8話
〈六〉
「ぅ……ぁ、ぅう……」
震える、震える、震える。擦れた万年筆のささくれた持ち手が、震える。
右往左往と混濁する吟の瞳は、真っ白な原稿用紙を只ひたすらに見つめていた。
憎いほど真新しい白い現実は、容赦なく且つ丁寧に、吟の心を削いでいく。
それが数刻前。
秒針の音が過ぎ去る間、只の一度も、彼女は動く事はなかった。
まるで、永遠のような規則的な時間。
だが定常として、それを破る者は必ず現れる。
「センセ。吟センセ」
薄暗い襖の向こう。一つ男の影が浮かんだ。
細く座した男の輪郭。低く甘めの、胡散臭い声。
無論、表情は見えない。
だが、吟の脳裏には、こちらを嘲笑う彼の姿が鮮明に映し出されてきた。
「筆は進みましたか」
逆鱗であった。
彫像のように静止していた吟は、怒りのままに顔を歪め、ぐしゃりと原稿用紙を握りしめる。
「……進むわけ、進むわけないだろう!」
火鉢の木炭が、ころりと転がる。
「こんな、こんな砂粒一つ動かせぬ蟻地獄の底で。
雁字搦めの張り付けのままで。
アンタは、出来るのか、今村ッ!」
冬の冷空を震わせる、絞り出すような恨み言。
されど、彼の声色は変わらない。
「私には分かりかねます。
私は所詮、編集職。貴方様から原稿を頂く伝書鳩。
作家の味わう海の苦しみを知りません」
「貴様……」
ですが。
今村は、静かに付け加える。
「センセの側にいることは出来ます。
作品の生まれるその時まで、貴方のお側に――」
そう言いかけた瞬間だった。
風を斬るかのようにぴしゃりと襖が開く。
姿勢良く正座する今村の傍らに、吟は現れた。
髪はぼさぼさ、目はうつろ。
元より生白い肌は、一層蒼白に見える。
そのせいで、古い朱の羽織が鮮やかに見える程だ。
今村は顔を上げ、一言。
「随分とお疲れのようですね。
一つ、茶と菓子を用意致しましょう」
「――たくない」
「はい?」
「――たくない。
見たくない見たくない、見たくない」
見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない――――!
「センセ、」
瞬間、今村のレンズに、白い漆喰の壁に、彼岸花の野を思わせる紅い色彩が咲いた。
それが血液であることは、言うまでも無い。
彼の視界に見えていたのは、自ら首筋に簪を突き立てる吟。
光のない目をした彼女は、頸動脈の深くまで、杭に似たそれを、自らの死の意思で突き破ったのだ。
「……嗚呼」
ゆらり、と傾き倒れ込む吟。
痩せ細った身体は今村に受け止められ、床板の上に広がる血の海を作った。
冷たい瞳で見つめながら、ただ視るしかない男は呟いた。
「……はぁ、何が好きで、こんなことせねばならんのでしょう」
懐から取り出されたのは、眼球蠢く懐中時計。
12時の方向に飛び出す捩子をカリカリと巻き、針を巻き戻す。
すると、まるで逆再生のフィルムのように赤の潮は引いていき、吟の身体へと収まって行く。 止まっていた心臓も動き出し、詰まっていた栓が抜けるように、吟の呼吸が戻った。"
「センセ、セーンセ。
起きてくださいな」
ぽんぽんと細い肩を叩くと、まるで芋虫のように吟は蠢く。
が、それきり。今村に背を向けフテ腐れるようにため息をついた。
「センセ、」
「嫌だ。書きたくない……失せろ……」
「そうは言われましてもねェ。
私も仕事ですから」
「仕事、ねぇ」
「はい。貴方から原稿をいただくが我が使命。
早くくださいませー」
「じゃあ……オマエから寄越せ」
何をです。と尋ねると、吟は小さく「温かいもの」と呟いた。
今村は「ま!」と口元を抑え、体をくねらせる。
「なんとまぁ、抱擁をご所望で。
光栄ですが私は人ならざる身。
センセの求める人肌とは違い――」
「頭お花畑か。
飯だ飯。
粥でも雑炊でも何でもいい」
「左様でございますか」
