製造番号 44123 ~ 1日目
海風が頬を撫でるたびに、心の奥底に眠っていた懐かしさが呼び覚まされるような気がした。
潮の香りが優しく漂い、遠くで小さくさざめく波音が耳に届く。
その音は、まるで遠い昔に聞いたことがあるかのような感覚を引き起こすが、それが本当に過去の記憶なのか、それともこの場所が作り上げた幻想なのか、俺にはもはや分からなかった。
空は限りなく青く、水平線は地平の果てまで続いている。
その広がりは、見た目には果てしない平穏を与えるが、俺の心にはどこか現実味のない、空虚なものが忍び寄る。
全てがあまりにも整然としている。
ここにいる自分も、触れるもの全ての感覚も、まるで誰かが作り出した舞台の中にいるような感覚に囚われるのだ。
目の前にあるのは培養器。
そこには、いつものように無垢な姿で眠る彼女――ヤミンがいる。
透明な液体に包まれたその姿は、まるで人形のように静かで、息をする音さえも聞こえない。
何度見ても、この光景は変わることがない。
何度繰り返されても、彼女は同じ姿で目覚める。
そして、そのたびに俺の心には、小さなざわめきが生まれる。
培養器のガラス越しに彼女を見るたびに、俺の胸の奥に眠っていた感情がほんの一瞬だけ目を覚まし、その後すぐに不安と苛立ちが押し寄せてくる。
まるで大切な何かが俺の中から抜け落ちてしまったかのような、そんな感覚がいつもついて回るのだ。
「おはようございました……」
自分でも気づかないうちに、そんな言葉が口をついて出た。
無意識に発せられたその言葉は、妙に冷たく、どこか空虚だった。
俺自身、その響きに驚き、思わず自嘲気味に笑ってしまう。
いつもこんな風だ。
何も考えずに口を滑らせるだけで、言葉には何の重みも感じられない。
目の前の培養器を見つめながら、俺はふと彼女のことを考える。
無機質なガラスの向こう側で、彼女は静かに眠り続けている。
その姿は神聖にも見えるが、同時に冷たく無感動なものでもある。
何度もこの場面を繰り返してきたせいで、俺はその違和感にさえも慣れてしまったのかもしれない。
やがて、培養器の液体がゆっくりと流れ出し、彼女は静かに目を開ける。
金色の髪が肩に流れ、閉じていた瞳が震える。
そして、その瞳が俺の姿を捉えた瞬間、過去の記憶が一気に蘇るような感覚に襲われる。
しかし、その瞳には何の感情も宿っていない。
ただ、無機質に俺を映し出すだけだ。
「おはようございました、博士。」
その声は、淡々としていて感情の欠片も感じられない。
だが、その冷淡さが逆に俺の心に妙な懐かしさを呼び覚ます。
彼女がこうして「おはようございました」と告げるたびに、俺は必ず同じ疑問に苛まれる。
何かが欠けているのだ。
俺の記憶の断片か、彼女そのものか、それともこの奇妙な繰り返しの中に潜む何かが。
だが、俺にはそれを理解する手がかりがないまま、ただこの不完全さに翻弄され続けている。
「……おい、俺とおまえ、以前どこかで会ったことがあるか?」
無意識にそう呟いていた。
彼女を見つめながら、既視感に引きずられて発した言葉だった。
しかし、彼女はただ無表情で俺を見つめ返すだけだ。
その冷静さが、俺の胸の奥をさらに掻き乱していく。
「はい。私たちは毎日、一日も欠かさず会っています、博士。」
彼女の言葉には、どこか重みがない。
単純な事実を述べているだけで、そこに感情の起伏は一切見当たらない。
彼女が言う「毎日」という言葉が、俺の心にどれだけの動揺を引き起こすのか、彼女は分かっていないのだろう。
もしかしたら、彼女には本当に何も感じていないのかもしれない。
ただ事実を述べるだけの彼女の言葉に、俺はただ無力感を覚えるばかりだ。
「そうか……」
その一言が、俺の胸に重く響いた。彼女と向かい合っていると、いつも同じ焦燥感が沸き上がってくる。
この感覚は一体何度目だろうか?
