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給水塔の底

作者: 39ra

 7月の終わり、昼間のアスファルトは噛みつくほど熱く、夜になっても町は焼けた鉄板みたいにじわりと蒸気を吐いていた。丘の上の給水塔だけが、遠くの空気を薄く震わせている。あそこからだけ、水が降りてくる。


 断水3日目。町内放送のスピーカーは、朝も夜も、決められた時間に決められた単語を読み上げる。「配給は1世帯2リットル」「順番を守って」「熱中症に注意」。録音された女性の声の、無表情な親切だけが、町の端から端まで均一に広がっていく。


 新人の頃から癖になっている布ショルダーにメモ帳と小型レコーダーを押し込んで、私は坂を登った。私は町の小さな新聞社で働いている。事件が起きると呼ばれるが、事件が起きない日でも紙面は埋めなければいけない。だから、暑さで頭が回らなくなりそうな日でも、「給水の列に並ぶ人々」なんていうありふれた写真を撮るために、私はカメラを肩に引っかけて坂を登る。


 給水塔のふもとに着いたとき、最初に感じたのは、冷気だった。真夏の真昼、太陽は容赦ないはずなのに、塔の周りだけ空気の温度が一段低い。皮膚の表面を撫でる風が、薄い氷膜を舐めるみたいにひやりとしている。


 配水車は来ない。大きな蛇口が2つ、鉄柵の内側から突き出ていて、係の人間がバルブを開閉するたび、透明な水が唇を寄せた容器へ滑り落ちる。水面は白く光を返し、落ちる音はやけに深かった。金属の響きが骨まで届く。


「次の方どうぞ」


 列の先頭にいた古い店の女将が、両手で抱えたポリタンクを差し出す。蛇口から出る水は、思ったより勢いが弱い。弱いのに、落ちる音だけは重い。私は順番を待ち、空いたペットボトルを2本、差し出した。


 係の青年がバルブをひねる。水が落ちる。ボトルの底を叩く音が、胸に響いた。汗で貼り付くTシャツに、ほんのわずか、鳥肌が立つ。


「飲んでみるといいよ」


 青年が言った。暑さのせいか、彼の目は赤く縁取られ、黒目が普段より大きく見える。私は礼を言って、ボトルの口を唇に当てた。


 一口。舌に触れた瞬間、驚きで目を見開いた。冷たい。冷たすぎる。冷蔵庫から出したばかりの水でもこうはならない。喉を落ちていくとき、食道の内側がすっと凍るみたいに静まる。そのくせ、味は確かに甘い。砂糖の甘さではない。まるで、長い運動のあとに血に戻ってきた糖分を、舌が直接舐めているみたいな、妙な甘さ。


 その一口で、体の芯がすっと軽くなった。額の痛いような熱が収まり、目の奥が明るくなる。私はもう一口だけ、と自分に言い訳をしてボトルを傾けた。冷たさは均一で、甘みはさっきよりも微かに強い。


「……美味い」


 無意識に呟いていたのかもしれない。青年が笑った。笑うと、彼の黒目はますます大きく見えた。瞳の表面が、わずかに濁っているような気がした。暑さで焦点が合わないのだろう、と自分に言い聞かせて、私は坂を下りた。


      *


 その夜、町は静かだった。断水のせいで店が早くに閉まり、子供の声も少ない。蝉の鳴き声だけがいつまでも耳にこびりつく。取材メモをまとめていると、窓の外から、ゆっくりとした足音が続いているのが分かった。見下ろすと、向かいの通りを、数人の影が丘の方へ歩いていく。水を汲みに行くのだろう。ペットボトルが互いに触れ合う、かさ、と乾いた音が、妙に湿っぽく聞こえる。


 寝付けず、ベッドの上で目を閉じたり開いたりしながら、私は昼の水のことを思い出す。喉の奥が、その冷たさと甘さを覚えている。1本分を飲みきるのに、1時間もかからなかった。体は妙に軽く、頭は冴え、眠気は薄い。窓から入り込む夜気はぬるく、けれど皮膚の下を流れる血は、澄んだ水みたいにさっぱりとしている。


