12話
〈八〉
明る月。
清水吟の5年ぶりの新作『悪道讃歌』は刊行を迎えた。
発刊当初は特別な評価を得ることはなかったが、徐々にその人気は募っていった。
どの文芸誌も『才媛の最高傑作にして最悪の問題作』と称し、本作は後世に残ることになった。
「あはは! あはははは!」
「おお、危ない危ない」
今村はそう言いながら、程よく酒に溺れ、千鳥足で歩く吟の腰を支える。
今夜は発刊記念の小さな打ち上げがあった日だった。
出版関係者が〈間〉に揃い、皆で酒を酌み交わすだけの簡単な会。
それでも、かねてより、誰より、原稿の脱稿を望んでいた吟は人一倍酒を飲み、ご覧の通りの へべれけと化したのであった。
「阿呆ですね。原稿上がりで飲みすぎるだなんて、貴方らしくない。
酔うのは執筆時だけじゃないんですか」
「いいじゃぁないか、やっと、やっと叶ったんだ」
五年。
「五年かかった。
一作を書き始めるのに、五年かかった。
使ったのはたったの1ヶ月……どうだ、『オマエは今まで何をしていたんだ』と罵るかねぇ」
「いいえ。私は誰よりも貴方の苦しみを近くで見てきましたから。
よく書き出してくれました」
「ふへっ、どぉも」
ほんのりと紅潮した、月明かりの頬は、機嫌よく丸くなる。
このような笑顔を浮かべるのは、何年ぶりだろうか。
「あはは、転びそうだ」
「全く。
普段からそのくらい愛嬌があればいいんですけどねぇ」
「んんんー何か言ったな今村ァ。
アタシの悪口だろう? なぁ、なぁああ。あはははっ」
「これはこれは、だいぶやられていますねぇ。
あぁっ」
ふと、吟は今村の手を離れ、ふらりと橋の縁へと寄りかかった。
「へへ……」
「全く。
そんなところにいては『落ちますけどいいですか』?」
「……んんー……」
顎に手を添え、首を傾げる。
サラリと流れる横髪が、静寂の橋の上に響いた気がした。
「なぁ、今村。
アタシはさ、頑張ったか」
「はい。素晴らしい話を書きました」
「その、作品の感想は」
「ええ、禍々しくて、品がなくて……まるで魂を揺らがすような逸筆でしたよ」
「当たり前だ! 完成、させたからな。
やっと、完成させた……よっと……」
手すりに飛び乗り腰掛け、吟は得意げに笑って見せる。
月光を背にしたせいだろう。
今村からは、その本当の表情は見破れない。
されど、そのこころは。
「危ないですよ、センセ」
「当たり前だ。
危ないことしようとしてるからな」
先ほどの酔いなど、まるですっかり醒めたように、冷淡に吟ずる。
「清水先生」
「何だ」
「私は、あなたの文が好きです。
人間の魂の慟哭を描くような、不和の衝動に塗れた世界が。
生々しく愛おしい主人公が。悪意と善意に満ちた、その言葉遣いが」
あはは、と吟は笑う。
「まるで口説かれているようだ。
んふふっ、気分がいい」
「それでも、あなたは空を仰ぐつもりですか」
僅かに口をまごつかせた後、吟は肯定の返事をする。
「そうですか」
「何だ、止められるかと思った」
「唯一の人が本懐を遂げようとする間際、袖を引いて泣きじゃくるような、無様な男ではありません」
吟は微笑む。
「お前がそばにいてくれてよかったよ。
ああ、口説いている訳じゃないぞ」
「私も。あなたの第一の読者になれてよかった。
本当に」
僅かに、口元が結ばれる。
2人の間を抜ける風は、僅かに昨日と匂いが違った。
「一緒にきてほしい、とは言わないのですね」
「自惚屋め!
アンタには、アタシが作るっていう日本の未来をその目に刻みつけてもらわなくてはならない。
死なれちゃあ困るぜ」
「そうですか。
ふふ、貴方らしい」
「アタシだから、な」
今村は静かに唇を動かした。空気を、食むように。
さようなら、先生。
「達者でな、今村」
瞬間、吟はゆっくりと重心を後方へ傾ける。
緩く癖のある髪が、箒星の尾のように夜空に浮かび、そのまま闇に吸い込まれてゆく。
上がった水柱の底には、月明かりに導かれた紅い羽織が花弁のように沈んでいく。
「…………」
皆底に沈みゆく吟の姿を見つめながら、唐草彫の懐中時計を握りしめた。
「……さようなら。
私の言葉を、貴方はどれほど信じてくれたのでしょうかね」
そのまま時計を水面に投げ込み、小さくなるあぶくに背を向ける。
「ああ、ああ。月の綺麗な夜です。
センセ」
コツコツ、コツコツ。
木板の橋を渡りながら、今村は一つうそぶいた。
「閻魔様に嫁入りするのは、止めた方がよかったですかねぇ」
でも、もう遅いか。
カラカラと軽快な笑いが世に消える。
今夜はもう少し、飲み直そうか。
春を呼ぶ風が、ひらりと今村の背を撫でた。




