11話
「い……っ」
爪が立つ。
柔らかい女の手の甲を容赦なく突き刺す。
深く深く、血管を突き破らんとするほどまで。
「貴方が創作に感じる痛みは、痛いですか。
この痛みよりも、ですかぁ? ふっふふふ」
ニヤリと口角を吊り上げる今村に、吟は顔を真っ赤にする。
「は、あ、当たり前だ! お前私のこと馬鹿にして」
「どんな風に痛いですか。どんな風に苛立ちますか」
「は、」
「私はご存知の通り凡才ですからねぇ。
教えてもらわないと、わからないんですよぅ」
挑発。
間違いなく挑発だ。
あの男は自分に喧嘩を売っている……いいや? 違うかもしれない。ああ、これは。
吟の片口元が僅かに釣り上がった。
「ああ。
教えてやろうじゃないか。
まずお前のその胡散臭い顔に腹が立つ」
「あらまぁ」
「その口調もだ! 私を小馬鹿にしているとしか思えない
そんなつもりはない? うるさい! 私を不快にしたその時点でお前は胡散臭いんだよ!
その爪も凶器かってほど鋭いな。
ほら、肉まで食い込んでるぞ。
その歯だって、人の不快という名の血を啜るためにできているのか?」
まるで紫煙のようにぽこぽこと飛び出す罵詈雑言に、今村はしめしめと口角を上げる。
「何だ何だ。サディストにしてマゾヒズム主義者め! もっと私の罵詈雑言をお望みか!」
「ええ、もっと頂戴したいですねぇ。
たとえば……四〇〇字詰め原稿用紙五〇枚に認められるくらいの量が」
「この変態性欲が! いい。
アンタのお望み通り書いてやろうじゃあないか。
待っていろ。適当に酒でも頼んでおけ。ツマミも忘れるなよ」
「承知承知」
懐から原稿用紙を取り出した吟は、すぐさま手を動かし始める吟。
彼女が一心不乱に筆を走らせる姿を目に、今村は厨房正面の席へと移動した。
出された茶を啜っていると、小鉢を手にした料理人が呆れた顔で厨房から出てくる。
「アンタ。
相変わらず酷いやり口だね。
荒療治にも程がある」
料理人は原稿用紙に向かい一心不乱にペンを踊らせる吟を見て、困ったようにため息をついた。
「きっと、彼女にしか通じませんよ。
あのやり方は。最悪、心の根をぽきっとやられてしまうこともあるんですからね。
はい、お通し」
「まあ、確かにそうですねぇ。
ふふふ」
小鉢をコンと差し出すと、料理人は小さな声で「サディスト」と呟いた。
「ははは。君までそう言うんですかぁ? 心外だなぁ。私はただ、折れかけた筆を丁寧に刺激し て差し上げているだけです」
「だから、そう言うのが酷い……いいや、やらしいって言うんですよ。
変態。
やりながら喜んでいるのは、側から見ればバレバレですからね」
「あはは。
大きな声で言わないでくださいよぉ。
女史が耳にして臍を曲げたらどう責任とってくれるんですか」
「はぁ、めんど。
熱燗二つでいいですね」
「んふ。宜しくお願いしまぁす」
ため息混じりに準備をする料理人を流し見、今村はくるりと吟を見遣った。
丸い目を皿のように開きながら、血管を血走らせ呼吸すらおろそかに万年筆を走らせる。
一度起爆すれば、連鎖爆竹のように書き綴る。
良くも悪くも、彼女はそういう作家であったことを思い出す。
感慨深い。
そう穏やかに口元を緩めながら、今村は頬杖をつく。
「あっはははは! できたぞ、できたぞ今村ァ!
お前の欠点変態点を書き綴った傑作、その序章だ」
「そう、そうですよ。
あなたはそうして、書いてくれればいいんです。
その腕が壊れるまで。
いいや、壊す所を見せてくださいよ」
「ああ、やってやろうじゃぁないか!」
あっはははは!
店内に轟く機嫌のいい高笑いを響かせながら、再び吟は机上へと向かう。
その様子を見ていたのだろう。
自分の店だというのに遠慮がちに、料理人は熱燗とつまみを手にやってきた。
「何びくついているんですか。
別に彼女は人を食う種ではありませんよ。
いいや、字では喰いますが」
「いや、本当。お前も彼女も性格が……その、すごい。
ついていけないよ」
「でしょう。あれが、私の惚れ込んだ字書きです。
一生面倒を見ると誓った、ね」
「お似合いですよ、お二人とも」
「んっふふふ。
どうも〜。
ではでは、続いて。
彼女の筆が進むような、絶品をお願いします」
「はいはい」
そう言った料理人の表情は、僅かに緩んでいた。
包丁の鳴る音、ペンの走る音、粗い呼吸。
実に奇っ怪な空間の中、今村は出された茶を、機嫌良く飲み干した。
今村の前に、卵焼きがひとつ、置かれる。
「ああどうも。
いい出汁の香りだ」
「……書きあがったらどうするつもりですか」
料理人が問う。
「はい?」
「書き上がれば『全て終わる』。
『今村』という人間としての責務も、彼女の生涯も恐らく。
清水吟は自死し、貴方は次の命を下される。
刹那の戯れも、幕を閉じます」
料理人の言葉に、僅かに黙りこくった今村。
だが、すぐに胡散臭く笑う。
「ああ、わかっていますとも」
にこり、と不気味なそれ浮かべる今村に、料理人は眉を顰めた。
「アンタ、変な気を起こしていないでしょうね。
駆け落ちのような真似をすれば、それこそ消されますよ」
「私が彼女に首ったけとでも?
私はもっと貞淑で落ち着きのある人間が好みです。まァ……」
猪口にうつる丸眼鏡を見つめ、今村は呟いた。
「『清水吟』という作家が書いた文章は、愛していますけどね」
「非道いことを」
「何に対して?」
「……だから、そこが危なっかしいってんですよ。
はい、水。
酔ってますよね」
「どうもどうも」
湯呑みに注がれたぬるま湯を口にし、今村は軽く顔を上げる。
そうか、終わりか。
いずれ来ると解っていたそれが、間近にやってきている。
現実味がない。
まるで浮いているかのような感覚だ。
今、吟が綴る物語はいずれ日の本を揺るがす怪作となるだろう。
そうすれば、彼女は、自らの生涯に悔いがなくなる。
結果、いたって然るべき終幕へと自ら緞帳を下ろす。
識っている。
わかりきっている。
だが、どうにも信じられないのだ。
彼女と言う、人の形をした生のような女が、本当に死ぬところが。
「…………」
どうにも心地が悪い。
今村はチビチビと酒を口に含みながら、至る結末へと思案するのであった。




