4話
〈一〉
帝都東京。文化華やぐその街に一人、男が歩いていた。
濃いオークルベージュのジャケットを羽織り、頓珍漢なネクタイを締めた七三分けの男。
ひょろりと薄く背の高い山高帽は、周囲の視線を自然と惹きつけていた。
されど、彼は気に留める事なく、薄く開いた眼光は丸眼鏡越しに周囲を見渡し、ある一点の方向に向かって足を進めているのだった。
ついたのは、寂れた住宅地の一軒家。表札には『清水』と掲げられている。
かつては大勢の人々が住んでいたであろう大家族向けの邸宅は、薄気味悪いほどに静かに男を見下ろしていた。
蜘蛛の巣の張った外観に溜息を吐くと、彼は柔らかい声で問いかける。
「センセ、セェンセ」
やや高く、ふわりと甘めの声。聞く者を眠気に誘う、柔らかな声。
「センセ。今村、今村ですよ。原稿を受け取りに参りましたァ」
今村。自らそう名乗った男は何度か呼びかけるも、返答はない。
彼は諦め、何の躊躇いもなく、慣れたように、玄関に手をかけるのであった。
「…………」
乾いた引き戸の音が鳴る。案の定と言えようか、室内に全く人の気配を感じない。
誰からも忘れ去られた孤独。
思わず顔を歪める寂寥の空気は、今村に一つ『嫌な予感』を与えることになった。
「入りますから」
丁寧に靴を揃えると、今村は邸宅へと脚を踏み入れる。
その足に迷いはなかった。
靴下と板の間を擦る静かな音が、或る襖の前にて止まった。
「センセ。吟センセ。原稿、取りにきましたよ」
今村の瞳に映る、薄い日光と半紙の襖により転写された影。
それは一人の女の姿をしていた。この家の家主にして唯一の住人、清水吟である。
彼女は10年前、弱冠十五にして文学賞を受賞。
彗星の如く界隈に躍り出た才媛であった。
今村は、彼女の処女作の出版から今この時まで、ずっと担当編集を続けている。
およそ十年。共に時を過ごした時間は、瞬間、今村に違和感を与えた。
薄い襖の向こう側から漂う、異質。不穏。それは彼の躊躇いを奪った。
「……失礼します、センセ」
襖を、開けた。今まで寝室兼作業部屋にこの男が自ら足を踏み入れることはしなかった。
だが、彼は開けた。失礼を以てして、境界をこじ開けたのであった。
果たしてそこに、確かに、清水吟はいた。
首を吊って。
「……嗚呼、」
何度も洗い、色の落ちた着物を纏った小柄な身体が、揺ら揺ら。卓袱台の上を舞う。
小柄で、年齢は今年で二十五。
鬱血した赤黒い顔は本来は愛らしい童顔で、伏せられた瞼の奥には光を多く吸う丸い瞳が隠れている。
髪もぼさぼさでありながら、整えようとした形跡が残っていた。
きっと、きっと本来ならば、「何を断りなく開けている」と罵倒が飛ぶ事は間違い無い。
間違い無いのだが、清水吟は無言だ。
自死を選んだのだ。
「どうして、どうしてこんな事をするんですか」
嘲るように、今村は言った。
「どうして、どうして。どうして」
消え入る声が僅かに震えていたことは、誰も知らない。




