第9話 白髪の少女
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森の入口は、村の外れにぽっかりと口を開けていた。
昼間でも薄暗く、木々の葉が空を遮っている。陽の光は斑に差し込み、地面にゆらめく影を落としていた。
斧の重みを肩に感じながら、小道を進む。
鳥の声は遠く、虫の音や獣の気配がいつもより静かだ。森全体が息を潜めているような、妙な空気が漂っていた。
――カサッ。
足元の落ち葉を踏む音に、無意識に身構える。
自分の呼吸がやけに大きく響き、思わず息を潜めた。
振り返っても誰もいない。ただ、風が枝葉を揺らす音が、さざ波のように広がる。
「……気のせい、だよな。」
そう呟いて歩を進める。
曲がりくねった小道には、苔むした岩や倒木が点在し、小川のせせらぎが微かに聞こえてくる。
しばらく歩くと、森の奥にぽつんと建つ小屋が見えた。
木と石で粗雑に組まれた造りだが、屋根の苔が長い年月を物語っている。
「……着いた。」
俺は肩から斧を下ろし、小屋の前まで進む。
扉をノックすると、すぐにソロが顔を出した。
「おお、来たか。お使いご苦労さん。オルドから聞いてる。」
無精ひげを撫でながら、ソロは中へ招き入れようとしたが、俺は首を振った。
「ここでいいです。これ、言ってた斧です。じゃあ、僕帰りますので。」
「ふん……まあ、そうか。オルドに礼を言っといてくれ。」
ソロは小さな包みを俺に渡し、戸口の脇に置かれた革袋を手に取った。
「ついでだ、水も持ってけ。近くの川を流れる、『ソレルの雫』だ。」
手渡された革袋はひんやりと冷たく、表面に細かな水滴が浮かんでいた。
「……ソレルの雫?」
思わず問い返すと、ソロは口元を緩めて笑った。
「ああ、朝のうちに汲んどいた。山から流れてきたばかりでな、やわらかい上に喉越しがいい。力も湧いてくる。村の連中は知らんが、俺はこの水しか飲まん。オルドにも時々わけてやってるくらいだ。」
力が湧く以外は普通の水に聞こえるが、ソロが“この水しか飲まん”と言うあたり、ただのこだわり以上の何かがあるかもしれない。飲むのが少し楽しみになってきた。
「ありがとうございます。助かります。」
礼を言って革袋と包みを受け取ると、ソロは「気をつけて帰れよ」と短く言い、ギイと音を立てて扉を閉めた。
帰り道、さっきより少し速い足取りで森を引き返す。
空を見上げると、木々の隙間から差す光が心なしか薄くなっていた。時間が経ったのか、雲が厚くなったのか。
――ギャッ!
突如、森の奥から短く、かすれた悲鳴が響いた。
思わず立ち止まり、耳を澄ます。
鳥の声が消え、風の音すら遠のいた。悲鳴は、帰り道とは逆の川沿いの細道のさらに奥から。
「……なんだ今の……?」
迷う暇はなかった。
包みと革袋を握り、俺は駆け出す。
枝が顔をかすめ、足元の根に躓きそうになりながら、音のした方向へ突き進んだ。
視界が開けた瞬間――三人の男に囲まれた少女がいた。
白銀の髪が土に汚れ、少女は膝をついていた。肩を掴まれ、今にも引き倒されそうになっている。
「うるせぇぞ、白毛! 泣き叫んだって誰も助けちゃくれねぇよ!」
「こいつ、ほんとに白髪だな。こりゃ高く売れるわ……ふふ、やっぱ俺らは運がいい。」
「早く縛れ。グズグズしてると村の奴らに見つかるぞ。」
(まさか、父さんの言ってた人攫いか!?)
白髪――この国では「魔族」とされ、迫害の対象だ。
こいつら、そんな少女を売り物として扱おうとしてるんだ。
「やめろッ!」
自分でも驚くほどの声が出た。
三人の男が一斉に振り返る。
「……なんだ、ガキか?」
一人が舌打ちし、短剣を抜いた。
「アニキ……こいつ、ヴィサスってとこのガキだ。売れば金になるぞ。」
「はん、だったら余計に都合がいいじゃねぇか。白毛もガキもまとめて売っ払ってやる!」
短剣を構えた男がじり、と歩み寄る。
俺は腰の短剣を握った。心臓がドクドクと鳴る。
「……やれると思ってるのか?」
男の顔に嘲りが浮かぶ。
だが、俺の頭には父との稽古が蘇っていた。
あの覚醒の日、そしてその後も続けた鍛錬。
今の俺なら、やれるはずだ。
男の足取りが速くなる。
俺も地面を蹴った。
真正面じゃない。斜めに――男の懐に滑り込むように動く。
「なっ……!」
男の驚きが漏れる。
短剣が振り下ろされる前に、俺は足元に踏み込み、腰を落として足首を狙う。
「うあっ!?」
浅い傷だが、十分だった。
男はバランスを崩し、前につんのめって地面に倒れ込む。
「クソッ、このガキ!」
もう一人が棍棒を振りかざし、突っ込んでくる。
俺は跳ねて距離を取る。心臓が早鐘のように鳴るが、恐怖は感じない。頭は冴えていた。
森の空気が張り詰め、時間が伸びたように感じる。
敵の動きが、ゆっくり見える。
「落ち着け……焦るな、リオ。」
父の声が脳裏に響く。まるでそばにいるかのようだ。
棍棒の男は勢いに任せて大振りしてきた。
