第7話 村の掟
ある日の稽古の後、俺は母さんと一緒に治療院に薬草を届けに行った。
治療院の裏手、小さな薬草棚の横に木箱を置くと、母さんが満足げに手を叩いた。
「これで今週分もバッチリね。じゃあ、帰ろっか。」
俺が「うん」と頷こうとした瞬間、治療院の扉がキィッと軋む音がした。
振り返ると、見慣れた顔がひょっこり顔を出していた。
「ファラさん、ちょっといい?」
戸口から現れたのは、腰を曲げたおばあさんだった。白髪をきれいにまとめたミルダさんが、俺たちに優しく微笑みかけてくる。
「どうしたの、ミルダさん?」
「今日の村の石碑の掃除当番、変わってくれないかしら。」
母さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに「もちろん」と頷いた。
「いいですよ。ちょうど帰り道だし、リオも一緒に手伝ってくれますから。」
母さんが俺の肩をポンと叩く。
ちょっとビックリしたけど、断る理由もない。「うん」と返す。
「助かるわぁ。じゃあお願いね、ファラさん、リオくん。」
ミルダさんが戸口の中に戻っていく背中を、俺はなんとなく見送った。
石碑か。
そういえば治療院以外、村の他の場所ってほとんど行ったことないな。
今度、村を散策してみようか。
「じゃあ、リオ、行こっか。」
母さんが微笑んで手を差し伸べてくる。
俺はその手を取って、並んで歩き出した。
石碑は村のはずれ、森と畑の境目にぽつんと立っていた。
普段、人があまり近づかない場所。
空気がひんやりと冷たく、どこか重い。
苔むした石碑は、風化した表面に古い文字を刻み、静かな威圧感を放っている。
背中に誰かの視線を感じるような、落ち着かない
気配が漂っていた。
「母さん。この石碑って、何なの?」
ふと気になって、俺は尋ねた。
母さんは少し足を止めて、空を見上げた。
夕陽の赤が、その瞳に映り込んでいる。
「そうね……この村の“約束”の証、かな。」
「約束?」
「うん……ちょっと怖い話だけど、聞く?」
母さんが俺の顔をチラリと見る。
怖い話、って言われるとちょっと身構えるけど、俺は素直に頷いた。
「昔々、この世界には“天神”と“魔神”がいたの。
白い髪を持つ天神と、黒い髪を持つ魔神。
二人は空を裂き、大地を焼き尽くすほどの力で、長い間、ずっと争っていたんだって。」
天神と魔神。
絵本みたいな名前に、俺は自然と聞き入った。
「その戦いのことを“魔天大戦”って呼ぶの。
三千年も昔の話よ。今じゃ信じる人も少ないけど……。」
母さんの声が、ほんの少し低くなる。
「最終的に勝ったのは魔神だった。だから、黒い髪を持つ者は“強さ”の象徴として扱われる場所もあるの。でも――」
母さんが石碑をそっと撫でる。
夕陽がその指先に柔らかい影を落とす。
「この村は違う。この村じゃ、黒髪も白髪も、“災いを呼ぶ”とされてる。
そういう髪を持つ者は“魔族”と呼ばれて、見つけ次第、排除される掟があるの。」
――見つけ次第、排除。
その言葉の冷たさに、思わず息を飲んだ。
胸の奥で、何かがチクッと刺さる。
「でも、老人の白髪だけは別。年を重ねて白くなった髪は“天に近づく”ものとして許されてる。ミルダさんみたいにね。」
その理屈、正直、意味が分からない。
髪の色だけで、なんでそんな扱いを受けなきゃいけないんだ?
「この石碑は、“災いの兆しを見逃すな”――そう戒めるために建てられたとも言われてる。
黒や白の髪を見かけたら、村の掟を思い出せ、ってこと。」
母さんは優しく微笑んでいたけど、その目には哀しさが滲んでいた。
石碑をなぞる指先に、微かな力がこもっている。
まるで、心のどこかでこの掟に納得できない何かを抑えているみたいだった。
白や黒の髪。それだけで命を狙われる世界。
そんなの、ほんとに許されるのか?
たかが髪の色で差別されて、排除されて。
元の世界でも、こんな理不尽な話は嫌いだった。
「でも、私はそんなの良くないと思う。髪の色で人を決めつけるのは間違ってる。魔族にだっていい人はいるんだから。」
母さんの声は静かだったけど、力強かった。
「うん……僕もそう思う。髪の色で人を判断するなんて、おかしいよ。」
そう答えた俺の声は、思ったより小さかった。
でも、母さんにはちゃんと届いたみたいで、柔らかく微笑み返してくれた。
母さんと一緒に石碑の周りの草を抜き、落ち葉を払っているうちに、日が傾き始めた。
西の空が赤く染まり、森の木々の影が長く伸びる。
母さんが腰を伸ばして空を見上げた。
「もうこんな時間……リオ、今日はありがとう。助かったわ。」
「ううん、僕もいろいろ知れてよかった。」
石碑の前に立ち、俺はもう一度その表面を見つめた。
ごつごつした岩肌に刻まれた古い文字は、風化してところどころ読めない。
でも、そこに込められた感情――恐れや戒め――そんな空気がビリビリと伝わってくる。
一瞬、風化した文字の中に「ヴィサス」という形が浮かんだ気がしたが、目を凝らすと、ただの模様だった。
「……母さんは、昔から知ってたの? この掟のこと。」
「うん、私がこの村に来たときからあったわ。」
その言葉に、俺はちょっと驚いた。
「来たとき、って……母さん、この村の生まれじゃないの?」
「うん。私はもともと東の国で生まれたの。そこじゃ魔族も普通に暮らしてたのよ。」
その言葉に、胸の奥がさらにざわめいた。
「じゃあ、なんでこの村に?」
「父さんと出会ったからよ。旅の途中で助けてもらって……気がついたら、ここが私の家になってた。」
母さんが少し照れくさそうに笑う。
「って、私、子どもに何を話してるのかしら。」
母さんはクスッと笑ったけど、その笑みの奥には、懐かしさと、ほんの少しの切なさが滲んでいた。
「……でも、時々思うの。あのまま東の国にいたら、どんな人生だったんだろうって。」
「後悔してるの?」
俺が尋ねると、母さんはふわりと首を振った。
「ううん。そんなことは一度もない。父さんと出会えて、幸せな家庭を築けて。それだけで、私は十分幸せ。」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
心のどこかが、ぽかぽか温まる感覚。
母さんの笑顔が、夕陽に照らされて黄金色に染まっていた。
その表情を見て、俺もつい顔がほころぶ。
「……帰ろっか。父さん、きっと晩ごはん待ってるよ。」
「うん。」
手を繋いで歩き出した帰り道。
森と畑の間を抜ける風が少し肌寒いけど、母さんの手は温かくて、俺はそれだけで救われた気がした。
それでも、胸の奥に引っかかるものは残っていた。
“黒髪や白髪を見つけたら排除する”なんて、どれだけ昔の戦いが影を落としているんだ?
母さんが言った“魔族にもいい人がいる”って言葉。
それが当たり前の世界なら、どんなにいいだろう。
「母さん、また石碑、掃除しに来よ。」
「うん、いいわよ。また一緒に来ましょ。」
俺の言葉に母さんが笑ってくれて、未来が少しだけ明るくなった気がした。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この“掟”が、いずれ俺自身を縛りつけ、引き裂くことになるなんて。
石碑の静寂は、まるで未来の“予兆”を抱いているかのように、冷たく佇んでいた。