今村はシュンと肩を落とすと、何処か残念そうに厨房へと向かう。
「部屋でお待ちください。半刻で絶品をお持ち致しましょう」
床を擦る靴下の音を聞きながら、吟は遠ざかる細い背を見つめる。
重い溜息が、積雪にかき消された。
此で、何度目だろうか。
書き上がるまで死ねない。
そう今村に宣言されてから、半月は経つ。
初めこそ、その運命から逃れようと必死に自死を模索したが、行為に走ったその直後、生き返らされてしまう。
例え倉に隠れ死後数日が経過しても、身を炎で焼いても変わらない。残るのは、苦しみの記憶だけ。
常人ならば、狂って居ただろう。
只。
吟は、既に狂気に吞まれ果てていた。
これ異常喪失する理性など生憎持ち合わせて居なかったのだ。
それでも尚、のし掛かる地獄。
吟の限界はとうの昔に迎えていた。
「正に、死体蹴りじゃあないか」
吟は文机に戻り、万年床へと握り込むと、音もなく流れる涙をただ見送った。
そして暫く。
虚に天井を見る。数えに数えたシミの数は、今日も変わらない。
縋り付くように、握りしめた万年筆を弄び、小さくため息をついた。
あれから数週間、いまだにこのペン先からインクが出ることはない。
原稿用紙は真っ新なままだ。
「貴方の本は、名著となります」
そう言われた瞬間は、正直嬉しかった。
自分の作品が、未来に残る。
文筆家として、最高峰の名誉の一つである。
だが、同時に襲ってきた責任感と期待、そして今村の瞳。
あの時の彼は、いつもの胡散臭い者の顔ではなかった。
にごった瞳の奥が、確かに輝いていた。
期待されている。そう理解した吟は、一層恐ろしくなってしまったのだ。
知らない方が良かった。
実感なんて塵ほど感じていないが、自分の作品が日本の未来に関わるだなんて。
凡才が背負うには、あまりにも重すぎる。
だが時は既に遅し、もう自分は無知で曖昧であったあの頃には戻れない。
愚かだったあの頃には戻れない。
「……ッ。我慢、できるかよ」
徐々に吟は立ち上がり、床の間に飾ってある質素な鞘を手に取った。
握られた短刀は、かつて武家の娘であった祖母が自分に遺したもの。
何かあった時のために持っておきなさいと言われたもの。
きっと質に出せばいい値が出るだろうから、生活に苦しくなったら売ってほしい。
そういう意味で言ったのだろうが、それ以上の苦難が今訪れている。
「おやめください」
はたと、抜きかけた鞘に手が添えられる。今村だった。
「私とてサディストではありません。
何度も何度も死ぬ貴方を見るのは懲り懲りです」
「じゃぁ、じゃあ……! 私にこのまま死という救済手段を放棄しろというのか」
短刀を捨てる。今村の糊のきいたスーツに掴みかかる。
僅かに歪んだ重心に、両者は揺らいだ。
「殺してくれ……助けてくれ。書きたい、書きたくない。もう、嫌だ」
楽になりたい。
紅葉のような手が、今村の頬に添えられた。
だが、彼は一切触れ返す事はない。
冷たい硝子玉のような瞳で見つめるだけ。
「だめです、センセ。
貴方は死ねません。
原稿を書き上げるまでは、死んではいけない。
何度言ったら分かるのですか」
「死ぬとき、お前も地獄に落としてやる。
一緒に手を引いて、賽の河原を渡ってやろうか」
「生憎。
私は死ぬことは出来ませんから――それに」
今村は嘲るように口元を緩ませ、視線を僅かに逸らした。
地獄なら、もう直ぐ味わいます。
「は、何を言って」
「独り言ですよ。
では、行きましょうかセンセ」
「どこに」
「お食事です。
お粥を作るのもいいですが、やはり今晩は外食の気分なのですよ。
それに、ひとつ策を思いつきました」
「策?」
「ええ、ついてからのお楽しみです」
呆然と立ち尽くす吟。その間に、今村ははらりと玄関へと向かう。
「……また、はぐらかされた」
肌にこびりついた血の花は、いつの間にかすっかり散っていた。




