第11話 白い過去、金色の明日
家の扉を開けた瞬間、どこか空気が変わっている気がした。
リビングに入ると、母さんが少し焦った顔で立ち上がる。
「リオ……ちょうどよかった。」
「どうかした?」
「……あの子、目を覚ましたの。」
胸が高鳴った。
染料の瓶を握りしめ、俺は寝室へ急いだ。
ベッドの上、少女は静かに目を開け、ぼんやりと天井を見つめていた。
その青い瞳には、まだ世界が映っていないような、深い空虚さが宿っていた。
「大丈夫……?」
呼びかけると、少女の瞳がわずかに揺れた。
だが、視線は俺を通り越し、宙を彷徨っている。
「……ここは、どこですか……?」
掠れた声が震えながら耳に届く。
「大丈夫。もう危険な場所じゃない。ここは……僕の家だよ。」
ベッドの傍らにしゃがみ、そっと言葉をかける。
だが、彼女はまだ現実に触れていないかのように、まばたきもせず天井を見つめ続けた。
染料の瓶を机に置き、俺は彼女の白銀の髪を見る。
窓から差し込む朝の光に淡く輝き、村の掟――“白髪は魔族、見つけ次第殺せ”――を否応なく思い出させる。
「……怖かった、よね。」
その言葉に、彼女の唇がわずかに震えた。
「ごめん。俺、もっと早く……。」
言葉を紡ぐ前に、彼女の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……助けて、くれて……ありがとう……ございます……。」
掠れた声は、風に消えそうなほど小さく、それでも胸の奥に強く響いた。
「怖かったよ。冷たくて……痛くて……もうだめだって、思った……。」
震える指先が掛け布を這い、俺の手に触れる。
思わず、その小さな手を包み込むように握りしめた。
「もう大丈夫。もう誰も、お前を傷つけたりしない。」
少女は小さく首を振った。
「……わたし、ここにいてもいいんですか……?」
その問いは、迷いや戸惑いを超えた、祈るような響きだった。
俺は深く頷いた。
「もちろんだ。お前は、ここにいていい。」
その言葉に、少女の肩が震える。
しばらくして、彼女はそっと顔を上げた。
涙の跡が残る頬に、微かな安堵が差している。
「……えっと……。」
言いかけて、ためらうように視線を落とす。
何度か瞬きをし、意を決したように口を開いた。
「わたし……マユ……っていいます。」
「マユか。いい名前だな。」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
その仕草が子どもらしく、俺はふっと笑ってしまう。
マユが名乗ったことで、場の空気が和らいだ。
俺は小さく息をつき、改めて彼女の顔を見つめる。
まだ怯えが残る表情だが、泣き出しそうな雰囲気は消えていた。
「マユ、その髪……そのままだと、また誰かに見つかるかもしれない。」
白銀の髪は、森の薄暗さでも光を反射して目立っていた。
あの掟を思い出す。
そんな理不尽な世界で、彼女はこの姿で生きてきたのだ。
「染めよう、髪。さっき染料買ってきたからさ。」
「……染める、って……黒く?」
「いや、黒は別の意味でまずいから……僕みたいな金色にしようかなって。嫌かな?」
マユは一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ、くすりと小さく笑った。
「……ううん、嫌じゃない。金色、好きだから。」
その言葉に、俺も笑みを返す。
一人で怯えていた少女の心に、わずかな灯がともったなら、それだけで十分だった。
「よし、じゃあ外行こう。」
染料を取り、マユを庭へ連れ出す。
「座って。ちょっと冷たいけど、我慢して。」
ポケットから細い木の櫛を取り出し、井戸で水を汲んで染料を溶かす。
淡い金の光を帯びた液体ができあがる。
マユは木の切り株にちょこんと座り、俺の手元をじっと見つめていた。
まだ緊張しているのが分かる。
