製造番号 00001
俺はアガンテア・レアリティンダ。
かつては再生医療研究の権威だった。
この狭い地下シェルターの研究室で、俺は長い年月を過ごしている。
机の上には、乱雑に積み上げられた書類や試験管、ガラス容器、そして中央には、今や頼みの綱となったコンピュータのモニターが薄暗い蛍光灯の光を浴びて光っている。
ここが俺の世界のすべてだ。
この暗く、狭い、閉ざされた空間の中で、俺は黙々と作業を続け、そして、ついにここまで辿り着いた。
思わず体を硬い椅子の背もたれに預け、深いため息をついた。
「……これが、最後の希望ってわけか。」
俺は声に出してみたが、その言葉は自分自身への確認のようなものだった。
そう、自分が望んだ結果はこれしかない。
モニターに映し出されているのは、俺が創り上げた未来そのもの――製造番号00000、アダムス。
そして、その隣には、製造番号00001、イヴ。
これらは俺の手で作り出したクローンと人造天使だ。
彼らは今、コールドスリープの中で眠り、俺の知らない未来を待っている。
西暦2050年。
思い出すと、胸が締めつけられる。
かつてこの「アーティフィシャル・エンジェル・プロジェクト」は、人類の医療を劇的に変える可能性を秘めていた。
クローン技術と超重元素の融合によって、自己再生能力を持つ生命体を生み出すこと――それがこのプロジェクトの目標だった。
それは、かつての俺にとっても夢のような話だったんだ。
しかし、その夢は、愚かな人類の手によって無惨に打ち砕かれた。
核の炎が地球を覆い、すべてが終わった。
「結局、人類は自分たちで終焉を迎えたってわけか……」
思わず、口元が歪んだ。笑うしかなかった。
この荒廃した星に生き残ることができる生物なんて、もういない。
劣化ウラン――99%以上がウラン238で構成されたこの放射能に汚染された大気は、俺たちの星を死の地に変えてしまった。
半減期は45億年――その長さを考えると、俺は絶望しか感じない。
この地球は、もう二度と生命を宿すことはないんだ。
「地球史上最大の不妊治療だな……まったく」
そう思った瞬間、ある種の決断が俺の中に芽生えたんだ。
俺自身が未来を生き抜くための手段を作り出す。
それが人類が滅びた後でも、俺の存在が未来へと繋がるように――それが唯一の道だった。
製造番号『00000』――アダムス。
彼は、俺自身の遺伝子を持つ存在だ。
彼は死んだ地球の未来を蘇えらせるための切り札だ。
「未来の俺よ……お前なら、この世界で生き抜ける」
その言葉は自分自身に向けたものだった。
俺は、未来の自分に託すことに決めたんだ。
だが、ただクローンを作っただけでは、この荒れ果てた地で生き抜くことはできない。
それがわかっていた俺は、さらにもう一つの切り札――イヴを生み出した。
彼女は特別な存在だ。
単なるクローンではない。
彼女は、キリストの血痕から抽出されたヒトゲノムと、超重元素ウンセプトトリウムを基にした存在だった。
イヴは人造天使として、再生医療の最先端技術を結集した結果だ。
だが、彼女の力には限界があった。
イヴのDNAは四重らせん構造を持っていたため、常人よりも遥かに強力な再生能力を持っていたが、そのテロメアは異常に短かった。
結果として、彼女の寿命はわずか三日間しかない。このあまりに短い命の中で、イヴは自分の存在意義を果たさなければならない。
彼女は、未来を紡ぐための存在でありながら、あまりにも儚い命を抱えている。
