〈前〉
空気が熱気に揺れている。身をよじる。ときたま救いの風が吹くが、結局それも、熱風でしかない。空気は常に揺さぶられ、疲れを感じる暇さえ手にできない。
ここは砂漠だ。どこまでも広い、砂の絨毯。地平線の影響で、空と地面がはっきりと区別できる。草は一本たりとも生えていない。ただ熱気が蔓延っているだけだ。
汗は流れない。自らの体が危険に晒されていることがよく分かった。体外に排出できるだけの水分も残っていないのだ。自分が立っていられるのが、むしろ不思議に思えてしまう。感謝や安堵は感じない。感謝する相手は思い浮かばず、安堵できるほど安全な状況でないことを知っているからだ。
もうどれほど歩いたのだろう。振り返ると、前方と同じくの地平線があった。引き返すこともできない。今頃引き返したところで状況が変わらないのは、ずっと前から決まっていたことだが。
……およそ三回分ほど太陽が昇る前のことだ。私は、罪を犯した。
エディヌ国で暮らしていた私は、大きな庭園をひとつ持っていた。エディヌ国といえば、その名の示す通り、草原のように自然溢れる国家である。自然と共存し、決して自然を支配しない。偉大なる自然を支配するだなんて、とうてい無理なことだとエディヌ国は弁えていた。そんな自然豊かな国では、一般の国民であろうと庭園を手にするのは難儀なことではなかった。
私は普段と変わらず、庭園の手入れに精を入れていた。庭園には、いくつもの太い樹が並んでいる。私は害のあるものが付着してなどいないか、庭園をまわって確認した。そうしながら、咲き誇っている花に水をやる。
庭園の中央には、特に立派な樹が立っている。それには実が生っている。丸い樹の実だ。これは、食べてはいけない。
エディヌ国にはいくつかの戒律がある。国民としての、最低限の義務として、憲法で決められたことがあるのだ。そのうちのひとつに、こうあるのだ。
――ソフィアの実を喰うべからず。
理由は知らない。しかしこれは国の禁忌となっている。それでも、栽培を禁止するわけではない。ソフィアの実は、喰うことこそできないが、その存在自体がとても益となるらしい。喰ってはならぬが、なくてはならない。そんな実だ。
私はいつもどおりに、その樹に害のあるものが付着していないか点検した。すると、なんとそこには蛇がいた。私は現れた爬虫類におののきつつも、それを追い払うために、花に水をやる要領で水を放った。それは蛇にかかるも、蛇はまるで心地良さそうに舌を鳴らす。
「出て行けえ」
私は水力を強めて言い放った。しかし蛇は立ち退こうとしない。
「この実、美味そうだとは思わぬか」
水浴びに構わず、蛇がそう言った。細長い舌で実を嘗めようとする。
「おい。ソフィアの実を知らないのか!」
私は激昂し、水をとめて蛇に飛び掛った。しかし蛇はひょいと避けてみせ、ソフィアの樹を這う。
「そう怒鳴るでない。貴様は、この味を知らぬのか」
蛇は喉を鳴らして嗤った。米粒ほどの瞳も、愉快そうに震えている。
その瞳が、完全に私を捕らえた。足を針で縫いつけられる。痺れが全身にまで広がり、まるで私は蛙のように、蛇の視線に縛られていた。
「ほら、喰うてしまえ」
目が覚めたときには、私は国王の前にいた。私は刑に処されることになった。国の掟を破ったからである。蛇の話をしようとも、私の口は綿をつめた人形のように動かない。そうしている間に、刑の内容は告げられていた。聞かずとも、それがなんであるか分かる。
エディヌ国に、刑罰はただのひとつしかない。盗みを働いても、殺人を犯しても、どれも罪であることに変わりはない。エディヌ国に罪人がいてはならないのである。それがどれほど些細な罪であっても、原罪さえ持たぬとされるエディヌ国民にとってそれは邪魔な存在でしかないのだ。
……私は、未だ地平線を拝んでいる。不変の景色は不愉快を過ぎて、もはやなんの疑問も持たないようになっていた。人が呼吸するのに疑問を持たぬように、すっかり砂漠の姿は私に染み渡っていた。
なぜか国を追放される際、一日分の食料を渡された。それは渡されたその日のうちに喰わねば腐ってしまう代物で、もう残っているものはない。
なぜ国王は、私に食料を渡したのだろう。
羽音が耳に届いたのは、ちょうど、そのことについての考えを放棄したときだった。私は咄嗟に空を仰いだ。既に口の中は干乾びてしまっているが、瞳はまだそうではないらしい。太陽の光が目に痛い。それでも私は音の方を向き続けた。
そこにいたのは、蜻蛉だった。
蜻蛉の複眼が私を目視する。私はすっぽりと蜻蛉の影に嵌った。久しい涼しさが襲ってくる。蜻蛉は私よりも数倍大きかった。ソフィアの樹を横倒しにしたような大きさだ。薄い羽は陽光を辛うじて通過させたが、こちらからしたらそれは森の木漏れ日にしか感じとれない。胴は幹よりも太く、陽光を通す隙間など一片たりとも見つからない。両の複眼の脇に、忌々しい口が曝け出ている。
蜻蛉は私の姿を確認したかと思うと、大きく空を旋回し始めた。上下に大きく一周する。それが捕食へ向けての行為であることに、私はすぐに思い至った。これが処刑の内実だったのだ。三日ほどかかる距離の先に罪人を向かわせ、そこに生息する蜻蛉の餌食とする。そのために、そこへ辿り着くために国王は食料を手渡してきたのだ。
蜻蛉の羽が風を起こしている。だがまったく涼しくはない。どうしようもなくそれは熱風だ。
蜻蛉がまっすぐこちらに飛んでくる。おそらく、胴に生える六つの足で私を捕らえる気なのだろう。停止することなく、飛行を続けたまま私の頭を齧り貪り、背骨も残すことなく飲み込んでしまうのだろう。
だが、私は死なない。
目が覚めると私は、蜻蛉の上に乗っていた。