俺は染料を指先にとり、彼女の髪に優しく塗り始めた。
「……わ、冷たい。」
「ごめんごめん。すぐ慣れるよ。ほら、ちょっと我慢。」
白銀の髪に金の染料が広がっていく。
まるで朝焼けが夜の静寂を溶かすような、幻想的な光景だった。
塗り進めるたび、マユの髪はゆっくり色を変えた。
白銀の輝きが、陽の光を受けて淡い金へと溶け込む。
その美しさに、俺は思わず手を止めそうになった。
「……きれい、ですね。」
マユがぽつりと呟いた。
自分の髪ではなく、“今”という瞬間に向けられたような、柔らかい声だった。
「うん、きれいだよ。マユの髪、元の色も、今の色も、どっちもきれい。」
マユは控えめな笑みを浮かべた。
確かに温かさを宿した、初めて見る笑顔だった。
「ありがとう。……リオは、優しいですね。」
「そうでもないさ。怖がってるマユを何とかしたくて、必死なだけだよ。」
「……でも、それって、優しいってことだと思う。」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。
染料を塗る手だけが、静かに動き続ける。
髪全体に染料を馴染ませ、木櫛で丁寧にすき、色が均等になるよう整えた。
「……これで、完成。我ながら上手くできた。あとは乾くのを待つだけ。」
「うん。」
マユは小さく返事し、指先で髪の先をつまんだ。
染まりたての金色が陽の光を受けて輝き、彼女の表情を明るく照らした。
「……なんだか、夢みたい。」
ぽつりとこぼれた言葉に、俺は隣で笑う。
「夢っていうより、これが現実になるんだよ。今日から、マユは普通の女の子だ。」
マユは目を伏せ、小さく息をついた。
「普通って、こんなに嬉しいんだね……。」
その言葉には、孤独や不安、悲しみが滲んでいた。
だからこそ、彼女の小さな喜びは、どんな宝石よりも尊く感じた。
「リオ。」
呼ばれて顔を向けると、マユがまっすぐこちらを見つめていた。
その瞳に、ほんの少しの決意が宿っている。
「いつか、私……強くなりたい。今度は私が、誰かを守れるように。」
俺は静かに頷いた。
「うん。俺も、きっと手伝うよ。その時が来たら、一緒に戦おう。」
マユは笑った。
さっきより自信を帯びた、確かな笑顔だった。
風が二人の間を通り抜ける。
金に染まったマユの髪が揺れ、まるでこれから歩む未来を映しているようだった。
家に戻ると、母さんが昼ごはんを作って待っていた。
「マユちゃん、綺麗に染めて貰ったのね。よく似合ってるわよ。」
「……ありがとうございます。」
マユは照れたように頭を下げ、頬に紅が差す。
父さんも奥から出てきて、笑いながら呟いた。
「お前ら、そっくりだな……。」
「やっぱり似てる?」
俺が返すと、父さんはうんうんと頷き、キッチンの母さんをちらりと見た。
「ま、髪の色が似てると余計にそう見えるな。こりゃ町で“姉弟か?”って聞かれてもおかしくないぞ。」
「そ、それはちょっと……。」
マユが苦笑いしながら首を振る。
その顔は、どこか柔らかく、安心していた。
昼ごはんは母さん特製の野菜スープと焼きたてのパン。
席に着くと、マユは落ち着いた様子で手を合わせた。
「いただきます。」
その声に続き、俺たちも手を合わせる。
「いただきます。」
食卓には、温かい香りと新しい空気が流れていた。
パンを一口食べたマユが、目を丸くする。
「……すごく、おいしい。」
「ふふ、よかった。マユちゃん、お腹空いてるだろうなって思って頑張ったのよ。」
母さんの言葉に、マユは嬉しそうに頭を下げる。
その仕草は、すでにこの家に馴染んでいるようだった。
俺はパンをかじり、横目でマユを見た。
染めたての金色の髪が、陽の光を受けて柔らかく揺れている。
これからの毎日が、ほんの少し明るくなる気がした。
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