5話
¥〈三〉
「ぅ、ぅう……」
体が痛い。首が痺れるかのようだ。
痛々しい覚醒の中、吟の視界に飛び込んできたのは。
ほんの爪の先も期待していない。
いやらしい男の笑顔であった。
「ああ、目を覚ましましたねぇ」
「アンタ……」
歪む視界の中、反射する丸眼鏡。
間違いない。
彼は編集のーー。
「い、今村……」
担当編集者の今村。
毎週毎週、懲りもせず存在しない原稿を引き取りにくる男だ。
その胡散臭い笑顔を浮かべ、嬉しそうに手を合わせる。
「はァい、どうも。あらいやだ、苦々しいお顔」
「目を冷まして1番最初に見たのがお前なんだ、苦い顔を浮かべたくもなる。
今すぐアタシの視界から消えな」
「まァなんと、起き抜けに罵詈雑言のご褒美を感謝いたします。
ところで原稿は上がっておりますか?」
「は? 上がっているわけなんてないだろう。
アタシはたった今、首を吊って……」
はっと首筋に触れる。
痺れるような鬱血の跡をなぞり、ゾッとした。
「おい、アタシは首を吊ったはずだ。
なんで寝ている」
確かこの卓袱台の上で……。
そう回想して天井を見上げる。
そこには昨晩かけたはずの縄も、ひと月ほど前に開けたはずの穴もなかった。
おかしい。確かについ先ほど、首を吊って命をたった。
そのはずなのに。
「畜生、一体何が起こっているんだ……」
「先ほどから何を考え込んでいるのですか?
私には、昼寝をしているようにしか見えませんでしたがーーところでセンセ、原稿は」
昼寝?
では、夢か。
首を吊った一連の出来事は夢。
ならば全て辻褄が合う。
……それにしても随分と鮮明な夢だった。
首が締まる、熱。
つい数秒前のことのように、鮮明に思い出せる。
「畜生。なんで夢なんだ。
現実じゃあ……」
「ところでセンセ、原稿の方は」
「さっきからうるさいなぁ!」
突如として、吟は叫んだ。
その顔は青くも赤くもあり、血走った瞳で今村を睨みすえる。
「原稿、原稿原稿原稿!
オマエはそれしか言えないのか!
この一旦木綿が!」
「おや、妖怪に例えられるとは新手の罵倒でしょうか。
仕方ありません。
私は編集者、貴方様……作家先生から原稿を頂戴するのが役目の伝書鳩……」
「何度も何度も言っているだろう。
私はもう小説は書かない。
2度と筆を取ることはない! だからうちに来るなと」
「まぁ、そう何度も怒鳴らなくても」
今村は櫛を差し出すが、怒れる吟の手によって床に叩きつけられてしまう。
「お前が理解するまで、喉が枯れるまで叫んでやろう。
今後! 清水吟の新作は! 上がることはない! さっさと帰れ!」
「あいたっ」
尻を思い切り打たれた今村は、畳の床に崩れ落ちる。
そして、その有り余る胡散臭さの風呂式を広げるように、なよなよしくと口元を押さえて見せる。
「そんなァ。
私は先生の大ファンなのですよ?
もうあの『悪だう(あくどう)』のような、人間の憎悪に塗れた生き様を文字として読めんないだなんて。
編集者になった意味がァ。ヨヨヨ」
「ゲェ、みっともないぞ大根役者。
その嘘泣きをやめろ」
「涙は演技であろうとも、言葉は本心ですよ?」
「急に泣くのを止めるな! 気持ち悪い。芝居なら外でやれ!」
「あーれー」
「だから黙れと言っている!」
くるくると滑稽に回りながら玄関に押し出される今村。
彼に靴を履かせると、吟は玄関の外へと追い出したのだった。
「二度とその胡散臭い顔を提げて、うちの敷居を跨ぐんじゃない。わかったな!」
「センセェ……ヨヨヨ……」
「うるさい!」
ピシャリ、と吟は戸を閉めた。
今村を追い出して数秒。
小さく乾いた唇はふう、とため息をつく。
1人になった、嗚呼何と心地よいことか。
これでひとつ、安心できる。
吟は、まるで吸い込まれるように。
自分が夢で首を吊ったはずの部屋へと向かう。
そこには、なにもなく、空虚な冷たい冬だけがあった。
本当に、夢だった。
現実を見せつけるような隙間風は、吟の頬を撫でる。
「……畜生」
胸の奥に蟠る不快感に焦がされ、ピシャリと戸を閉めた。
そして、玄関先に放りっぱなしにしていた褪せた朱色の襦袢を羽織り、外に出た。




