第12話 偉い人のお屋敷へ
マユがこの村に来て、数日が経った。
最初は怯えていた彼女も、今では母の手伝いをしたり、夜の食卓で小さく笑ったりしている。
「リオ、これ……昔、弟が好きだったって言ってたスープ、作ってみたんだけど……。」
マユが差し出した茶碗には、濃いめのスープ。
少し塩辛いが、どこか懐かしい温かさがある。
湯気とともに、野菜とハーブの香りが立ち上る。
そんな穏やかな朝、父さんが口元だけで笑って声をかけてきた。
「おい、リオ。そろそろ例の検査、受けに行くか。」
「マユも一緒に来るといい。あの件の報告も兼ねて、ザードの屋敷へ行く。」
その瞬間、マユの手がピタリと止まった。
だが、すぐに小さく頷く。
「ザードって何ですか?」
俺の問いに、父さんはパンをかじりながら目を細めた。
「この村……いや、このあたり一帯を治める領主みたいなもんだ。俺たち村人とは、ちょっと違う世界の人間だな。」
「領主ってことは、偉い人か。」
「そうだ。だが、ただ偉いだけじゃない。あの人は魔術と知識に長けててな。『法王』って呼ばれてる。」
「領主なのに、法王? 宗教的な意味……じゃないよな?」
「違う違う。あだ名みたいなもんだ。」
父さんは苦笑いし、スープの残りをすくった。
「魔法の王で法王。この辺りじゃ、剣王とかもいる。運が良ければ今日会えるかもしれないな。」
「剣王……?」
父さんがふっと笑う。
「剣に生き、剣で語る化け物みたいなやつさ。名前はレイド。ザードの屋敷に出入りしてるが、会えたらラッキーだな。」
「レイド……なんか強そうだな。」
「強いぞ。俺も昔、軽く勝負したが、三秒で地面に転がされた。あれは人間の動きじゃない。」
「お父さん、それ何度目の話?」
台所から母さんがくすくす笑いながら声をかける。
父さんは肩をすくめて苦笑した。
「すまん、ついな。だが、リオもこれから検査を受ける身だ。お前の資質を見て、剣王や法王の目に留まるかもしれないぞ。」
「……そんな大げさな。」
俺は首を振ったが、心のどこかで期待がざわめいた。
自分にも何か特別な力があるかもしれない――そう願っていた。
「マユも、検査受けたら?」
母さんが穏やかに尋ねると、マユは首を振った。
「……私、そういうの……いいです。目立つのが、怖いから。」
言葉を選ぶ彼女の横顔に、過去の傷が影を落とす。
きっと、深い痛みが隠れている。
父さんはそれを察し、優しく笑った。
「無理に勧めないさ。ただ、ザード様はそういう事情にも耳を傾けてくれる人だ。安心して、話してきな。」
マユは俺をちらりと見て、ゆっくり頷いた。
「……うん。行くだけ、なら。」
その小さな決意だけで、十分だった。
彼女は一歩を踏み出そうとしている。
朝の空気が、柔らかく感じられた。
食事を終え、身支度を整えると、俺たちは村の外れ――丘の上に建つザードの屋敷へ向かった。
屋敷への坂道は長かった。
だが、不思議と疲れは感じない。
マユは緊張した様子で、俺の斜め後ろを歩く。
俺も内心落ち着かなかったが、気取られないよう空を見上げ、深く息を吸った。
澄んだ空には、遠くの山の匂いが混じる。
「リオ……あの、変じゃないかな。服とか。」
マユが小さな声で尋ねてくる。
「似合ってるよ。ていうか、マユは何着ても可愛いし。」
自分でも何言ってるんだと思ったが、言葉は出てしまっていた。
マユは顔を真っ赤にして俯き、黙り込む。
俺もこれ以上何か言うと気まずさが爆発しそうで、黙って歩き続けた。
屋敷の門に着くと、衛兵がすぐに出てきた。
「おお、ヴァルク殿。どうぞ、ザード様は中でお待ちです。」
父さんが軽く頷き、門をくぐる。
俺たちも続く。
中庭では剣士たちが鍛錬中で、剣戟の音と鋭い気配が風に乗り、肌を刺す。
マユが身をすくめる気配を感じ、俺は無意識に一歩前に出ていた。
屋敷の扉が開き、中へ入る。
空気が一変した。
外の喧騒とは異なる、張り詰めた静けさ。
だが、冷たさはなく、どこか温もりを秘めている。
その後俺たちは奥の部屋へ通された。
重厚な二重扉の先に、静かな一室が広がる。
壁には古びた書物と魔術の紋章が並び、窓から差し込む光が床に柔らかな影を落とす。
「やあ、久しぶりだな、ヴァルク。元気そうで何よりだ。」
声をかけてきたのは、三十前後の男。
整った口髭に深紅のローブを纏い、背は高くないが、存在感が空気を揺らす。
「よお、ザード。相変わらず派手な格好だな。」
父さんが肩をすくめ、気安く手を差し出す。
「君は相変わらず無骨でつまらん格好だ。そっちの方が落ち着くのかい?」
ザードは笑いながら手を取り、軽く拳をぶつけ合う。
親しい者同士の挨拶だ。
「リオ、マユ。こっちに来い。」
父さんに呼ばれ、俺とマユは緊張しながらザードの前に出る。
「ふむ、君がリオか。噂は聞いているよ。」
ザードは鋭く、だが柔らかい目で俺を見つめた。
本質を見抜くような視線に、背筋が伸びる。
「は、はい……よろしくお願いします。」
思わず頭を下げると、マユも小さく会釈した。
「可愛いお嬢さんだ。名前は?」
「……マユ、です。」
「ふむ、いい目をしてる。だが、少し無理してるかな。」
ザードの言葉に、マユの表情がわずかに曇る。
「さて、ヴァルク。レイドと話をしてきてくれ。あの人攫いの件だ。」
「……そうか。じゃあ、子どもたちを頼む。」
「もちろん。」
父さんはマユの肩に手を置き、優しく微笑む。
「心配いらん。ザードは信用できる男だ。」
「……うん。」
マユは不安げだったが、頷いた。
父さんの背中が扉の向こうに消える。
静寂が部屋を満たす。
まるで別の世界に踏み込んだような感覚。
だが、不思議と――怖くはなかった。
ザードの視線が、ゆっくりと俺たちに向けられる。
「さあ、検査を始める前に、少しお勉強をしようか。」
その声は穏やかで、底知れぬ深さを湛えていた。




