昆虫について語り始めるダニエル。依頼人かつ貴族の機嫌を損ねるのも怖いので話を遮ったりはせず、相槌を打ちながら拝聴する。
時間にして20分ほどだろうか。ひとしきり最新の研究成果について語り終えたところで我に返ったようだ。
なかなかに面白い話ではあったが、ただ礼を言うためや薀蓄を聞かせるために金払ってケンを呼んだ訳ではあるまい。
「いや失礼。昆虫の事になると止まらなくなってしまってね。今日はこんな話を聞いてもらうために来てもらったわけじゃないんだ」
「いいえ、大変興味深いお話でした」
「それで、今回の依頼というのはだね、ケンイチロウ君に迷宮の中の事について色々と教えてもらえないかという事なんだよ」
「私如きがダニエル様にお教えできる事などあるとは思えませんが……」
「謙遜も過ぎると嫌味になるよ」
ケンからすれば皮肉でも嫌味でもなく謙遜でもなく思ったままの事を言っただけだ。
上層では5年というそれなりの長い期間活動していたが、中層に入れるようになってまだ2ヶ月、実際に中層に行ったのはその内たった十数日だけである。
迷宮の外でも出来る限り情報収集を行っているが、10年以上に渡って中層で活動を続けている探索者も何人も知っている。迷宮についてなにか知りたいのならば、そういった者に尋ねた方がよほど詳しい情報が得られるだろう。
「ああ、いや、迷宮の話と言っても、僕が聞きたいのは探索者諸君が一般的に必要としているような情報ではないんだよ」
ケンの様子を見て思い違いをしていると気付いたのか、ダニエルが真意について説明をし始める。
「君は、このカミキリムシの採集依頼がいつ出された物か知っていたかい?」
「いいえ、残念ながら」
迷宮管理局に貼り出された依頼書は、達成期限があるものについてはその日時が記載されているが、無期限の依頼についてはそれも無く、そもそもいつ出された物なのかについては一切記載がない。
カミキリムシの収集依頼は紙がかなり黄色く変色していたため、かなり長い間貼りっぱなしだったのだろうと予測はつくのだが。
「もう2年も前だよ。正直に言うと僕も依頼を出したことすらすっかり忘れていたので、迷宮管理局から荷物が届いたって聞いた時は何事かと思ったよ」
つまり2年以上も依頼が放って置かれた事になるが、それも仕方ないのかもしれない。
報酬がかなりの高額だというならばともかく、上層のモンスターから取れる魔石の売却代金とそう変わらない金額を得るために、見つかるかどうかも判らない虫をわざわざ探して回る中層探索者など居るはずもない。
今回ケンが捕まえたのもわざわざ探したのではなく偶然見つけたからだし、仮にケンが単独ではなく集団で活動する普通の探索者だったとしたら見つけても放っておいただろう。
「こんな塩漬け依頼を達成してくれたのは誰だろうって興味を持って聞いてみたら、危険な迷宮の中層に一人で入ってるって言うじゃないか! それにも驚いたけど、今回のような昆虫だけじゃなくて植物なんかの採取依頼もこなしている、となったらどうしても色々と話を聞かせてもらいたくなってね」
中層に出現するモンスターは今のケンにとって全く未知の存在である。普通の動物だって見た目だけでは判断しきれないのに、それがモンスターとなれば見た目だけで判断するのは危険極まる。
こちらを見て逃げていくからといって必ずしも自分より弱いとは限らないし、見た目がどんなに弱々しくても一撃必殺の特殊能力を持っているかも知れない。
草原で見かける事ができる体長60cm程の角が一本生えた兎の全力突進は岩すら穿つ程の威力を秘めているのだ。
だから比較的安全に収入を得られる採取依頼は可能な限りこなすようにしているのだが、ケンが考えているよりもずっとこういった依頼をこなす探索者は少ないのかもしれない。
「いろいろ、とは具体的にどんな話をご要望でしょうか」
