製造番号 35764 ~ 2日目
2日目の朝、俺はまどろみの中で目を覚ました。
まるで深い霧の中をさまよっていたような感覚から、徐々に現実へと引き戻される。
重たい瞼をゆっくりと開けると、冷たい空気が肌にまとわりつき、体中が痺れるような感覚を覚えた。
その瞬間、腹の底から鈍い痛みが込み上げ、意識が急に鮮明になる。
昨日は何も食べていない――そのせいで、胃が空っぽのまま乾ききっているのだ。
痛みは、腹から喉、さらには頭まで広がり、じわじわと俺を蝕む。
喉がカラカラで、息をするたびにその乾燥感が焼けつくようだった。
思考が霞んでいる。
頭の中はまるで、霧の中で迷子になったようにぼんやりしているが、ただ一つのことだけは明確だった――食べ物が必要だ。
このままでは、体が持たない。
この苦しみが、まるで空虚な叫びのように響き渡る。
けれど、どうしてこんなにも空腹なのに、俺は何も覚えていないんだろう?
何をしていたのかさえも、すっぽりと記憶が抜け落ちている。
そんな不安が脳裏をかすめた時、不意にヤミンの声が聞こえた。
「おはようございました、博士」
その声は、無機質で抑揚がなく、まるで機械的な音声のようだった。
しかし、その声が響くと同時に、俺は彼女の存在をはっきりと感じた。
ヤミンがいる――それは、この奇妙で不確かな世界の中で唯一確かなものだ。
俺を見つめる彼女の瞳は、感情を持たないように見える。
まるで無表情の仮面を被ったままの彼女。
それでも、その存在は俺にとって大きな支えだった。
「……あぁ、おはようございました。食べ物、何かないか?」
俺の声はかすれ、弱々しかった。
今の俺にとって、ヤミンの言葉や表情よりも、切実な問題は空腹だった。
腹が減って仕方がない。
頭が痛むほどの飢餓感に襲われ、意識がまともに保てない。
だが、ヤミンはそんな俺の状態を気にする様子もなく、淡々と首をかしげて少し考え込むように見えた。
「食べ物……博士がここに来たときには、もうほとんど残っていなかったはずです……」
「俺がここに来た……?」
その言葉に一瞬、胸の奥で疑問が膨らんだ。
俺がここに来た? どうして? 俺はどこから来たんだ?
そして、どうしてこんな場所にいるんだ?
頭の中に浮かんだその疑問も、すぐにまた霧の中に消えていく。
ぼんやりとした思考が続く中、今最も重要なのは食べ物だった。
それに、ヤミンの話す言葉がどこか曖昧で、その意味さえも掴めない。
「……とにかく、食べ物を探さなきゃな。これ以上、空腹に耐えられない」
俺は自分を奮い立たせるようにそう言い、体を動かそうとした。
腹の痛みが一層強くなり、俺の体は食べ物を求めて叫んでいるようだった。
ヤミンはそれを見て、淡々とした声で答えた。
「分かりました。では、食べ物を探しましょうか」
彼女の声は相変わらず冷静で、感情の欠片も見えない。
それでも、彼女がいることが俺にとっては救いだった。
俺たちは無言のまま、施設内を歩き始めた。
どこかに食べ物があるはずだ――そう信じて。
◆・◆・◆
だが、時間が経つにつれて、その希望は次第に薄れていった。
冷蔵庫は空っぽで、ストックルームにも何もない。
俺たちがこの施設に到着したときには、既に食べ物が全てなくなっていたのだろうか?
それとも、ここが何年も放置されていたため、すでに誰かが持ち去ったのだろうか?
そんな疑問が浮かんでは消え、胃の痛みがそれをかき消す。
やがて、俺たちは中庭にたどり着いた。
錆びついたベンチがポツンと置かれ、枯れた草が風に揺れている。
崩れかけた壁が遠くに見え、その光景はまるで、かつての活気ある施設が一瞬にして廃墟と化したかのようだった。
風が静かに吹き抜け、土の匂いが微かに漂う。
それでも、この場所にも食べ物は見つからない。
そんな時、ヤミンが地面に目をやり、無表情のまま淡々と指をさした。
「博士、何か落ちています」
彼女が指す先に目をやると、小さな袋が土の上に転がっているのが見えた。
拾い上げ、中を確認すると、それは粒状の何かが入った袋……穀物の種だった。
「……これ、食べ物じゃないけど……種か。これを植えれば、いずれ食料が手に入るかもしれない。時間はかかるだろうけどな」
種を植える――それは、今すぐの救いにはならないが、少なくとも未来への希望だ。
しかし、その希望もどこか儚く、遠いものに感じられた。
俺の胸に満ちているのは、空腹という現実だった。
「種を植える……」
ヤミンは俺の言葉を復唱し、無感情に頷いた。
彼女の反応に感情はなかったが、その姿が妙に心地よく、安堵感が俺の中に少しずつ広がっていった。
空腹を満たすことはできなくても、少なくとも何かを「植える」という行動が、この絶望的な状況に少しの意味を与えてくれるかもしれない。
俺たちは黙々と地面を掘り起こし、そこに種を埋めていった。
手の感触が冷たくて硬い土に触れるたび、俺の心は徐々に落ち着いていくような気がした。
ヤミンも、四つん這いになって作業を続けている。
無言の彼女の姿が、まるでこの荒廃した世界で唯一の確固たる存在のように思えた。
彼女が言葉を発しないからこそ、俺の頭の中は次第に静寂に包まれていく。
しかし、その静けさの中で、ふと俺は思い出してしまった。
――いや、思い出すというよりも、疑念がふつふつと湧いてきたのだ。
「なぁ、ヤミン……お前、どうして俺のことを知ってるんだ? 俺が記憶を失ってるって……?」
俺が問いかけると、ヤミンは無機質なまま、当たり前のように答えた。
「博士は3日で記憶を失うからです」
「3日で……記憶を失う……?」
その言葉が、まるで鋭利な刃物のように俺の胸を刺し貫いた。
「3日で……」俺はほんの3日間で、すべてを忘れ去ってしまうのか?