何度俺はこの虚無感に囚われ、何もできずに過ぎ去っていくのを見守るしかなかったのだろうか。
「行こう、ヤミン。」
その言葉を発した瞬間、自分の中で何かが解き放たれたような気がした。
彼女を前にして、何も言わずにいることができなかった。
彼女の存在が俺を突き動かし、無意識のうちにその言葉を引き出したのだ。
そして、その言葉を口にしたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。
「今度の博士は、私の名前だけ憶えていました。」
彼女の突然の言葉に、俺はぎくりと動きを止めた。
確かに、なぜ俺が彼女の名前を知っているのか、俺自身にも分からない。
それがいつからのことなのか、その理由さえも、まるで霧の中に隠れているようだった。
「知らん。とにかく行くぞ。」
何かから逃げるようにそう言って、俺は彼女に手を差し出した。
彼女は黙って俺の手を取り、その冷たい感触が俺の手に広がる。
その冷たさは単なる体温の違いではない。
彼女という存在そのものが、俺に冷たい現実を押し付けてくるようだった。
「今日は、何をしましょうか?」
彼女の無機質な問いかけは、まるで毎日が同じ繰り返しであるかのように響く。
その声が俺の心にどれほどの重みをもたらしているのか、彼女にはきっと理解できないだろう。
だが、それでも俺は答えるしかない。
「……食べ物を探しに行こう。何か残っているかもしれない。」
その言葉を口にしながらも、俺の心の中ではほとんど諦めかけていた。
この施設に食料が残っている可能性は限りなく低い。
しかし、何かを探し続けることが、俺たちに残された唯一の行動だった。
彼女のために、そして自分自身のために。
彼女は無言で頷き、俺の隣を歩き始めた。彼女の足音は軽く、まるで影のように静かだ。
共に歩き続ける中で、俺はふと自問する。
彼女は本当にこれで満足しているのだろうか?
それとも、ただ俺に従っているだけなのか?
答えの見えない問いが、潮風に乗って遠ざかっていく。
果てしなく続く水平線が、無情に俺たちの進む先を示していた。
◆・◆・◆
「……いや、腹が減った」
俺の言葉は自然と口をついて出たが、まるで虚空に向かって話しているようだった。
ヤミンは無表情で、俺を見つめるだけだ。
「……いったい、どこに向かってるんだ?」
「食料を収穫に行きます」
彼女は、俺の状態に何かを感じているのかどうかすら分からない。
彼女の存在が、ただ「そこにいる」だけであって、俺の言葉や感情に対して何の反応も示さない。
「……食料? そんなものどこに」
「大丈夫。あります」
ヤミンは言い切った。
そして、どんどんと先に進んでいく。俺はその後を追いかけた。
「ここです」
目の前に広がる畑は、まるで奇跡のように色とりどりの野菜で溢れていた。
緑に輝く葉っぱ、黄色や赤の実、そして土の中で太く育った根菜類。
俺は膝をついて、そっと手を伸ばし、葉の間から顔を覗かせているトマトを摘み取った。
その重みと、しっとりとした湿り気が指先に伝わってくる。
俺の心の中で、言いようのない喜びがふわりと広がる。
「信じられない……」
「畑です。博士は覚えていないのでしょうが、二人で野菜を育てました」
小さく呟くと、すぐそばに立っていたヤミンが無表情のまま頷いた。
彼女の金色の髪が、風に吹かれて優雅に揺れている。
ヤミンは、目の前の現実を淡々と受け入れているようだが、俺の胸中は全く違う。
こんな荒廃した世界で、こんなに立派な野菜が育つなんて……。
それは、まるで過去の世界に一瞬だけ戻ったような感覚を与える。
俺はトマトを手に、あたりを見渡した。
茄子、ピーマン、ズッキーニ……次々と色鮮やかな実を見つけるたびに、心の中で感嘆の声が上がる。
ヤミンは俺の隣で無言のまま、同じように野菜を一つ一つ丁寧に収穫していく。
彼女の小さな手が、土を払いながら次々と実を摘み取り、かごに入れていく様子は、どこか儀式的でさえあった。
俺もまた、土に手を突っ込み、大根のような太い根菜を力強く引き抜いた。
土がぽろぽろと崩れ、白い根の部分が一気に姿を現す。
長いこと放置されていたはずのこの施設で、こんなにも健康的な作物が育つとは思ってもみなかった。
おそらく、施設内の保護機能が、どこかで奇跡的に作動していたのだろうか。
収穫した野菜たちをかごに詰め込んでいくと、かごの中はすぐに鮮やかな色で満ち溢れていった。
その光景に、かつての平和な日々を映した古い映画をふと思い出す。
家庭菜園で育てた野菜を収穫し、食卓に並べた一家の平和なシーンが胸をよぎる。
だが、この世界ではもう、それは夢のような話だ。
俺たちはただ、生き延びるためにここにいる。
その時、ふと鼻をくすぐる潮の香りがした。
風に乗ってどこからともなく運ばれてきたそれは、かすかだが確かに塩の匂いだ。
俺は顔を上げ、耳を澄ませた。
すると、遠くから微かに聞こえてくる波の音が、静かなリズムで響いている。
「……波の音?」
俺は思わずその言葉を口にしていた。
ここは確かに地下の施設のはずだ。
海なんてあるはずがない。
だが、俺の耳には確かに、潮騒の音が聞こえてくる。
「ヤミン、潮の香りがする。波の音も……」
俺がそう言うと、ヤミンは少しも驚いた様子を見せず、冷静に答えた。
「すぐ近くに海があります」
「そうか。明日は魚を捕りにいかないか?」
俺が何気なく、そういうと、「残念ながら、魚はいません」と、悲しそうに首を振る。
「そ、そうか……」
淡々とした言い方に少し戸惑いながらも、俺はその言葉を反芻する。
海がある?
