製造番号 35764 ~ 1日目
目の前に広がるのは、何度も見たはずの、白い部屋。
無機質で冷たい世界。天井に延びる無数の管が、息苦しさを伴う圧迫感をもたらしている。
淡々と響く機械音が、無情にも時間を刻む。
ここは、俺の居場所だったはずだ。けれど、何をしていたのか、その肝心な部分が霧に覆われてしまったようで、思い出せない。
ふと、頭の中に霧がかかっているような感覚が広がる。何かを掴みかけたかと思うと、それはするりと手から滑り落ちる。
その繰り返しに苛立ちを覚え、胸の奥に重苦しい感覚が積もっていく。まるで、取り戻そうとするたびに記憶が遠ざかっていくかのようだ。
「ああ……そうだ、ヤミン……」
その名前だけが、まるで消えかけた灯火のようにぼんやりと頭の中に残っている。
ヤミン――そうだ、ヤミン。
ヤミンって誰だ? その名前がもたらす感情は確かにある。けれど、それが誰で、何を意味するのか、答えは霧の中に隠れている。まるで自分自身が、あやふやな存在になってしまったような感覚。自分というものが頼りなく、形を失ってしまいそうだ。
その時、不意に目の前の培養器から微かな動きがあった。
俺は反射的にそちらへ視線を向ける。透明なガラスの中で、小さな少女が静かに動き始める。
体が反射的に硬直し、胸の奥に奇妙な衝撃が走る。
彼女だ――ヤミンだ。
頭の奥に浮かんでいた曖昧な名前が、今、目の前に実体を持って現れた。
彼女がヤミンなのだ。ガラスの扉が音もなく開き、彼女はその白い小さな体を伸ばし、ゆっくりと目を開けた。
金色の髪が柔らかく揺れ、水のように流れる。その姿は、まるで夢の中の光景のようだ。
けれど、これは現実だ。確かに、俺の目の前に彼女がいる。そして彼女の瞳が俺をじっと見つめる。
その瞳には、何かを語りかけるような無垢な光が宿っていた。
「おはようございました、博士!」
彼女の口から発せられたその言葉は、驚くほど鮮やかに響いた。
にっこりと微笑む彼女の表情が、まるで太陽の光のように俺の心を温める。
それはどこかで何度も見た気がする光景だった。けれど、それ以上の記憶は霧の中に沈んでいる。
「……お、おはよう……ございました……」
言葉が喉に詰まり、思うように出てこない。何かが邪魔をしているかのように、俺は彼女にどう接するべきかもわからない。
この部屋、この空間、そして彼女――。
すべてが俺の記憶の中にあるはずなのに、それらがまるでピースの欠けたパズルのように、どう組み合わせればいいのか分からない。それがひどくもどかしい。
「……博士、大丈夫ですか? すごくぼーっとしてます」
彼女が不思議そうに俺を見上げる。その無垢な瞳に見つめられると、どうしても逃げられない気がした。
俺はいつも通りだ、そう言い聞かせたかった。けれど、何かがいつもとは違う。
何かが抜け落ちている。まるで、自分の心の一部が失われてしまったようだ。
自分の手で顔を覆い、深く息を吐く。けれど、その息はすぐに消え、また頭の中は混乱で満たされていく。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
その時、彼女がそっと俺の腕に触れた。その小さな手の温もりが、まるで俺の中にある虚無を埋めようとするかのように感じられた。
「博士、無理しないでください。きっとすぐに、思い出します」
彼女の言葉は、どこか優しく響き渡る。
思い出す――その言葉が、希望の光のように心の奥に差し込んでくる。
彼女がそう言うのなら、そうなのだろう。
俺は、彼女の存在がすべてを知っているかのような気さえしていた。
「……そうだな、すまない。少し混乱しているだけだ」
彼女の笑顔が、再び俺の心に暖かなものを運んでくる。その笑顔を見るたびに、どうしようもなく胸が締め付けられる。
彼女の存在が、俺にとってどれほど大切なのか――それだけは、ぼんやりと感じることができた。
「じゃあ、今日からまた一緒に頑張りましょう! 私も、頑張ります!」
彼女の言葉が、胸にじんわりと響く。
「また」――そう言われると、まるで以前にもこんなやり取りをしていたような気がしてくる。
けれど、その記憶は遠く霞んでいて、手に取ることができない。
「……ああ、そうだな……」
言葉が重く、喉を通るのに時間がかかるように感じる。
それでも、俺は彼女の言葉に従って歩き出す。彼女は楽しげに施設のあちこちを見回し、その笑顔と明るい声が空間に溶け込んでいく。
俺はただ、その後ろを黙って追いかけるだけだ。彼女の笑顔がどこか遠く感じられるのに、それを見逃したくない、そんな思いが胸に広がっていた。
「博士、この部屋、なんかいい匂いがします!」
ヤミンがそう言って駆け出し、施設内の一室に飛び込んでいく。
俺はぼんやりと彼女の後を追った。
そこには研究器具や、古びた書類が乱雑に散らばっている。
俺は少し眉をひそめたが、ヤミンは気にせず棚を覗き込んでいる。
「これは、私たちのことが書いてあるのですか?」
俺は黙ってその書類を手に取った。
だが、そこに書かれている文字は、全てが俺にとって無意味だった。
何かを読み取ろうとするほど、頭が痛くなってくる。
「……分からない。今は、何も分からない」
自分で口にしていても、その言葉が酷く虚しく響く。
ヤミンは少しだけ考え込むように俺を見上げ、そしてまたいつもの笑顔を浮かべる。
「大丈夫、博士。ゆっくりで。私は、ちゃんと待っています!」
彼女のその言葉が、どうしてか俺の中で引っかかった。
待つ?