 携帯が震えた。画面に、大学時代の同期で、今は市内の水質検査会社で働く高梨からのメッセージが浮かぶ。


《今日の配水、飲んだ? 分析に回ってきた試料があってさ。塩素の匂いが薄い。味、甘く感じない? 一応、気をつけて》


《甘い。冷たい。何か、変?》


《数値上は問題ない。だから余計、嫌な感じ。ミネラルで甘くなることも稀にあるけど、あの冷たさは物理的に説明しづらい。源水の温度、そんなに低いわけないし》


《源水って、どこ?》


《丘の給水塔。昔からあるやつ。最近、改修したって話は聞いてない。明日、近くまで行ってみる》


 メッセージの最後、送信とほぼ同時に、私の部屋の空気が一瞬だけ薄く震えた。気のせいだろうか。耳の奥に、低い音が残った。心臓の鼓動に似ているのに、微妙に違う。規則正しいのに、規則からずれていく。ド、クン……ド、クン……。私は枕をかぶったが、音は頭蓋骨の内側で続いているように聞こえた。


      *


 4日目の昼、給水の列は短くなっていた。暑さにやられて倒れる人がいないのは良いことだ。だが、坂道で擦れ違う人々の顔には、奇妙な同質性があった。みんなよく眠った日に似た健やかさを携えて、歩幅はゆっくりなのに、疲れが微塵もない。目が合う。黒目がちに見える。濁りといえば失礼だが、ガラスビーズみたいに光を均等に反射している。


 商店街の子どもが、ぬいぐるみを抱いて笑っている。笑い声は可愛い。可愛いのに、笑いの持続が均一で、抑揚がない。息継ぎの位置が、私の耳の記憶の中にある普通の笑い方と、半拍ずれていた。


 高梨から電話が来た。


「塔の周り、変な冷え方してる。地表すれすれが妙に低い。風洞みたい。あと、夜間、誰かがフェンスの鍵を開けてる形跡がある」


「管理は町役場のはずだよ」


「役場の人間に聞いたら、夜間は閉めてるって。鍵は1本だけ。俺の見間違いかもな。でも、夜に、低い音がする。鼓動みたいな」


 私は笑ってみせた。笑いは自分に向けてのものだった。鼓動を聞いているのは自分だけではない、という安心。けれど同時に、それを言葉にした途端、逃げ場が消える予感がした。


「夜に行ってみる?」


「行く。鍵、入手できそう。役場に顔の利く知り合いがいる」


「高梨、危ないことはするなよ」


「お前が言うな」


 子どもの頃から変わらない返しに、私は少しだけ元気が出た。


      *


 夜の給水塔は、昼間よりもはっきりと冷えていた。フェンスの向こうで、塔のコンクリート壁が、薄い霜のような白さを帯びている。高梨はポケットから小さな鍵束を出し、手早く南京錠を開ける。金属が擦れる音が、いつもより深く、低い。空気が鳴っている。


「短時間だけ。中の様子見るだけな」


 私たちはフェンスの内側に入った。塔の基部には、小さな管理室がある。扉には鍵がかかっていたが、高梨は役場から借りたという別の鍵を差し込む。冷気が頬にまとわりついた。


 管理室の中は薄暗く、古い計器と配管図が壁にかかっている。床に金属製のハッチがあって、「点検口」と書かれた黄色いプレートが貼られている。高梨は懐中電灯で辺りを照らし、ハッチの取っ手に手をかけた。


 その瞬間、低い音が強くなった。ド、クン。床板が震える。私は思わず壁に手をついた。手のひらの骨が振動を拾い、腕の奥まで伝える。


「聞こえるか」


 高梨の声は、囁きになっていた。私は頷いた。ハッチが持ち上がる。冷気が、霜の息みたいに立ち昇る。


 梯子が、暗い穴の底に向かって伸びている。下から、薄い光が揺れている。水面の反射だ。私はカメラをショルダーの外に出し、首から下げ直した。高梨が先に降り、私が続く。


 下は、狭い踊り場になっていて、そこからさらに二段、梯子が水面近くまで降りていた。塔の内側は円筒形で、コンクリートの壁は冷たく汗をかいている。懐中電灯の光が、壁に沿って細い流れを拾い、銀色の線を作る。水は、ほとんど満杯まで満たされているように見えた。表面は静かで、月の光が丸く乗っている。なのに、足の裏の下のコンクリートは、心臓みたいにゆっくりと膨らんだり縮んだりしている。


