表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才媛自刃  作者: 内海郁


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

9話

 此で、何度目だろうか。


 書き上がるまで死ねない。そう今村に宣言されてから、半月は経つ。

 初めこそ、その運命から逃れようと必死に自死を模索したが、行為に走ったその直後、生き返らされてしまう。

 例え倉に隠れ死後数日が経過しても、身を炎で焼いても変わらない。残るのは、苦しみの記憶だけ。


 常人ならば、狂って居ただろう。

 只。

 吟は、既に狂気に吞まれ果てていた。

 これ以上喪失する理性など生憎持ち合わせて居なかったのだ。


 それでも尚、のし掛かる地獄。

吟の限界はとうの昔に迎えていた。


「正に、死体蹴りじゃあないか」


 吟は文机に戻り、万年床へと握り込むと、音もなく流れる涙をただ見送った。


 そして暫く。


 虚に天井を見る。

 数えに数えたシミの数は、今日も変わらない。


 縋り付くように、握りしめた万年筆を弄び、小さくため息をついた。

 あれから数週間、いまだにこのペン先からインクが出ることはない。

 原稿用紙は真っ新なままだ。


「貴方の本は、名著となります」


 そう言われた瞬間は、正直嬉しかった。

 自分の作品が、未来に残る。文筆家として、最高峰の名誉の一つである。

 だが、同時に襲ってきた責任感と期待、そして今村の瞳。


 あの時の彼は、いつもの胡散臭い者の顔ではなかった。

 にごった瞳の奥が、確かに輝いていた。


 期待されている。そう理解した吟は、一層恐ろしくなってしまったのだ。


 知らない方が良かった。実感なんて塵ほど感じていないが、自分の作品が日本の未来に関わるだなんて。

 凡才が背負うには、あまりにも重すぎる。


 だが時は既に遅し、もう自分は無知で曖昧であったあの頃には戻れない。

 愚かだったあの頃には戻れない。


「……ッ。我慢、できるかよ」


 徐々に吟は立ち上がり、床の間に飾ってある質素な鞘を手に取った。


 握られた短刀は、かつて武家の娘であった祖母が自分に遺したもの。

 何かあった時のために持っておきなさいと言われたもの。

 きっと質に出せばいい値が出るだろうから、生活に苦しくなったら売ってほしい。

 そういう意味で言ったのだろうが、それ以上の苦難が今訪れている。

 

「おやめください」


 はたと、抜きかけた鞘に手が添えられる。今村だった。


「私とてサディストではありません。

何度も何度も死ぬ貴方を見るのは懲り懲りです」


「じゃぁ、じゃあ……! 私にこのまま死という救済手段を放棄しろというのか」


 短刀を捨てる。

 今村の糊のきいたスーツに掴みかかる。

 僅かに歪んだ重心に、両者は揺らいだ。


「殺してくれ……助けてくれ。書きたい、書きたくない。もう、嫌だ」


 楽になりたい。


 紅葉のような手が、今村の頬に添えられた。

 だが、彼は一切触れ返す事はない。

 冷たい硝子玉のような瞳で見つめるだけ。


「だめです、センセ。貴方は死ねません。

 原稿を書き上げるまでは、死んではいけない。

 何度言ったら分かるのですか」


「死ぬとき、お前も地獄に落としてやる。

一緒に手を引いて、賽の河原を渡ってやろうか」


「生憎。私は死ぬことは出来ませんから――それに」


 今村は嘲るように口元を緩ませ、視線を僅かに逸らした。


 地獄なら、もう直ぐ味わいます。


「は、何を言って」


「独り言ですよ。では、行きましょうかセンセ」


「どこに」


「お食事です。お粥を作るのもいいですが、やはり今晩は外食の気分なのですよ。

 それに、ひとつ策を思いつきました」


「策?」


「ええ、ついてからのお楽しみです」


 呆然と立ち尽くす吟。その間に、今村ははらりと玄関へと向かう。


「……また、はぐらかされた」


 肌にこびりついた血の花は、いつの間にかすっかり散っていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