「だが、それでも……この星を生き延びる唯一の可能性だ。」
イヴには超絶的な再生能力と放射線耐性がある。
彼女はウラン238の放射能にも負けない強さを持っていたが、その反面、その能力を他者に移すと、致命的な被ばくを招く可能性があった。
だから、彼女は不完全だ。
他者を救うこともできれば、逆に命を奪うことにもなりかねない危険な存在だ。
「……みんな、死んだ。」
俺の同僚たち、他の研究員たちは、この核シェルターから外に出ることもできなかった。
外の世界は、核の放射能に未だ汚染され、ただ死の静寂に包まれている。
だが、シェルターの中も、放射性物質を持つイヴの存在によって汚染されていた。
俺以外の全員が、次々に被ばくして命を落としていったんだ。
結局、このシェルターには俺一人しか残っていない。
「俺の余命も、そう長くはないだろう。」
その事実は、薄々感じていた。
俺の体は、少しずつ侵されている。
だが、それでもまだ、俺にはやるべきことがあった。
この汚染された世界で生き抜くために、俺の遺伝子を未来へと繋ぐために、俺はアダムスを作り出した。
アダムスは、俺自身の遺伝子とイヴの遺伝子を交配させた存在だ。
彼なら、この汚染された世界でも生き抜くことができるだろう。
「……頼むぞ、ラエル・ビスミッラー」
未来に向けた願いを込めて、俺はシステムの研究データを慎重に更新していく。
すべてのデータを完璧に残し、未来の自分に託す。その作業を終えた後、俺は自分の研究員データを確認した。
『職員ID:404 ラエル・ビスミッラー』という文字が、画面の中央に浮かび上がる。
その適合性欄に目を通し、俺は一瞬、迷った。
だが、すぐにその手を動かし、項目を「適合合格」と書き換え、この研究所のデータをすべて好きに使えるように最高位管理者権限を付与した。
それが、俺自身を未来に送り出すための最後の一手だった。
俺は未来に託すしかない。この星で生き続けるための唯一の方法を。
「……これで、いいんだ。」
俺は再び、深いため息をついた。
未来に託したその瞬間、俺の役割は終わったのかもしれない。
だが、その未来がどうなるかは、今の俺にはもうわからない。
ただ、一つの希望だけを胸に抱いている。
「おはようございます」
耳を澄ませば、どこかで誰かが囁くような声が聞こえた。
薄暗いシェルターの中で、その音は不思議と鮮明だった。
ああ、製造番号00001、イヴが目を覚ましたんだ。
彼女の声は、冷たい空気の中でも温もりを感じさせる。
俺は、ふと笑みを浮かべる。
「おはようございます、というにはだいぶ過ぎたな」
俺がそう答えると、彼女は小さく首を傾げた。
彼女の無垢な反応に、なんとも言えない愛しさが込み上げる。
彼女は、いわば俺の創造物だが、まるで本物の人間のように、こうして自分の存在を問いかける姿が、心に響く。
「違いましたか」
淡々とした口調だが、その中に微かに疑問の色が見えた。
彼女の無垢さは、俺の疲れた心を少しだけ和らげてくれる。
「俺にとってはもう、おはようございました、かな」
思わずそう答えてしまう。
このシェルターの中で、時の感覚なんてもうあってないようなものだ。
朝なのか夜なのか、それさえももうわからない。
ただ、俺にとっては、終わりの時間が近いことだけは確かだった。
「では、更新します」
「更新?」
唐突な言葉に少し驚いた。
更新とは、一体何を指しているのだろうか?
