7話
〈五〉
ぱち、ぱち。火鉢鳴る優しげな音。
穏やかな微睡みの間を抜け、清水吟は目を覚ました。
目を、覚ました……?
「おはようございます。センセ」
まさか、そのまさか。
耳に飛び込んで来たのは、もう何年も聞き慣れたきな臭さを感じる声。
慌てて覚醒すると、そこには果物の皮を剥く今村の姿があった。
利口に正座し、背をピンと伸ばし、鼻歌を歌いながら器用に林檎の皮を剥く
。思わず吹き出してしまうような物珍しい光景ではあるが、吟は顔面蒼白で今村を指さした。
「オマエ、オマエ……なんでここに」
今村は「んン?」と不思議そうに首を傾げた。
「何ですか、原稿を取りにきただけですよォ? 今まで何度もあったではないですか」
「違う、私は何で、何でここに寝ているんだ」
「ああ、お疲れだったのですよ。
昨日このお宅を追い出された後に、執筆に入られたのでしょう。
文机でぐっすりなさっていて。
僭越ながらこの今村、布団をご用意させていただきました」
「違う……違う違う違う違うッ!」
ぐしゃぐしゃと髪をかきむしり、吟は叫ぶ。
自分はさっき、死んだはずでは? 十二階の展望塔から飛び降りて、自ら命を絶った筈では? なぜ、なぜまだ生きている。
「私は、死んで」
「またまた、物騒な夢ですこと。
最近多いですねェ。
ですが、夢の中で死ぬとは吉報の一種といいますよ。
きっと、これから良いことが――」
「そうか、吉報。吉報……」
いいや。夢などではない。
確かに、私は死んだ。あの一連の出来事も夢ではない。なぜなら――。
「……なあ。じゃあ、何で此があるんだ……?」
懐から取り出したのは、小さな巾着袋。
あの時、女学校の同級生から貰ったお守りであった。
もし、彼の言うとおり、吟が昨日今村を追い出したあと眠って仕舞ったのなら、此は存在しない筈だ。
「今村」
「……はい」
「オマエ、何を隠している。なぁ、なぁ……!」
声を荒げると、今村は仕方なさそうに一つ呟いた。
「私のせいでは、ありませんので」
「何がだ、言ってみろ!」
「はァ、もう白状致しましょう。
これ以上の隠し事は、無意味ですから。
規則違反ですが、致し方ない」
そう言って今村は、懐から一つ懐中時計の形をしたものを取り出す。
金地に細やかな細工が入った蓋は、素人目でもさぞ名のある職人が手がけたものだと想像が付く。
だが、此が一体何に関係があるのだろうか。
いぶかしげに時計と今村を交互に見つめている。
「嗚呼、どうやらもう効かなくなってしまったようですね。
まったく、こう何度も何度も死のうとするから」
「は、え」
今村は、改まった表情で向き直る。
「私は今村、貴方を死なせないため、原稿を書き上げさせるため、使わされました」
「アンタ、何モンだ。本当に今村なのか」
「はい。貴方と出会った時から、私は『今村』でした。これからも、この先も」
ため息をついた今村は、気だるげに七三分けを掻き上げる。
「本当は、もう少し穏便に事を進めたかったんですがね……やはり、貴方より時計の方が先に根負けしたようです」
「は?」
時計? 訪ねた言葉に応えるように、今村は懐中時計の蓋を開ける。
そこには、赤く充血した眼球が嵌め込まれていた。
今もなお、命を持ったようにギョロめくそれは、吟を見つけるとカッと瞳孔を見開い。
「ひぇえッ!? 何だ。何だ、これは!」
「ちょっとした秘密道具でしてね。
時間をすこぉし戻すことができる。
ただね、万能ではないので使いすぎると疲れてしまうのですよ」
「疲れるって……は、欠陥品じゃないか」
「堅い鎧は重いものなのですよ」
ぱたり、と蓋を閉じると、今村は「そういうことで」と真っ新な原稿用紙の乗った文机を指差す。
「原稿、お願いします」
「だから何でだよ!」
冬の空気を、ビリビリと吟の声が振るわせる。
「そもそもわからないんだよ。
アタシがどうして原稿を書かなきゃいけなんだ。
他に才能とやらのある作家はゴロゴロいるだろうがよ!」
「……そうですね」
「そうですねじゃないんだよ。
アタシには知る権利がある。
教えてくれなきゃぁ、絶対に書かないよ」
すると今村は深くため息をつく。
「いいですか、他言無用ですよ」
「多言するほどの間柄の奴なんていない」
「そういえばそうでしたね」
「おい」
「……貴方がこれから書く小説は、今後の日本の未来を左右する、名著になる」
予想外の一言に、思わず吟は「は」と呟いた。
「何の冗談だ?」
「冗談ではございません」
「嘘だろ」
「嘘は言いません。
此の期に及んで嘘を話すほど、私の性根は腐っていませんよ。
これは、必定の未来です、ですが」
ずい、と今村は吟の元へと迫る。
「貴方が今、作品を生み出さずに死んだ場合は、未来の日本は少なくとも50年遅れるでしょう。
少し前まで50年という時間は、人類史において誤差にすぎませんでした。
ですが文明開化後の世界ではそうはいきません。
たった10年いや、1年遅れただけでも後進国とされることでしょう。
貴方はその鍵を握っている」
呆気に取られた吟は、ポカンと今村の瞳を見つめる。
だがすぐに表情を歪め「馬鹿らしい」と叫んだ。
「アタシが、そんな、日本の未来だなんて」
「再三申しますが、真実です。貴方の著作に、日本の未来はかかっている」
無理だ。
吟の本能はそこで弾けた。
彼女は今村を蹴り飛ばし、卓袱台の上に置いてあった包丁を握りしめる。
そして、着物の襟を緩めるのだった。
色気のひとつもない、見窄らしい肌を晒し、鋭利な鋒を胸へと向ける。
嘘だ、嘘だ嘘だ。何の冗談だ。
私を怖がらせようとしているのか、この男は。
きっと、そうだ、これも全部夢だ。
全部ひっくるめて夢だ。
全て、全て、全て。
醒めれば、終わる。
「吟センセ、おやめください。痛いだけです」
「五月蝿い!」
「変わりません、運命は」
「く、くそ!」
包丁を掴んだ吟は、それを心臓へと突き刺す。
一瞬走る電流のような痛みに歯を食いしばるも、次の瞬間感じたのは生ぬるい温度。
血が膝の上を滑り、畳の上へと流れ出る。
「ぅ、ぁあああッ!」
一文字に包丁を滑らせた。
その瞬間吟の体は前のめりに倒れる。
地の海に顔を濡らしながら、虚な瞳で遠い先を見つめていた。
ピクリとも動かない。
全てを察した今村は、またもや深くため息をついた。
「だから、無駄だと言っているでしょう」
ポケットから取り出された懐中時計が、ぎょろりと吟の死体を見つめた。




