製造番号 30682 ~ 1日目
「………」
腹が減った。
ぼんやりとした意識の中、俺は気づけばここに立っていた。頭が霞んでいる。何も思い出せない。
目を擦りながら周囲を見回すが、見慣れない場所だ。まるで記憶の断片を漂うように、目の前に広がるのは無機質な空間。壁には乱雑に配線が走り、ところどころで機械音が鳴っている。床には薄い埃が積もり、長い間誰もここを歩いていないようだ。
これは……研究施設だろうか。ならば、俺は研究者……ということになるのか?
自分の姿を見下ろすと、白衣を着ていた。確かに、研究者だとすれば辻褄が合う。しかし、どうしてここにいるのか、何をしていたのか――何一つ思い出せない。
「おーい、誰かいるのか?」
声を張り上げるが、返事はない。室内の冷たい空気が、俺の声を吸い込んでいくようだ。薄暗い照明が淡々と光を放っているが、やけに冷たく、まるでこの場所全体が時間を忘れてしまったかのような静けさが漂っていた。
ここに、どれほどの時間が経過したのかさえ、わからない。
「……腹が減ったな」
再び呟くと、腹の中が苦しむように鳴る。ポケットに手を突っ込むと、そこに触れたのは一枚のメモ。しわくちゃになった紙を広げ、そこに書かれていたのは……名前。
『ラエル・ビスミッラー』
「……これは……俺の名前か……?」
記憶の霧は依然として晴れない。それでも、この名前が自分のものだという確信だけはぼんやりと浮かび上がる。
ラエル……ラテン語の「神」に由来する名前か。我ながら大層な名前だ。
だが、それにしても奇妙だ。まるで自分のことなのに他人のことのような感覚に包まれる。全く馴染みがない。
肩書によれば、俺は人造天使の研究者なのか。
ふと、その言葉が頭に浮かぶ。人工的に天使を造り出す――『アーティフィシャル・エンジェル』。神話や宗教に語られる存在を、科学の力で具現化しようとしているというのか。
その研究は一体、何のためだ?
不老不死の追求か、それともただの幻想への挑戦か。
いずれにしても、そんな壮大な目的を持っている研究だというのに、俺は今こうして途方に暮れている。何者なのかすら、わからないままに。
「俺が何者なのか、そしてここが何なのか……」
俺は呆然としたまま、足を引きずるようにして施設の奥へと進み始めた。思考がまとまらずに絡み合うが、体は自然に動いていく。まるでこの施設そのものが俺をどこかへ導こうとしているような感覚があった。
その時、不意に背後から声が響いた。
「……おはようございました」
硬直する。
瞬間的に全身に冷や汗が滲み出た。
振り返ると、そこに立っていたのは――まるで人形のような少女。白い肌、長い金髪、そして無機質な瞳。
彼女はじっと俺を見つめている。その表情は感情を感じさせない。だが、彼女の存在自体がこの異質な空間の中で一際異彩を放っていた。
「お、おはよう……ございました?」
意味が分からない。どうして過去形なんだ?
戸惑いながら、彼女の背後を見やる。そこには大きなガラス製のタンクがあり、その中で浮かんでいるのは――彼女と同じ顔をした少女たち。
培養液の中で静かに漂っている姿はまるで夢の中の幻影のようだ。
「おい、お前、名前は?」
「ヤミン・ビスミッラーです。30682です」
「なんだ、その数字は?」
「製造番号です。30682体目の天使です」
製造番号……なるほど、どうやらこの施設では、本当に天使を人為的に造り出していたらしい。
だが、目の前の少女は人間にしか見えない。
普通の少女――いや、普通の人間と違うのは、その無機質な瞳だ。
何かを感じ取る余裕など与えない、機械のような視線。
「俺が造ったってことか……」
「はい、そうです、博士が私を造りました」
俺はその言葉に一瞬、息を呑んだ。
「俺が造った……?」
そんな馬鹿な話があるのか。
だが、目の前にいるこの少女――ヤミンは確かに俺にそう告げた。
まるでそれが当然のことかのように。
「……突然、知らない娘が現れた親にでもなった心境だよ、まったく」
「? 何か言いましたか?」
「なんでもない」
俺は軽く首を振り、再び施設内を見回した。
他に誰かいるのか確認しなければ。
「それにしても、ここには他に誰かいないのか?」
「博士以外の大人は見ていません」
「大人? じゃあ、子供なら見たってことか?」
「はい、います。そこに」
ヤミンが指差したのはガラスのタンク。
そこに浮かんでいるのは、先ほどと同じ顔の少女たち――培養液の中で静かに眠っている。
彼女たちも『人造天使』なのか……?
目の前の光景が現実なのか、それとも夢の中なのか、俺にはもうわからない。
「……そういう意味ね」
「はい、そうです。彼女たちも博士の作った私たちです」
頭が痛くなる。
ここで何が行われているのか、全く理解できない。
俺はこの施設の支配者なのか? それともただの駒に過ぎないのか?
