〈中〉
なにが起こったのかは分からない。蜻蛉はどうやら、私を喰うことは諦めたようである。私は蜻蛉の頭より少し後ろの位置に座っている。私の背後では、羽がせわしなく音を立てている。
エディヌ国が見えてくるのはあっという間だった。人間が三日かけて歩いてきた道のりは、蜻蛉にとっては三時間で済むものだったようだ。
空中であろうと、そこが熱気にふれていることに違いはなかった。そして、私が餓死の直前状態にあることも変わらない。このままだと私は死ぬだろう。
エディヌ国が慌てている。巨大な蜻蛉が飛んできたのだから当然だ。人が蟻のように蔓延っている。私は自分の庭園に降りたかった。しかし蜻蛉は私の意志を断り、国王のいる城へと飛んでいく。
城壁には既に、大量の兵士が配置されていた。蜻蛉へ向けて砲撃を開始する。しかし砲弾はまるで砂粒のように、ただ煩わしいだけのものだった。気付けば私は穴だらけになっていた。多量の血液が流れ出ている。どろりとした液体が、蜻蛉の頭部を塗りたくった。私は高揚とした気分に浸り、大量の兵士たちを睨む。いくらかの兵士が怯んだ。その兵士たちを、蜻蛉は薙ぎ殺す。私と違って、蜻蛉は無傷に等しかった。
蜻蛉は国王の部屋の窓まで飛んだ。まだ兵士たちが騒いでいる。窓には厳重な布が張られていた。内側を覗かれないために、普段からかけてあるのだろう。
私は窓へ飛び移った。蜻蛉が私を複眼で見遣る。私はどんどん愉快な気分に嵌っていく自分を楽しんだ。布は布であるがゆえに破ることができる。私は国王の部屋に侵入した。
中に国王はいなかった。既にどこかへ逃げたらしい。私は部屋を扉からくぐり出て、豪華な廊下を歩き回った。途中、数人の兵士と鉢合わせになった。相手は容赦なく弾丸を撃ち込んでくる。腹や胸や顔が貫かれた。血液は流れ出るまでもなく肉体と共に抉れた。においはあまり気にならない。それよりも国王が見つからないことのほうが不愉快だった。私はそのまま兵士たちのほうへ進み寄った。
「ば、バケモノだ」
兵士のひとりがそう言い放った。それと同時に、その兵士は銃器を放り投げていた。そのまま逃げ去ろうとする。愚かな奴だ。他の兵士が気付いたときには、既に遅い。投げ捨てられた銃器を、私はしっかりと握り締める。
逃げ去った兵士を追うのは諦めた。顔を覚えていなかったので、追いついたとしても本人だという確信が持てないだろう。それよりも国王を探ることが先決だ。
私は廊下を進み、階段を上り下りした。いくつかの部屋をまわり、王冠の姿を探る。しかし見当たらない。もしかしたら、もう城の外へ逃亡を済ませたのかもしれない。私はてっきり、城のどこかに隠れているものだと考えていた。しかし既に逃げた後であるのなら、それは場都合が悪い。今頃、城壁の周囲には兵士がたくさん蔓延っているだろう。先ほどよりも多く、通り抜けるのが困難なほど。
蜻蛉のところへ戻ろうかと考えた。しかしその前に、くまなく城内を調べるべきだ。そう思い直して、私は地下室へ踏み入る。
そこに、国王の気配があった。恐怖におののく冠の音がしたのである。地下室は暗いが、不自由にはならなかった。目が機能しなくともどこになにがあるのか、とてもよく分かる。弾丸を受けたせいで眼球が潰れているのに気づくのにも、いくらかの時間を要したほどだ。
地下室はどうやら倉庫として使われているようだ。箱が積まれている。中を覗くと、大きな書物がたくさんあった。それがなんであるのかは知っている。エディヌに名を与え、ソフィアに罪を与えた過程を記した書物だ。それがいくつも、重なって箱に入っている。他の箱にも、似たようなものばかりが入っていた。
ただし、一番奥の箱を除いて。
おそらくその箱は、緊急時のためにあらかじめ用意されていたのだろう。箱の中身を取り出した形跡がないから、そう判断できる。国王の身が危険に晒されたとき、地下室のこの空の箱に入ることになっていたのだ。そして国王は、律儀にもそれを遵守した。国王は政治を理解できていないのか。臣下に与えられた避難所ほど、危険な空間はない。
しかし、私は臣下ではない。臣下も臣下なりに、王の座を知らない者ばかりだったのかもしれない。
私は銃器を箱に向けた。弾丸はこのために一発だけ残していた。同じ一発であっても、相手が兵士であるか国王であるかで、その重さは変化する。今の弾丸は非常に軽い。
私はこん、と箱を銃器で叩いた。すぐさま悲鳴が聞こえてくる。狙いどおり、国王はこの箱の中にいた。怯えきった声を殺して、体を包ませて潜んでいたのだ。私はその姿を嗤った。
「赦してくれ……」
国王がからがらの声で言った。
私は銃口をその口に当て、なにか言い出す前に引き金を引いた。
喉のあたりを貫通した。当然のように血液が噴出してくる。箱は樽のようにそれを溜め込んでいった。
私は愉快になる自分を感じた。それと同時に、蜻蛉のところへの帰依心が強くなっていることに気付いた。私はその心に従うことにした。
兵士たちはまだ、国王の死に気付いていないようだった。未だに城壁を囲み、鉢合わせになれば銃弾を撃ち込んでくる。私の体はぼろぼろの雑巾のようになっていたが、兵士たちは銃を握る手を弱めなかった。
しかし弾数が零になれば、自然と攻撃は止んでいた。私は最初に入った部屋へと戻るため、階段を上らねばならなかった。それとも下りねばならないのか。ここが城のどのあたりであるか、見当がつかなくなってしまっていた。
私は思念した。ここがどこだか判断するのである。今まで通った廊下を思い出し、脳内に地図を描いた。それによると、元の部屋に戻るのはほぼ不可能であることに気付いた。道のりが、三日では及ばないほど複雑なのである。私はその道をどのようにして短時間で進んだか考えたが、いい答えは見つからなかった。
さすがに場都合が悪くなったのか、蜻蛉のほうが私を迎えに来てくれた。私のいるところまで、城の壁を突っ切って崩してやってきたのである。私は蜻蛉の頭を撫でてやった。そうして頭の後方部分に座った。私の腰は欠けてしまっていたため、座るのは容易なことではなかった。それでも、蜻蛉の運転がいいのか、動き出してからはバランスを崩すことはなかった。
私は愉快でならなかった。
私は力を手に入れたのである。
ソフィアの樹の実の、絶対的な力を。