彼女は何も説明せず、淡々とした態度を崩さない。
「はい、おはようございました、博士」
その無邪気な返答に、俺は少しだけ笑ってしまった。
いや、そうじゃないんだが……まあいい。
俺が彼女に何かを教える必要はない。
彼女は彼女なりに、この世界の一部を理解しているんだろう。
たとえそれが不完全なものであっても、それで十分だ。
「博士、私は誰ですか」
ふいに彼女が問いかけてきた。
その言葉はどこか哲学的に響いた。
自分が誰であるか――それは人間でも永遠に問い続けるテーマだ。
俺もずっと、自分の存在意義を問い続けてきた。
だが、この場所において、その答えは既に見えていた。
「イヴ……」と答えようとして、一瞬ためらった。
製造番号00000、アダムスと並べられている彼女に、その名を与えることが、どこか物足りなく感じたのだ。
彼らは、ただの実験体ではない。
彼女には、もっと大切な役割があるはずだ。
ラエル――それはヘブライ語で「神」を意味する。
俺が自らに課した役割だ。
しかし、この子にはもっと別の意味で「祈る者」であってほしい。
未来を見据えて、俺とともに歩んでほしいと願った。
「アーメン……いや、違うな」
そう呟く俺の心に、新しい名前が浮かんだ。
「アミン……」
祈りの言葉だ。
この子には、祈りの象徴として、その名を持たせたい。
「ヤミン・ビスミッラー。製造番号00001、おまえの名前だよ」
その名前を告げたとき、彼女の瞳が少しだけ輝いたように見えた。
まるで新しいアイデンティティを手にしたかのように。
彼女は、その意味を完全に理解しているわけではないだろうが、それでもその名が彼女にとって特別なものであることを感じているはずだ。
「わかりました。いい名前です」
短い言葉だが、その一言に俺は救われたような気がした。
彼女は俺の作り出した存在だが、同時に彼女自身の存在でもある。
俺の手を離れても、彼女はこの世界で一つの命として輝くだろう。
「そして。私はこれから何をしますか」
その問いかけは、どこか無垢なものでありながら、深く胸を突いた。
俺自身も、もう何をすべきかよくわからなくなっていた。
このシェルターの中で、何を守り、何を目指せばいいのか。
外の世界は、もうすべてが滅び去った。
俺たちに残されたものは、ただ、この地下での閉ざされた生活だけだ。
「それは俺にもわからないな。とりあえず、この子をずっと見守っていてくれないか?」
そう言って俺は、コールドスリープの中に眠る、もう一人の自分――ラエル・ビスミッラーに目をやった。
彼は俺のクローンであり、未来を託す存在だ。
彼が目覚めたとき、俺はもうこの世にはいないだろう。
「彼が目覚めた時、ひとりぼっちだと寂しいだろう?」
そのとき、彼がこの荒廃した世界で生き延びるために、ヤミンが彼を支えてくれることを願っていた。
「彼を見守るのが私の役割ですか?」
「ああ。それが最優先事項だ。もしも彼が目覚めたら……」
少しだけ、いたずら心が湧いてきた。
ヤミンはいつも真面目すぎるくらいに従順で、だからこそ、少し軽いジョークを混ぜたくなった。
「毎朝、おはようございました、とでも言ってやれ」
「それも私の役割ですか?」
彼女の素直な返答に、俺はまた笑みを漏らした。
まるで、未来のラエルが毎朝、戸惑う姿を想像すると、不思議と微笑ましい光景が浮かんできた。
「ああ。それが最優先中の最優先事項だ」
ヤミンは真剣な顔をして頷いたが、その真剣さが逆におかしかった。
彼女の無垢な表情を見ていると、俺の胸に少しだけ温かさが戻ってくる。
彼女と一緒に、そんな未来を見てみたかった。
――毎朝、「おはようございました」と言い合いながら、俺たちはこの滅びた世界で小さな希望を見つける。
そんな未来があったら、どれだけよかっただろうか。
だが、その未来はもう俺には訪れない。
限界が近いのは、体が一番よく知っている。
「そして、俺が眠るまで、俺の手を握っていてくれ」
「わかりました」
ヤミンが俺の手を取る。
その手は、驚くほどに暖かかった。
俺は目を閉じ、彼女の手の温もりを感じながら、徐々に意識が遠のいていく。
静寂の中で、ただその温もりだけが、俺の最後の拠り所となっていた。
「こうですか?」
悪くない。
「彼が目覚めたら、彼にも同じことをしてやってくれ」
俺は、未来に託すラエルの姿を心に描きながら、言葉を続けた。
俺が作り出した、この世界でたった二人の兄妹。
彼らは、俺たちの滅びた世界を生き抜いてくれる存在だ。
俺が成し得なかったことを、彼らに託すしかない。
「少し疲れた。俺はもう寝る。あとは任……」
俺の声は途切れ、意識は次第に暗闇へと沈んでいった。
この世界に、神の祝福がありますように。