記憶が失われるたびに、何度も何度もこの場所で同じことが繰り返されているというのか?
この施設で、俺とヤミンの間にどんなやりとりがあったのか、その詳細は一切思い出せない。
それでも、彼女だけは俺のことを覚えている……。
ヤミンは、俺が記憶を失う度に、その失われた部分を補うように、俺を見守り続けているのか?
「……そうか、俺が3日で記憶を失っても、お前がいるから大丈夫なんだな?」
俺の言葉は自分に言い聞かせるようなもので、空腹と混乱のせいで声が少し震えているのがわかった。
だが、ヤミンはいつもの無表情な顔で淡々と頷いた。
「はい。私は博士を知っていますから」
彼女の声は機械的で感情の欠片もないが、それでもその言葉には、なぜか深い安心感が宿っていたよ
うに思えた。
ヤミンは俺を知っている――俺がどれだけ記憶を失おうと、彼女だけは俺の存在を、俺自身を覚えている。
この空虚な世界の中で、ただ一つ確かな存在として、俺の隣にいてくれるのだ。
たとえ、3日で全てを忘れてしまっても。
何度でも新しい記憶を作ることができる。
それは不安定な希望かもしれないが、今の俺にはそれがすがるべき唯一のものだった。
ヤミンがいれば、俺はまたこの失われた記憶の中で、自分を取り戻せるかもしれない。
そう思った瞬間、ふと「3日」という言葉が頭の中で引っかかり、違和感が膨らんだ。
何かが、この「3日」という期限に関して、妙に重要な意味を持っている気がする。
けれど、それが何なのかはまだ見つからない。
「……ありがとう、ヤミン」
俺はそう言いながら、空腹感を無理やり押し殺しつつ、地面に種を埋める作業を終えた。
手が土に触れるたびに、俺の心も少しずつ落ち着いていくのを感じた。
食べ物はまだないが、せめて何かを「植える」という行為そのものが、希望の小さな芽を育んでくれるかもしれない。
この場所で、ヤミンと共に少しでも安心を感じられるなら、それだけで十分だ。
少なくとも今は。
「博士は疲れていませんか?」
ヤミンの声がふいに耳に入り、俺は一瞬、身体の重さを意識した。
確かに、こんなに突然肉体労働をしたせいで、疲れがじわじわと全身に広がっていた。
だが、それが嫌な疲れではなく、どこか充実感のある疲労であることに気づく。
土に触れ、何かを作り出す行為は、体だけでなく心も少し癒してくれるのかもしれない。
「いいものを見つけました」
ヤミンは突然、そう言って何かを告げるように俺に目を向けた。
その淡々とした表情からは感情が読み取れないが、彼女の言葉に込められた「いいもの」という響きが、少しだけ興味を引いた。
「いいもの……?」
俺はその言葉を反芻しながら、少し不安と好奇心が入り混じった気持ちで問い返す。
「はい、いいものです。しかし、今日は休みましょう」
ヤミンの言葉には、確信めいた何かが含まれているようだったが、それでも今日はそれを明かすつもりはないらしい。
「今は教えてくれないのか?」
少し気になって、俺はさらに問いかけたが、ヤミンはやはり冷静なまま答えた。
「大丈夫。明日になればわかります」
彼女のその淡々とした答えに、俺は一瞬、反論しようとしたが、すぐにその気は失せた。
ヤミンが言うならそうなのだろう、と自分を納得させ、彼女の言葉に従うことにした。
言われた通り、俺は部屋に戻り、横になった。
ベッドの硬さが少し気になったが、それよりも疲労が勝り、まどろみが急速に広がっていく。
疲れたなあ……でも、この疲れは悪くない気がする。
ヤミンの隣で、今日の作業を終えた安堵感が俺を包み込む。
明日になれば、きっとまた何かが変わるはずだ。
そんな小さな期待を胸に、俺は目を閉じ、静かに眠りにつこうとしていた。