「温度、低すぎる。ここ、冷蔵庫かよ」


 高梨が息を吐いた。息は白くはならない。けれど皮膚が、内部から冷やされていく。


「試料、採る」


 高梨は慎重に、長いスポイトを水面に近づけた。水は抵抗なくガラスに入っていく。スポイトの中で、水は微かに光っている。細かな粒子が、懐中電灯の光を受けて、星座のように瞬いた。


「……何だ、これ」


 高梨の声が細くなる。私は身を乗り出した。粒子は光っているのではない。自ら、淡い光を放っている。青白く、古い蛍光灯のように、点滅を繰り返している。光は規則正しい。ド、クン。粒が同時に明るさを増し、また落ち着く。その周期は、床の鼓動と一致していた。


 私は、懐中電灯の光を水面の下に滑らせた。光は深さを失いかけ、かすむ。けれど、見えた。底の方に、輪郭を持たない塊。柔らかい、肉の色。羊膜に包まれた胎児の横顔のような影が、ゆっくりと、膨らみ、しぼむ。管があった。臍帯に似た管が、塔の壁の中に食い込み、どこかへ繋がっている。鼓動とともに、そこから淡い光の粒が吐き出され、水に溶けていく。


 目を逸らしたくても、逸らせなかった。見てはいけない。けれど見ないと、何も分からない。職業病みたいに、私はレンズを構えた。シャッターを切る。カメラは機械的に仕事をする。けれど、撮れたのは水面の反射だけだった。底は、光の中に溶け、像を結ばない。


「出よう」


 高梨が言った。声は小さく、しゃっくりみたいに震えている。


「……待って。もう一枚だけ」


 私は反射的に言い返した。自分の声も震えている。もう一歩近づいた。水面から、冷気が濃く立ち上る。手の甲の産毛が逆立つ。ド、クン。粒子の光が強くなり、私の網膜に白い斑点を残す。


 そのとき、上から音がした。金属がこすれる音。フェンスの戸が開く音に似ている。私たちは顔を見合わせた。高梨は唇に指を当て、静かに梯子に足をかける。私も続こうとしたが、遅かった。


 点検口の縁に、誰かの靴が見えた。白いスニーカー。次に、もう1足。3足。4足。濁ったガラスのような目が、暗がりの中から覗いた。私たちを見下ろしている。


「……見つけた」


 女の人の声だった。昼間、列に並んでいた女将の声に似ている。だが、抑揚が、ない。呼吸のタイミングが、半拍ずれている。まるで、別の鼓動に合わせて話しているみたいに。


「危ないから、下がってください。点検中です」


 高梨が言った。言葉は管理側の権威を借りていたが、効かないことは分かっていた。上から、さらに数人の顔が覗く。年寄りも、若者も、子どもも。みんな、同じ目。黒目がちで、均質に光を返す。


「すぐ、楽になるよ」


 1人が言った。別の声が重なる。「冷たいから」「気持ちいいから」「喉が」「乾かないから」。言葉はばらばらなのに、タイミングだけが揃っている。ド、クン。言葉が強くなり、また弱くなる。その周期が、床の鼓動と、粒子の点滅と、同じ。


 私は口の中に残った昼の甘みを思い出した。喉が震える。足が勝手に一歩、後ろへ下がる。水面が、私に近づく。


「上がれ」


 高梨が小さく吠えた。彼の手が私の腕を掴み、引っ張る。私は梯子に手をかけた。金属は冷たいはずなのに、熱い。皮膚の内側から熱が逃げていく。


 上から、手が伸びた。乾いていて、冷たい。指は強くないのに、離れない。私は身をよじり、足を2段持ち上げる。背中に、柔らかいものが触れた。水だった。表面張力が破れる前の膜のような感触が、シャツ越しに伝わる。ド、クン。水が息をする。


「離せ!」


 高梨が叫んだ。彼の声は、塔の内側で歪み、返ってきて、自分たちの鼓動の音と混ざる。上の人々は、笑っているのか、笑っていないのか、分からない顔で私たちを見下ろしている。口角は上がっているのに、目が動かない。目は、光を均等に反射している。


「おいで」


 子どもの声。昼間、ぬいぐるみを抱いていた子に似ている。私は、その声の位置が分かった。上ではない。下だ。水面のすぐ近く。私は視線を落とした。そこに、顔があった。透明に近い皮膚。細い髪が水に漂い、光る粒子が髪の間にからまっている。目は、開いている。黒目が、私を見ている。口が、少し開いている。空気ではない何かを吸い込み、吐き出すリズムが、私の肺のリズムに絡みつく。


