製造番号 44123 ~ 2日目
冷たく静かな朝、俺はまた目が覚めた。どれだけ眠ったのか。
ただ、空間が俺を包み込む、かすかに聞こえて聞こえる、
いつもより少しだけ優しく感じられる。
目の前には端末。俺は何かのデータを閲覧しようとしている途中に、眠ってしまっていたのか。
無意識の衝動に駆られるように、管理端末にアクセスする。
端末の中に広がる情報の海は、俺の頭の中はまるで潮が満ちていくように、ゆっくりと流れていく。
無数の研究データ、報告書、プロジェクトの記録。
そしてその中で、ひと際目立つ一つのプロジェクトがあった。
「人造天使プロジェクト」 ――それは、かつて人類の再生医療の最先端を担っていた計画だった。
俺はそのデータに目を通しながら、どこか既視感を覚えていた。
最初の成功例として記されていたのは、『製造番号00001』
――ヤミンという名前だったことはデータの随所に書かれていた。
しかし、その詳細に目を細めながら、俺は何か奇妙な感覚に囚われていた。
ヤミンはただの「成功例」ではなかった。
彼女の存在は、この研究全体に基点となっていた。
プロジェクトが進む中、『エンジェル・ハイロゥ』という名前のシステムが完了した。
これは定期的に新たな人造天使を産み続ける永久機関。
俺たちの繰り返される日常の答えはそこにあった。
俺は目を閉じ、深呼吸をする。
これまでの無数の死と再生の中で、何度も何度も見られたその繰り返しが、この冷たく、無機質な機械の中で永遠に続いていた。
しかし、その中に何の意味があるのだろうか?
人造天使は、ただ生まれ、死ぬために存在しているのか?
その問いに向き合う間もなく、ふと画面の隅に気づいた。
すべてのデータには、誰かが最後に更新した痕跡が残っていた。
そして、そこに記されていた名前は……『アガンテア・レアリティンダ博士』……最高位管理者権限?
俺は心の中のその名を何度も反芻した。
誰だ?
博士であるはずの自分が、この名前をまったく知らないのは奇妙だった。
研究所のすべてのデータは俺――ラエル博士によって管理されていたはずだ。
にもかかわらず、この『アガンテア』という名前が、ほとんどの研究データの最終更新をしている。
つまり、最高位管理者の俺よりも研究の中核にいた人物だという証拠だ。
彼は誰なのか? そして、なぜ俺の記憶にはその名前がないのか?
思考が霧の中で飲み続けていくように、俺の頭の中には疑問が膨らみ続けた。
その存在が薄暗い影を落とし、俺の意外ありそうであったかのようだった。
研究データは豊富で詳細ながら、その先に隠された意図を探り出すことはできなかった。
画面に映るその名前を見つめると、胸の中に妙な焦りがあった。
いわば、何か重大な秘密に触れたかのような感覚。
端末を閉じ、俺は静かに立ち上がった。
外の風は一層冷たく感じられ、まるでこの瞬間を凍てつかせたかのようだった。
そして自分の真実に向き合うために、俺はさらに深く、真実の底まで潜り込んでいく必要がある。
そう、『アガンテア・レアリティンダ博士』――彼を知ることが、きっとすべての鍵となるに違いない。
◆・◆・◆
「食事の時間にしましょう」という、どこか無垢な響きを持つヤミンの声が、ふとした瞬間に俺の耳に届いた。
振り返ると、そこには泥まみれになった彼女が立っていた。
全身が土と泥にまみれ、足元にはまるで大地から生まれ出たばかりのような汚れがへばりついている。
彼女が畑で収穫作業をしていたのは明らかだった。
だが、その姿は決して不快なものではなく、むしろ、何かしらの生命力に溢れた存在感を放っていた。
ヤミンの顔には、泥に隠れた部分を除いて、満足げな表情が浮かんでいる。
収穫の達成感を素直に表しているような、無邪気な笑顔だ。
それを見た瞬間、俺は思わず笑みがこぼれてしまった。
こんな状況でも、この子は純粋に喜びを感じているのだと思うと、少し自分が恥ずかしくさえなる。
