第六十四話 眠れない夜
夜。
時計は、とっくに日付を越えていた。
布団に入っても、
目を閉じても、
眠気が来ない。
父の声が、頭の奥で反響している。
「戻ってこい」
「何を考えている」
「成田旭に関わるな」
(……うるさい)
胸の内側が、じわじわと圧迫される。
このまま横になっていたら、何かが壊れそうだった。
⸻
静かに布団を抜け出す。
真昼も、旭も、もう眠っている。
寝息を立てている二人を見て、少しだけ安心した。
廊下は暗く、足音がやけに大きく聞こえる。
脱衣所の灯りをつけた。
白い光。
(……少し、落ち着こう)
それだけのつもりだった。
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湯船に浸かる。
熱が、身体を包む。
でも、
頭は冴えたまま。
考えないようにしても、
考えてしまう。
副会長。
家。
父。
成田旭。
(……私、どこに向かってるんだろ)
答えは、出ない。
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風呂を出る。
タオルを肩にかけ、脱衣所へ足を踏み出した、その瞬間。
——人の気配。
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「……っ!?」
思わず息を呑む。
成田旭が、脱衣所の入口に立っていた。
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一瞬。
本当に、時間が止まった。
彼の視線が、私を捉えたまま固まる。
私も、動けない。
頭では分かっている。
事故であり偶然だ。
でも。
(……見られてる)
その感覚だけで、
全身が一気に熱を持つ。
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「……っ、ごめん!」
旭が、遅れて我に返る。
勢いよく視線を逸らし、壁の方を向く。
「ほんとに、ごめん」
声が、少し裏返っていた。
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私は、何も言えなかった。
心臓がうるさすぎる。
怒るべきなのか。
責めるべきなのか。
——違う。
今一番嫌なのは、
動揺している自分だった。
沈黙が続く。
私には逃げ場がない。
旭は、こちらを見ないまま動かない。
それが、余計に意識させる。
「……眠れなくて」
彼が、言い訳のように続ける。
「風呂、入ろうと思って」
「……私も」
やっと、それだけ言えた。
声が、自分でも分かるくらい低い。
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また、沈黙。
空気が重い。
「……先、どうぞ」
旭が言う。
「俺、出る」
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その言葉に、
胸の奥がざわついた。
(……それで終わり?)
そう思った瞬間、
自分に驚く。
(……何を期待してるの)
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「……待って」
口が、勝手に動いた。
旭が、ぴたりと止まる。
(……何言ってるの、私)
後悔が遅れて押し寄せる。
「……いや」
慌てて言い直す。
「……何でもない」
「出て」
声が、少し震えた。
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旭は、一瞬だけ迷って。
「……分かった」
それだけ言って、
脱衣所を出ていった。
引き戸が閉まる音が、
やけに大きく響く。
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一人になる。
その瞬間、膝の力が抜けた。
洗濯機にもたれかかる。
(……最悪)
偶然。
事故。
そう分かっているのに、
胸の奥がざわついたままだ。
⸻
布団に戻る。
目を閉じても、
彼が視線を逸らした横顔が消えない。
(……これ以上、近づいたら)
(……多分、戻れなくなる)
そう思うのに。
眠れない夜は、終わらなかった。