「……まあいい。とりあえず、この施設を調べよう」
「はい、博士」
ヤミンと共に施設の探索を再開した。
◆・◆・◆
ヤミンは俺のそばを無言でついてくる。
彼女の足音は軽く、静かな施設内でその音がほとんど響くことはない。俺は、何かしらの手がかりを得ようと、無言のまま広い施設内を歩き始めた。
どこを見ても機械や機器が整然と並び、無機質な金属の冷たさが全身に染みわたる。光をほとんど吸収してしまうかのような暗い廊下は、まるでこの場所が長らく人の手を離れていたことを物語っていた。
壁には時折、古い案内板や壊れかけたモニターが残されているが、その多くはすでに機能を失っていた。
「……ここは本当に機能しているのか?」
俺は呟くようにそう問いかけた。
沈黙を破るように、ヤミンが口を開く。
「博士、この施設には何かの秘密が隠されていると思いますか?」
彼女の声は柔らかく、しかしどこか確信に満ちた響きを持っていた。
「さあな……でも、たぶんそうだろう。俺たちがここにいる理由があるはずだ」
俺はふと足を止め、周囲を見回す。すると、廊下の隅にある端末の一つが、かすかな光を放っていることに気づいた。近づいてみると、それはまだ作動していた。
期待を込めて画面に手を触れ、操作を試みるが、ほとんどのデータはロックされている。
「データが見られない。パスワードが必要だ」
俺は苛立ちを隠せず、少し声を荒げた。
「パスワード。覚えていないのですか」
ヤミンは、冷静な口調で問いかける。
「記憶喪失みたいなものだと言っただろう。何も心当たりが思いつかん」
俺は肩をすくめる。記憶の断片すら曖昧で、頭の中は霧がかかったように混乱している。
端末の画面に映る残されたデータから、俺のIDが「ラエル」であることと、パスワードは9文字であることだけが確認できた。アルファベットだけだとしても、その組み合わせは天文学的な数字になる。総当たりで試すなんて非現実的だ。
「わからん……何かきっかけでもあればいいんだが……」
俺はため息をつきながら頭を抱えた。
「博士の名前」
ヤミンが突然呟いた。
「俺の名前がどうした」
俺は不意をつかれ、彼女に視線を向ける。
「博士の名前は、ヘブライ語で『神』です。IDが神様なら、パスワードはその神を賛美する言葉ではないのですか」
ヤミンの目が真っ直ぐ俺を見つめている。
「ふむ。アーメンとか、か?」
俺は冗談交じりに言ったが、彼女は首を振る。
「アーメンは、AMEN。それでは4文字です」
「じゃあ、なんなんだよ。9文字で神を賛美する言葉なんて……」
俺は頭の中で何とか思い浮かべようとするが、何も浮かばない。
「あります」
ヤミンが自信満々に言った。
「え?」
俺は驚いて彼女を見つめた。
「HALLELUJAH。ヘブライ語の祈りの言葉『ハレルヤ』です」
「いや、待て。それだと10文字だろう」
「大丈夫。合っています」
ヤミンはにっこりと微笑んだ。
「合ってる?」
俺は疑念を抱きながらも聞き返す。
「はい、『ハレルヤ』は、もともと旧約聖書のヘブライ語『アレルヤ』です。『アレルヤ』はラテン語的な発音で、ラテン語では『H』を省略します」
ヤミンは空中に綴りを書き、最後に先頭の文字を左手で取り除くジェスチャーをしながら、
「だから、パスワードは『ALLELUJAH』……9文字です」
自信たっぷりにそう言い切った。
俺は半信半疑でそのパスワードを入力する。画面が一瞬止まり、次に現れたのはアクセス許可の画面だった。
「通った……」
俺は信じられない思いで画面を見つめた。
「すごい……見れるぞ」
俺は息を呑み、データが閲覧できる状態になっているのを確認する。
「はい、神と、神の賛美と、神の遣いは繋がっています」
ヤミンは得意げにそう言うと、ふと画面を見つめ直し、再び俺に目を向けた。
「神という名前の博士なら、私たちのような人造生命体をホムンクルスと呼称せず、人造天使と呼称したり……」
彼女の目には、確信に満ちた光が宿っていた。
「パスワードを神への賛美にすると思いました」
ヤミンは俺に微笑みを浮かべながら言った。その目には、まるで俺より俺のことを知っているかのような鋭い洞察が込められていた。
初対面の少女に、ここまで読み取られるとは……脱帽だ。
「よかった、そのIDはフルアクセスアドミニストレーターです」
「え? 本当だ……」
画面に表示された文言に俺はさらに驚いた。
どうやら俺はこの施設の最高管理者らしい。全てのデータにアクセスできる権限が俺にはあるのだ。
「俺は一体……何者なんだ?」
その問いは誰に向けたものでもなく、ただ俺自身の心に響いた。
ヤミンは静かに俺を見つめ、やがて口を開いた。
「博士が誰であっても、私はずっとオトモします」
彼女の言葉はまるで安らぎのように、俺の心に届いた。
俺は深く息を吐き、端末に映し出された膨大なデータを見つめる。
「答えはもうここにある、焦らず今日は休もう。俺も少し疲れてしまった」
「もうデータは見ないのですか?」
ヤミンが小首をかしげながら問いかけた。
「逃げるものじゃないからな。少しずつでいい、記憶を取り戻す手がかりを探そう」
「はい」
ヤミンは頷き、柔らかな微笑みを浮かべた。
「ってことで、俺は少し寝る」
「その間、私は何をしますか?」
彼女は無邪気な顔で聞いてきた。
「知らん、俺が起きるまで好きにしろ」
「わかりました、そうします」
俺はヤミンに任せ、端末の前で瞼が重くなるのを感じながら、その場で少し体を休めることにした。