「……お前、それで食事ってか?」
俺は軽く冗談めかして言ったが、どこか本気で心配していた。
泥だらけの彼女が、そのまま食事の準備を始めるなんて考えたくもなかったからだ。
ヤミンは一瞬驚いたように目を見開き、次いでふわっと笑みを浮かべる。
その笑顔が、なんとも言えないほど無垢で、俺の心にじんわりとした温かさが広がっていく。
「はい。畑で頑張りました。すぐに準備できます」
彼女はまるで誇らしげに言った。
まさに、仕事を成し遂げた子どものような自信と満足感に満ちている。
だが、その姿ではさすがに何も準備できるはずもない。
俺はため息をつきながら、ヤミンの手をそっと取り、研究所の貯水プールへ向かうことにした。
泥まみれの彼女をこのまま放置するわけにはいかないし、ここで一度体を洗ってやるのが最善だと思った。
「ここか……」
俺は地図を頭に浮かべながら貯水プールに到着した。
プールといっても、遊泳用の施設ではない。
むしろ、工業用の無機質なタンクに近いものだった。
だが、それでも充分だった。
この場所なら、彼女を清めてやるには最適だろう。
ヤミンは俺に手を引かれるまま、相変わらずの無邪気な表情でついてきた。
俺が疲れを感じ始めているのに対し、彼女のエネルギーは尽きることがないようだった。
元気なその姿が、逆に俺を支えてくれているようにさえ感じられる。
「さぁ、ここで身体を洗おうか」
俺が促すと、ヤミンは「はい!」と快活に応じ、すぐさま水の中へ飛び込んだ。
彼女が放った水しぶきが飛び散り、まるで小さな虹が一瞬だけ姿を現すように輝いた。
彼女の長い金髪が濡れて光を反射し、キラキラと輝いて見える。
その光景はどこか幻想的で、目を離すことができなかった。
泥に覆われていた彼女の肌も、徐々にその白い輝きを取り戻していく。
水が汚れを洗い流す度に、彼女の本来の姿が少しずつ現れる。
その変化をじっと見つめながら、俺はふと、この瞬間が永遠に続けばいいのにと思った。
この子と過ごす日々が、当たり前のように繰り返されているようでいて、その一方で、どこか儚くて大切なものだという感覚が胸に広がっていく。
「博士、これで大丈夫ですか?」
ヤミンが水から上がり、両手を広げて自分の体を見せてきた。
泥もすっかり落ち、まるで新品のようにピカピカだ。
その姿はあまりにも美しく、思わず目を奪われた。
「ああ、よし、きれいになったな」
俺は少し照れながらも答え、彼女にタオルを手渡した。
ヤミンはタオルを受け取ると、髪を一生懸命に拭き始めた。
その姿に、どこか安堵と同時に、温かい感情が胸に広がる。
この子は本当に無邪気で、それがどれほど俺を救っているのか、彼女自身は知らないだろう。
◆・◆・◆
俺たちはそのまま食堂へと向かい、ヤミンは台所で料理の準備を始めた。
泥まみれで収穫した野菜を、丁寧に包丁で刻んでいく彼女の手元は、何度見ても微笑ましい。
俺は椅子に腰を下ろし、その様子をただぼんやりと眺めていた。
ヤミンは時折振り返っては、楽しげに笑いながら作業を続けている。
その笑顔に、俺も自然と微笑みを返す。
「博士、今日はカレーですよ。お腹空きましたか?」
彼女の声に、俺は「まあな」と短く答えた。
ヤミンが作るカレーは、どんな時も変わらない。
毎回同じ味だが、それが逆に俺に安心感を与えてくれる。
もしかすると、俺はこの味を何度も忘れているのかもしれない。
だが、忘れてしまうからこそ、毎回新鮮な温かさを感じるのだろう。
ヤミンはテーブルにカレーを運んできた。
スパイスの香りが食堂全体に広がり、俺の食欲を刺激する。
その匂いだけで、既に心がほぐれるような感覚がする。
俺はスプーンを手に取り、一口食べた。
口の中に広がる優しい味が、体中にじんわりと染み渡っていく。
「どうですか?」とヤミンが期待に満ちた瞳で俺を見つめてくる。
「うん、うまいよ」と俺は素直に答えた。
ヤミンはその答えを聞いて、満足げに笑った。
