6話
そして。
「センセ」
ぽんと肩を叩かれる。
びくりと身を跳ねさせ振り返ると、今村が胡散臭い口元をつり上げ笑っていた。
「今村ァ……どうして、」
「どうして、だなんてこちらの台詞でございます。
センセこそ、何をしているんですかァ。
私と打ち合わせの約束でしょうにィ」
「打ち合わせ? いつ、そんなこと……」
「おや、お忘れになっていたとは。
貴方は確かに言ったでしょう『担当編集と打ち合わせがある』と」
出鱈目だ。そう言おうとしたところで、言葉が途切れる。
そう、間違い無く件の予定に関して口にした。
だがそれは、痛々しい優しさのまなざしから逃げるための方便であり、真実では無い。
もしやこの男は、あの淑女との話を盗み聞きしていたのでは?
途端、悪寒が走る。
「気持ち悪……」
「うぅん、貴方のお言葉には一つ物申したい気持ちはありますが、良いでしょう。
このまま一緒に店に入って、ゆっくり作品について語らいましょうか」
嫌だ。なんて人混みの中で騒ぎ立てる程の根性はない。
吟は仕方なく、彼の向かう先へと渋々ついて行くことになった。
潜ったのは純喫茶の扉。
アイスクリンとコーヒーを売りにする店だ。
席に着くと、今村は微笑み品書きを手渡す。
「どうぞ、お好きなものをお頼みください。
経費です、経費」
「おう、そんなことなら、本当に好き放題頼むぞ。
良いのか」
「どうぞどうぞ」
ずらりと並べられた品書きを見る。
珈琲紅茶、そして菓子にアイスクリン。
見ているだけで、執筆の苦しみから解放される。
こんな寒い中、冷菓子を売るなど、田舎者は眉を顰めるだろうが、ストーブの効いた部屋の中頬張る冷たい甘味はたまらないのだ。
今村が注文を済ませると、慣れた手つきでウエイトレスがアイスクリンを運ぶ。
吟は目を輝かせ、「いただきます」のひとつも口にせず、冷たいそれを頬張った。
「幸福、幸福……ふふ」
「おや、上機嫌ですねェ」
ああ、確かに機嫌がいい。
今にも頬が緩みそうだ。だが、だが。
死にたくなってきた。
この矮小たる、かつ原稿のげのじにも手が着けられない自分が、こうして甘味に呆けて良いのか。
いいや、駄目だ。
駄目だろう。
自分は、もっと苦しまなければいけない。
苦しんで苦しんで、苦しんで。
惨たらしく浅ましく、醜く。死ななければいけないのだから。
「センセ?」
今村が視線を送る。
だが、このまま舌を噛み切れば。死ねる。
死ねる、今、ここで。
大衆の目の前で、清水吟という人間の死をありありと見せつけることが出来る。
お前らがやったんだと、分からせることができる。
悪くない。ああ、悪くない。
良いじゃあないか。これがいい。なぁ、そうだろう。
今村。
俯き、ほくそ笑む。
一人くつくつと肩をふるわせる吟が、奥歯の上に舌を乗せたとき。
清々しい静寂が壊された。
「センセ」
腕を掴まれる。
また、コイツか。
吟が顔を上げると、目と鼻の先。
覗き込む今村の顔。
思わず小さな悲鳴をあげた。
「あいや、驚かすつもりはなかったのですが。
腹でも痛いのですか」
「痛、い……? ああ、腹は痛くない」
「そうですか、んならよかった」
ほっと一息吐いた、されど未だ信用できない顔で今村は胸をなで下ろす。
――確かに、腹は痛くない。
だが舌がジンジンと滲みる余韻を感じた。
確かに噛もうとした。死のうとした。
されも下顎に力を入れるようなことはしなかったはずだ。
ぞっと、冷や手が背を撫でる。
覚えたものは、違和感だった。
首を吊ったあの時も、橋で項垂れていたあの時も。
まるで、時間を切り貼りされたかのような、唐突な変化に晒されていた。
異常といえるだろう。
希死念慮の強さのせいで狂い始めたか?
それとも、処方された薬が悪さをしたか?
いずれも考えられる可能性ではある。
だが、吟が最も疑ったものは違った。
瞬間、手荷物を纏め、吟は立ち上がる。
「あら、まだ食事は来て居ませんが――」
「帰る。会計は任せた」
「エェ、センセ!?」
「五月蠅い、帰ると言ったら帰るんだ!」
そう言って、吟は喫茶店を飛び出した。
「どけ! このあばずれ!」
ウエイトレスを突き飛ばし、乱暴にドアベルを鳴らす。
向かう先は、近くに見える十二階建ての展望塔。
あそこから飛び降りれば、間違い無く骨も臓物もひしゃげることだろう。
酩酊屋街を走り抜け、女たちの嬌声を聞き流し、観光客たちでごった返す展望塔の麓まで辿りついた。
最上階へ昇るにはエレベーターか階段。
勿論吟が余計な労力を使うはずもなく、客待ちの多いエレベーターへと割り込んだ。
「お客様、おやめください」
「五月蠅いぞ! 私は金を払った客だ。さっさと上に上げろ!」
怒鳴りつける声に萎縮した登乗員は、仕方なく閉のボタンを押す。
周囲の客たちの苛立ちを身に受けるも、吟はそれを一切気にする事なく、じっと、その時を待っていた。
軽快な、ベルの音。
十二階だ。
「ッ!」
いの一番に飛び出した吟の向かう先は展望台。
足場と空中が、手すり一枚で隔たれている、身投げには絶好の場所。
幸い、他の客は高所を怖がってか、境界線付近には十分過ぎる空間が出来ていた。
此なら、飛び降りられる。
「お客さん、危ない!」
慌てた様子の搭乗員に、怒鳴り声を一つ上げる。
「構うな!」
「でもこのままだと」
「そのために来たんだよ!」
吐き捨てるように言った吟は手すりに身を乗り出し、飛び降りた。
どよめきと悲鳴、そして彼女の名を呼ぶ声。
全ては浮遊感にかき消され、吟は安堵に包まれる。
此で、死ねる。
瞬間、全身を走る痛みによって気を失った。
頭部を強く打ち付けたことにより一瞬で意識は飛び、髄は折れた。
内臓はひしゃげ、骨は皮膚を突き破り血だまりを作る。
清水吟は死んだ。
十二階の展望塔から飛び降りての自死であった。
……そのはず、であった。