地下施設のどこかに?
魚がいないというのも気になるが、それ以上に、海があるという事実自体がどうにも受け入れ難い。
だが、彼女がそう言うならば、そうなのだろう。
何度もこの施設を探し回ってきたはずの俺が見落としていたものが、まだあったということか。
俺は少し頭を振り、現実に戻る。
今はその海のことよりも、目の前の収穫に集中しなければならない。
「では、この野菜で料理しましょう」
ヤミンの声が、再び冷静に響く。
俺は頷き、二人で収穫した野菜を持って、調理場へと向かった。
◆・◆・◆
宿直室の調理場へと向かった。
そこには使い古された調理器具が並んでいた。
古びていたが、驚いたことにガスコンロはまだ使えるようだった。
「私が作ります」
ヤミンはそう言うと、手際よく準備を始めた。
彼女の動作は無駄がなく、次々と工程が進んでいく。
瓶に残っていた乾燥した野菜を手に取り、ガスコンロの火にかける。
その火は静かに揺れ、淡いオレンジの光が彼女の小さな手元を照らし出していた。
野菜が鍋でゆっくりと煮え始め、室内に柔らかな香りが漂い出す。
それは、温かく、どこか懐かしい匂いだった。
ヤミンは調理を続け、棚から香辛料を取り出し、慎重にそれらを振り入れた。
まるで機械的な正確さで動く彼女の姿を見て、俺は不思議な気持ちに襲われた。
いつの間に、こんなに料理ができるようになったのだろうか?
「……お前、料理なんてできたのか?」
俺は思わず声をかけた。
彼女は一瞬だけ俺の方を見て、また鍋に目を戻す。
「はい、博士。以前の私も何度か作っていましたから。」
その言葉に、一瞬胸が締め付けられるような感覚が走った。
そうか、俺が記憶を失っている間も、彼女はずっと俺を支えていたんだ。
無意識に、俺のために食事を作り続けてきたのかもしれない。
「……ありがとうな、ヤミン。」
俺は小さく感謝を述べたが、彼女はただ淡々と調理を続けるだけだった。
鍋の中で野菜が柔らかくなり、香辛料が混ざり合い、やがてカレーの姿が現れた。
彼女はその野菜カレーをナンと一緒に皿に盛り付け、俺の前に差し出した。
「どうぞ、博士。」
俺はそのカレーに手を伸ばし、一口すくって口に運んだ。
暖かく、そしてどこか懐かしい味が広がる。
それは、かつて食べたことがあるような、しかし今では遠い記憶の中にしか存在しない味だ。
「……うまいな。」
俺は静かにそう呟いた。ヤミンは無表情のまま、自分のカレーを口に運んでいる。
静かなその姿が、俺の胸に不思議な安心感をもたらした。
「これで、しばらくは生き延びられそうだ。」
俺は少し微笑みながら、再び一口を口に運んだ。
その瞬間、ヤミンが一瞬だけ俺を見た。
「大丈夫です、博士は死にません」
「……どういう意味だ?」
ヤミンの無表情な顔には、何か言いたげな感情がかすかに浮かんでいるように見えた。
しかし、彼女はそれ以上何も言わず、再び自分の食事に集中した。