その笑顔が、どれほど俺の心を救っているのか……その瞬間、すべてがどうでもよくなるような気がした。
俺はただ、この時間を大切にしたい。
この無邪気な笑顔と、何気ない日常のひととき。
それが、どれほど貴重なものなのかを感じながら、俺はゆっくりとスプーンを口に運び続けた。
毎回同じように過ぎていくこの時間が、実はどれほど特別なものなのか――俺はそれに気づきながらも、毎回その特別さを再び忘れるのだろう。
そして、また思い出す。
その繰り返しの中で、俺はヤミンと過ごす日々に、何度も新しい温かさを見つけ出しているのかもしれない。
◆・◆・◆
さて、今日も一日が終わろうとしている。
いろいろなことがあって、精神的にも肉体的にも疲労がたまっているが、それでも不思議と以前ほどの重さは感じない。
少しずつ体力が戻ってきているのを実感している。
最初の頃、俺は何もできず、ただ無力な自分を呪っていた。
だが、今はこうして食事ができるようになり、少しはこの状況に順応できてきたようだ。
この荒廃した、何もない研究所の中で、ヤミンが作ってくれる食事のおかげで、俺は生き延びている。
毎日同じようなメニューかもしれないが、それでも温かい料理を口にするたびに、少しずつ気力が湧いてくる。
彼女は何もかもを無邪気に楽しんでいるように見えるが、その背後には計り知れない努力が隠れているのかもしれない。
そんな彼女に、俺は本当に感謝している。
振り返れば、俺が何者なのか、ここが何のために存在する施設なのか、その謎は依然として未解決だ。
自分がこの場所にいる理由さえも、はっきりと思い出せない。
何度も何度も頭の中で考えを巡らせてはみるが、霧の中に隠された断片的な記憶が浮かんでは消えていく。
時折、何か重要なものに触れそうな感覚があるが、すぐにそれは掴みどころのないものになってしまう。
しかし、少なくとも一つの収穫はあった。
この施設に関わる重大な人物の存在だ。
アガンテア・レアリティンダ博士――どこかでその名前を聞いたことがある。
いや、聞いたのではない。自分自身がその名前を知っている気がする。
まるで、彼に何か強い結びつきがあるかのように、その名前は俺の意識の中でぼんやりと漂っている。
彼はこの研究の中心にいた人物であり、おそらくこの施設の謎を解く鍵を握っているだろう。
明日は、このアガンテア博士についてもう少し調べてみようと思う。
彼に関するデータや記録が、どこかに残されているはずだ。
もしかしたら、彼の研究を辿ることで、自分がここにいる理由や、失われた記憶を取り戻す手がかりが見つかるかもしれない。
俺がこうして生き延びているのも、彼に関する何かしらの理由が関わっているような気がしてならない。
とはいえ、いつまでこうしてヤミンと一緒にいられるのかは、正直わからない。
彼女はいつも明るく、無邪気に振る舞っているが、その笑顔の裏に隠された運命があることを、俺は知っている。
ヤミンは、決して永遠には続かない存在だ。
彼女がどのように作られたのか、その仕組みや背景をまだすべて理解しているわけではないが、彼女には限られた時間があることは明白だ。
だからこそ、こうして彼女と過ごす一日一日が、どれほど貴重なのかを痛感している。
もしかしたら、いつかすべての謎が解けたとき、俺たちはここで長く平穏な日々を過ごすことができるかもしれない。
そんな希望が頭をよぎることもある。
いつまで一緒にいられるかわからないという現実があるにもかかわらず、俺は彼女といつまでもここで暮らし続けたいという思いが、心の中で少しずつ強くなっている。
薄暗い施設の中で、明日のことを考えながら、俺はベッドに身を横たえた。
体が重く、意識はゆっくりと深い眠りへと引き込まれていく。
遠くでヤミンが何かを片付ける音がかすかに聞こえていたが、その音も次第に遠のいていく。
そして、まどろみの中に意識が溶け込んでいくと、俺は再び彼女との明日を思い描きながら、静かに眠りに落ちた。