何を待つ?
俺が何をすればいいというんだ?
でも、そんな疑問を口にすることはできなかった。ヤミンの瞳が真っ直ぐに俺を見つめていたからだ。
俺は、ただその瞳に引き込まれるように頷くしかなかった。
時間が経つにつれて、俺の中で少しずつ、何かが形を取り始めていた。
それが記憶なのか、感情なのかは分からない。
けれど、ヤミンと過ごすうちに、少しだけその霧が晴れ始めたように感じた。
彼女の存在が、俺の中で何かを取り戻している――そんな気がする。
でも、それが何なのかは、まだ掴めない。
◆・◆・◆
そして、俺はついにこの施設の管理端末を見つけた。無機質なスクリーンが静かに光り、俺を待っているかのようだった。
指先が震える。何か、とてつもない真実に触れる瞬間のように感じた。けれど、俺の頭はまだ霧の中にいる。
自分が何を見つけたのかさえ、ぼんやりとしか分からない。
画面に表示されたIDは『ラエル』と記されている。
俺の名前だ。だが、パスワードが分からない。何を入れれば良いのか、全く思い出せない。
その時、不意にヤミンがお祈りをした。
俺がパスワードを思い出すのを願いかのように……?
否、違う。これこそが、いや、そうだ。俺は依然どこかで……。
『HALLELUJAH』
ついて出た言葉は、さらに核心に迫った手ごたえを感じた。
だが、まだだ。それは10文字。
最後にログインしたパスワードは履歴から、9文字だと見えている。
つまり……。
『ALLELUJAH』
無意識にそのパスワードを入力した。
「……これがパスワードって事か」
口に出した瞬間、胸の奥にざわめく何かがあった。
まるで、この一言が全ての鍵だったかのように。
『――SUCCESSED。 ALL DATA CAN BE VIEWED』
静かに、管理端末が起動し、画面に全ての情報が解放された。
正解。
俺は、この施設の全権を持つ最高位の管理者だった。
だが、その事実を知っても、俺の心はどこか遠くのままだ。まるで、他人事のようにしか感じられない。
情報が次々と表示されていく。膨大なデータが目の前に広がっているのに、それが何を意味するのか、俺にはまだ理解できない。
頭の中が、鈍い痛みで締め付けられる。答えがそこにあるのに、指先で掴み取れないようなもどかしさが俺を苛立たせた。
すると、ヤミンがそっと俺の手を握った。彼女の小さな手の温もりが、冷たい現実の中で唯一の救いのように感じられる。その瞬間、俺は彼女の存在に、ただただ安堵した。
彼女がいる、それだけでいい。それだけが、今の俺にとって唯一確かなものだった。
「博士、明日もまた一緒に探しましょう!」
彼女の声は明るく、まるで何も心配することはないとでも言うかのようだった。
その無垢な瞳に映る俺は、果たしてどんな姿なんだろうか。
彼女にとって、俺は頼りになる存在なのだろうか?
そんな疑問が頭を過ぎる。
けれど、俺は答えを出すことができなかった。ただ頷くだけ。ヤミンの提案が、何かしらの希望を含んでいるように思えるからだ。
明日……そう、明日がある。何もかもが分からなくても、明日という時間がまだ残されている。
それだけで、今は充分だと自分に言い聞かせた。
「ああ……明日も、また……」
声が震えた。
まるで自分自身を納得させるように呟く俺を、ヤミンは優しい目で見ている。
その視線が、まるで俺を包み込むかのようで、心が少しだけ軽くなる。
「博士は疲れています。今日はもう休みましょう」
彼女の言葉に、俺は静かに頷いた。
確かに疲れている。
何もかもが曖昧で、何一つ明確な答えが出せないことがこんなにも疲れるものだとは思わなかった。
けれど、ヤミンの存在が、少しだけその重荷を軽くしてくれる。
彼女に導かれるように、俺は横になった。ベッドに沈み込む感覚が、重い身体を支える。
ヤミンの目が、まだ俺を見守っている。彼女が傍にいてくれる。それだけが、今の俺にとっての拠り所だ。
瞼を閉じると、意識が徐々に遠のいていく。
まどろみの中で、俺はヤミンの微笑みを思い浮かべていた。
彼女の微笑みが、まるで優しく包み込むように俺を守ってくれる気がした。
――何か、大切なものを思い出せそうだ。
けれど、今はまだその時ではない。
ヤミンがいる限り、俺には時間がある。
そう信じて、俺は深い眠りの中へと落ちていった。
明日が来る。
そのことだけが、今は救いだった。