9話
此で、何度目だろうか。
書き上がるまで死ねない。そう今村に宣言されてから、半月は経つ。
初めこそ、その運命から逃れようと必死に自死を模索したが、行為に走ったその直後、生き返らされてしまう。
例え倉に隠れ死後数日が経過しても、身を炎で焼いても変わらない。残るのは、苦しみの記憶だけ。
常人ならば、狂って居ただろう。
只。
吟は、既に狂気に吞まれ果てていた。
これ以上喪失する理性など生憎持ち合わせて居なかったのだ。
それでも尚、のし掛かる地獄。
吟の限界はとうの昔に迎えていた。
「正に、死体蹴りじゃあないか」
吟は文机に戻り、万年床へと握り込むと、音もなく流れる涙をただ見送った。
そして暫く。
虚に天井を見る。
数えに数えたシミの数は、今日も変わらない。
縋り付くように、握りしめた万年筆を弄び、小さくため息をついた。
あれから数週間、いまだにこのペン先からインクが出ることはない。
原稿用紙は真っ新なままだ。
「貴方の本は、名著となります」
そう言われた瞬間は、正直嬉しかった。
自分の作品が、未来に残る。文筆家として、最高峰の名誉の一つである。
だが、同時に襲ってきた責任感と期待、そして今村の瞳。
あの時の彼は、いつもの胡散臭い者の顔ではなかった。
にごった瞳の奥が、確かに輝いていた。
期待されている。そう理解した吟は、一層恐ろしくなってしまったのだ。
知らない方が良かった。実感なんて塵ほど感じていないが、自分の作品が日本の未来に関わるだなんて。
凡才が背負うには、あまりにも重すぎる。
だが時は既に遅し、もう自分は無知で曖昧であったあの頃には戻れない。
愚かだったあの頃には戻れない。
「……ッ。我慢、できるかよ」
徐々に吟は立ち上がり、床の間に飾ってある質素な鞘を手に取った。
握られた短刀は、かつて武家の娘であった祖母が自分に遺したもの。
何かあった時のために持っておきなさいと言われたもの。
きっと質に出せばいい値が出るだろうから、生活に苦しくなったら売ってほしい。
そういう意味で言ったのだろうが、それ以上の苦難が今訪れている。
「おやめください」
はたと、抜きかけた鞘に手が添えられる。今村だった。
「私とてサディストではありません。
何度も何度も死ぬ貴方を見るのは懲り懲りです」
「じゃぁ、じゃあ……! 私にこのまま死という救済手段を放棄しろというのか」
短刀を捨てる。
今村の糊のきいたスーツに掴みかかる。
僅かに歪んだ重心に、両者は揺らいだ。
「殺してくれ……助けてくれ。書きたい、書きたくない。もう、嫌だ」
楽になりたい。
紅葉のような手が、今村の頬に添えられた。
だが、彼は一切触れ返す事はない。
冷たい硝子玉のような瞳で見つめるだけ。
「だめです、センセ。貴方は死ねません。
原稿を書き上げるまでは、死んではいけない。
何度言ったら分かるのですか」
「死ぬとき、お前も地獄に落としてやる。
一緒に手を引いて、賽の河原を渡ってやろうか」
「生憎。私は死ぬことは出来ませんから――それに」
今村は嘲るように口元を緩ませ、視線を僅かに逸らした。
地獄なら、もう直ぐ味わいます。
「は、何を言って」
「独り言ですよ。では、行きましょうかセンセ」
「どこに」
「お食事です。お粥を作るのもいいですが、やはり今晩は外食の気分なのですよ。
それに、ひとつ策を思いつきました」
「策?」
「ええ、ついてからのお楽しみです」
呆然と立ち尽くす吟。その間に、今村ははらりと玄関へと向かう。
「……また、はぐらかされた」
肌にこびりついた血の花は、いつの間にかすっかり散っていた。




