第六十七話 地獄ですか?
朝食が終わって。
私は、しばらくリビングに残ってから、
静かに廊下を歩いた。
(……少し、距離を取るって決めたのに)
足が向かう先は、
旭の部屋だった。
理由は単純。
——勉強する場所が、そこしかなかった。
⸻
ドアをノックする。
「……入るわよ」
返事を待たずに開ける。
旭は、ベッドに寝転がってスマホを見ていた。
いつも通りアニメを観ていた。
(……よし)
私は何も言わず、勉強机の椅子を引いて座る。
……数秒後。
画面に映っていた物を思い出して、私は固まった。
——湯気。
——浴槽。
——肩まで浸かるキャラ。
(……は?)
よりによって。
——バッッ
と振り返り目を合わせる。
旭も、同時に気づいたらしい。
「……あ」
「......え」
声が、ほぼ同時に出た。
数秒間、誰も動かなかった。
スマホの画面には、
まだ湯気が立っている。
明るい声。
無駄に楽しそうなBGM。
(……地獄ですか?)
そう思った。
旭が、ゆっくりスマホを伏せた。
画面を下にして、ベッドの上に置く。
「……その」
言いかけて、
言葉が止まる。
「……いい」
私は、
先に言った。
視線はノートのまま。
「別に」
よくない。
全然よくない。
けど、今さら何か言うのも違う。
私はペンを取って、
ノートを開く。
文字を追うふりをする。
内容は全然頭に入ってこない。
旭は、ベッドに寝転がったまま。
天井を見ている。
スマホには、もう触れない。
沈黙。
ただ、
二人分の気配だけがある。
距離は、
十分にあるはずなのに。
(……近い)
そう感じてしまうのが、
余計に腹立たしい。
「……宿題か?」
旭が、ぽつっと聞く。
「……そう」
短く答える。
それ以上、
会話は続かない。
私は、椅子に深く腰掛け直す。
背中を伸ばして、視線を落とす。
(……集中)
(……集中しなさい)
でも。
頭の片隅に、
さっきの画面が残っている。
湯気。
浴槽。
肩。
(……忘れなさい)
(......忘れなさい私!)
旭が、
小さく寝返りを打つ。
シーツが擦れる音。
その音だけで、心臓が跳ねた。
(……何も起きない)
(……起きるわけがない)
それでも。
この沈黙が、昨夜の続きみたいで。
私は、ノートの端を強く押さえた。
距離を取るって、決めたはずなのに。
なぜか、余計に意識してしまう。
——そんな朝だった。