隙だらけだ。踏み込みが浅い。
俺は足をずらし、体を回転させて背後に回り込み、反射的に腕を振るう。
――スパッ。
布を裂く音。男の背に切り傷が走り、呻き声を上げて振り返る。
「やっべ、こいつ……ただのガキじゃない!」
「構わん、二人でかかれば!」
二人が一斉に動く。
俺は左の男に斬りかかり、剣が弾かれる音が森に響く。
手応えはある。
だが、右の男の棍棒が肩に当たり、体が吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
地面に転がり、肺の空気が抜ける。痛みが波のように押し寄せる。
「よし、ガキは俺が押さえとく。お前は白毛を――」
「やめろってんだろッ!!」
咆哮が、自分の声とは思えなかった。
立ち上がり、血の味が混じる唾を吐き捨てる。
目の奥が熱い。
体の奥から何かが湧き上がる。
音が歪み、視界が脈動する。
力が、暴れ出す。
男たちの動きが、妙に遅く見えた。
まるで時間が凍りついたように。
体が勝手に動く。
思考より先に、肉体が本能で最適解を選ぶ。
「う、うおっ!?」
一人が驚く。
その瞬間、俺の足は地を蹴っていた。
風を裂き、右手の短剣が閃く。
男の棍棒が弾け飛ぶように跳ねる。
「ぎゃあッ!」
手を押さえてのけぞる男を無視し、もう一人に駆ける。
少女を縛ろうとしていた腕を、俺は無意識に切りつける。
「がっ……!」
男が呻いて後ずさる。
その隙に、俺は少女の前に立つ。
息が荒い。
肩が上下する。
だが、倒れる気はなかった。
俺はまだ、戦える。
「この野郎……ガキが調子に乗りやがって!」
三人目――最初に斬った男が、殺気を帯びて突っ込んでくる。
「殺せ! まとめて始末しちまえッ!」
視界が揺らめく。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響くたび、地面が波打つように見えた。
その瞬間、右手から黒い雷のようなものが弾けた。
男たちが一瞬、ひるむ。
俺はそれを見逃さなかった。
全身の力を指先に込め、地面を蹴る。
黒い残光を引くように、短剣が真横に切り裂く。
「――があああッ!!」
断末魔のような悲鳴が森に響いた。
三人目の男が地に伏し、残る二人が顔を引きつらせる。
「お、おい……おかしいぞこいつ、なんか変だ……!」
「やばい、逃げるぞ!」
恐怖に駆られた男たちは、少女を放り出し、森の奥へ一目散に走り出した。
追いかける気は起きなかった。
体が急に重くなり、膝が崩れる。
「くっ……。」
地面に手をつき、視界がぐらつく。
さっきの感覚が、幻だったかのように引いていく。
「……っ……ぅ……。」
背後で、少女のか細い声が聞こえた。
振り返ると、白銀の髪に赤く腫れた目。
土に汚れた頬には、恐怖と安堵が入り混じっていた。
「大丈夫……もう、誰も来ない。」
そう言おうとしたが、声がうまく出なかった。
代わりに、少女がそっと近づき、震える手で俺の袖を掴んだ。
「……た、助けてくれて……ありが、と……。」
かすれた声で、少女が袖をぎゅっと掴む。
その手は小さく、冷たく、力が入っていなかった。
よく見れば、腕や足に擦り傷、頬には腫れと打撲の痕。血も滲んでいる。
(くそっ……俺じゃ、これを治せない。)
腰のポーチから、ソロからもらったソレルの雫を取り出す。
力が出るって言ってた。飲めば少しは楽になるはずだ。
「これ、飲めるか?」
栓を外し、そっと少女の唇に近づける。
彼女は一瞬怯えたように身をすくませたが、俺の目を見て、ゆっくり頷いた。
「少しでいいからな……。」
ソレルの雫を慎重に口元へ傾ける。
とぷ、と雫が流れた瞬間、彼女の体がわずかに揺れる。
「……あたたかい。」
小さく、かすれる声。それだけで少し安心した。
でも、これだけじゃ足りない。
傷、腫れ、内出血……俺じゃ治せない。
けど――
「母さんなら……きっと……。」
一瞬、迷いが頭をよぎった。
白髪はこの村で「魔族」として“見つけ次第、殺せ”とされる。
もし見つかれば、俺だけじゃ済まない。家族にも危険が及ぶかもしれない。
けど、俺はこの子を見捨てられなかった。
上着を手に取り、少女の白い髪をそっと覆うように被せる。
肩まで隠れるように、深く。
「ちょっと重いかもしれないけど、我慢してくれ。」
彼女は弱々しく頷いた。
俺はそっと彼女を抱え上げる。
軽い。傷だらけで、体力もほとんど残っていないのが分かる。
日が傾き、辺りは薄暗くなり始めていた。
少女を抱いたまま、森を抜ける小道を選び、人目につかないよう家路を急ぐ。
何度も足音や気配に神経を尖らせながら、止まらずに歩いた。
家の明かりが見えたとき、俺は深く息を吐いた。
「……もう少しだ。」
母さんなら、大丈夫。
きっと話せば分かってくれる。
扉の前に立ち、軽くノックする。
中から聞こえる鍋の煮える音と、母さんの足音。
俺は少女をしっかりと抱き直し、扉が開くのを待った。