「おいで。冷たいよ」


 私は、自分の喉が鳴る音を聞いた。欲しい。もう一口だけでいい。冷たさで頭を軽くして、熱と痛みを均して、眠らずに済む体にして――。高梨の指が、私の腕に食い込む。現実に引き戻される。私は梯子をもう一段、上がった。


 その瞬間、鼓動の周期が変わった。早くなる。ドク、ンドク、ン。粒子の点滅が忙しくなる。塔の内側の空気が、私と高梨を取り囲むように、薄く震える。上の人々の口が、同時に開く。発声はない。息だけが、同じタイミングで出ていく。吸う。吐く。吸う。吐く。下の水面が、膨らむ。柔らかい腹が、天井に向かって押し上げられる。塔全体が、母体になったみたいに。


 目が開いた。


 底にいた、それ。輪郭を持たない顔の、目にあたる空白が、ぱちりと開く。光はなかった。暗さだけが、開いた。暗さは私の中に向かって伸びてきて、網膜の上に焼きついた白い斑点を、墨でぬぐうように消す。見える。見えてはいけないのに、見える。見えたものは言語の前にある。冷たさの正体。甘さの由来。私たちの体内の水分と、目の硝子体と、胎児の羊水が、同じ塩分濃度であるという当たり前の事実が、見てはならない構図で繋がる。


 「ただいま」


 誰かが言った。私かもしれない。私ではないかもしれない。上から伸びた手が、今度は私を押した。優しく。受け止めるみたいに。高梨の指が、滑った。


 私は落ちた。


 水面は、膜のように私を迎え入れた。破水の瞬間に似ていた。冷たさは痛みではなかった。眠りの初期段階に似た、意識の輪郭が丸くなる感覚。甘さは、疲れが血に戻るときの安堵。粒子が私の口と鼻から入り、目から入り、皮膚から入った。粒子は光り、消え、光り、消え、鼓動に同期し、やがて、私の鼓動と一致した。


 耳元で、たくさんの声が囁いた。おかえり。よく来たね。もう、暑くない。もう、渇かない。もう、眠らなくていい。もう、考えなくていい。


 高梨の叫び声が、遠くで割れた。私の名前を呼ぶ声が、水の層に吸い込まれていく。私は手を伸ばしたかもしれない。伸ばさなかったかもしれない。水が、私の腕を、胸を、喉を、眼窩を、冷やす。冷たさは均一で、甘みは少しずつ強くなる。私は笑ったと思う。笑い方は、もう知っている。抑揚はいらない。均一な呼吸の位置だけ、合わせればいい。


 底で、何かが私を覗く。目は黒く、ガラスのように均質に光を返す。私の目だ。私たちの目だ。私たちは見つめ合い、瞬きのタイミングを合わせた。ド、クン。光る。ド、クン。消える。塔の中で、町の中で、同じリズムが膨らんで、しぼむ。


      *


 翌朝、町内放送は少しだけ台本を変えた。「配給は本日も平常通り」。声の抑揚は均一で、息継ぎの位置は、半拍ずれている。丘の上の給水塔には、朝から列ができた。列は静かで、長く、規則正しい呼吸の波でできている。係の青年はバルブをひねる。水が落ちる。ボトルの底を叩く音は、深く、甘く、冷たい。


 高梨は坂を登らなかった。彼は夜のうちに町を出たのかもしれない。出なかったのかもしれない。彼の携帯に電話をかけると、呼び出し音は均一で、遠くで、ド、クン、と低い音と重なった。


 私は記事を書かない。書く必要はない。情報は均一に広がる。冷たさは均一に行き渡る。甘さはゆっくりと強くなる。町全体が、同じ呼吸の袋の中に入っている。


 給水塔の底で、私たちは育つ。鼓動は増幅され、粒子は増え、冷たさは増す。夏は長い。渇きは尽きない。けれど、ここには水がある。甘く、異様に冷たい水が、ある。私たちは目を開け、あなたを見上げる。あなたが覗き込むとき、私たちは言うだろう。


 おいで。ここは、楽だよ。


(了)

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拝読させて頂きました。読みやすい文体でさくさく読ませて頂きましたが、この夏の暑さもあってか、怪異側にわりと共感してしまうという不思議体験をしました。冷たくておいしそうな水ですね。
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