「迷宮の中の環境、特に動物や植物について聞かせて欲しい。以前、引退した探索者と会ったことがあるんだけどね、彼は毒にも薬にもならない植物や虫なんてものに一切興味が無いみたいだったよ」
探索者としてはそちらの方が正しい姿勢だろう。
木を見た時に注意すべきはそこにモンスターの痕跡があるかどうかであって、どんな種類の木でどんな虫が居るかではない。
「本当は自分で迷宮まで行ってフィールドワークしたいんだけどね。ずぶの素人を迷宮の奥深くに連れて行ってくれる人なんてなかなか居ないだろうし、やってくれるとしても多大な費用が要求されるのは間違いないから諦めてるんだよ」
仮にやるとなった場合、護衛の料金以外にも普通に探索していたら得られたはずの収入の補填まで要求されるのは間違いない。
下手な相手に頼んだ場合、法の目が一切届かない迷宮の中に入った途端に殺されておしまいだろう。曲がりなりにも貴族ならば意図的に殺される事はないだろうが、そうなると今度は逆に何かあった時の責任を恐れて請ける奴が居なくなる。
ケンはその後、ダニエルと大いに迷宮について語り合った。
今までは考えてきた諸々の疑問について誰とも議論することなどなかったから、そういった相手に飢えていたのかもしれない。
「いやいや、とても興味深い話が幾つもあって興奮してしまうね。今日の話は友人たちにも聞かせてやりたかったよ」
「お役に立てて幸いです」
ダニエルは興奮しながら紙に何事かを盛んに書き付けている。
「こんな事を言っては気分を害するかも知れないが……ケンイチロウ君と話していると高等教育を受けていない一般人とは到底思えないよ。その知識はどこで身につけたんだい?」
「まあ、色々とありまして」
「色々と、か。僕には君が知識神の使徒だろうとどこかの邪悪な神の使徒だろうと関係無いから追求は止めておくよ」
「恐縮です」
別の世界から来ました、などと言ってもどうせ信じられないだろう。
いや、ダニエルならば信じるかも知れないが、それはそれで研究対象にされてしまいそうで恐ろしい。
「どうだろう、できればこれからも定期的に今日のような話をしたいと思っているんだが……」
「喜んで伺わせて頂きます」
「ありがとう。見ての通りあまり裕福ではないので金銭的なお礼はあまり期待しないで欲しいんだが、僕が出来る事であればなんでもしよう。名前だけで何の権力もない貴族だが、こんな名前でも役に立つときもあるだろうし」
思わぬコネを手に入れてしまったようだ。厄介事に巻き込まれた時に貴族の名前を軽々しく出した場合、よけい面倒な事態が発生しそうだが。
貴族としてのダニエルではなく研究者としてのダニエルならば存分に活用させてもらおう。
「では、一つだけ。お知り合いに迷宮のモンスターについて研究なさっている方はいらっしゃいますか」
「友人ではなく知人で良ければ数人ほど心当たりがあるが……中層のモンスターについて詳しいかどうかは保証できないよ」
「いえ、モンスターそのものではなく、正体不明の戦利品についてでして」
ケンの頭にあったのはオーク・リーダーのドロップアイテムとして手に入れた黒い球体だった。2ヶ月間色々な所で鑑定をさせてはみたが、全く正体が知れていない。
研究者ならばすぐに正体が分からなかったとしても、自分から手を尽くして調べてくれるのではないかという打算がある。
「それなら魔道具の研究をしている友人なんかにも声をかけてみよう。今度実物を見せてくれないか?」
「はい、次回こちらに伺う時に持参しましょう」
「じゃあ、準備ができたら僕の方から連絡をしよう。みんな忙しいからすぐにとは行かないだろうけど」
「問題ありません。お願いします」
その後も色々と話が盛り上がり、ようやくファブリチウス邸を辞した時には既に夕暮れ頃になっていた。
身分差はあるが、今日、この世界で初めて友人が出来た気がする。




