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挿絵(By みてみん)



 私の胸は締め付けられるような感覚に襲われた。


 刑事の言葉が、まるで身体の隅々まで響き渡り、内臓が重く、そして冷たくなっていくのを感じた。


 あの赤ん坊が、見つかっていないというのか?


 他の子供たちは、みな無残な形で見つかっているのに……?


 シェリ・クロシェットノエル。


 彼女の名前が名簿の中で浮かび上がる。


 私の目は、彼女の名前に釘付けになった。


 頭の中で彼女の姿が、今もまだ鮮明に蘇ってくる。


 泣きじゃくる小さな声、母を探すような瞳、そのすべてが私の中に焼き付いている。


「そん……な……」


 その言葉が、自分の口からこぼれ出るとは思わなかった。


 自分でも信じられない。


 何が起こっているのか、この現実が信じられないのだ。


 シェリは赤ん坊だ、彼女が自分でどこかへ行けるはずがない。


 これは何か、もっと大きな力が働いているのか? その思いが私を支配する。


「グスタフさん、大丈夫ですか?」


 刑事が私を心配そうに見て声をかける。


「はい……」


 震える声で返事をするが、胸の奥では激しい動揺が渦巻いている。


 捜査が進むにつれて、私の中の不安がどんどん膨らんでいく。


 このままでは、もっと厄介なことになるだろう。


 だが、それよりも先に――私の携帯が鳴った。


 その音が、まるで私の内なる恐怖を具現化したように思えた。


 刑事たちが私に電話を取るよう促すと、私は手が震えながらも携帯を取り出した。


 そして、画面に映った名前を見た瞬間、心臓が凍りついた。


 ヨーゼフ・ヴァン・シュタイン。


 なぜ、今この男が――?


 冷や汗が頬を伝い、手が震える。


 何を話すべきか分からないまま、携帯を耳に当てた。


 そして、かすれた声で応じる。


「……あの?」


 すると、ヨーゼフのいつもの滑らかな声が電話の向こうから聞こえてきた。


「あー、良かった、グスタフさん、出てくれて、ヨーゼフです」


「その……先ほどは……」


「聞きましたよ、孤児院、大変なことになってしまって」


 彼の言葉は、皮肉のように聞こえる。


 もちろん、ヨーゼフが知らないわけがない。


 だが、彼がこのタイミングで電話をかけてきた理由が、私には分からなかった。


「今、警察が捜査を進めていて――」


 私はそれ以上何も言えなかった。


「そうですか、本当に、胸が張り裂けそうです……シェリちゃんも、仲良くしていたお姉ちゃんと一晩離れただけでぐずっていたのに……」


 その言葉が私の頭の中をかき乱す。


「あの……シェリが……どうしたんですか?」


 私の声は震えていた。


 すると、ヨーゼフは淡々と、こう言った。


「シェリちゃん、昨晩お預かりしていたじゃないですか」


 その瞬間、血の気が引いた。


 何がどうなっている?


 私の頭の中でパズルのピースが急速にばらばらと崩れていく。


 シェリが昨晩預けられていた……だと? そんなはずはない。


 そんなこと、聞いていない!


 私は声を振り絞って言った。


「……な、なんで……」


 ヨーゼフは冷静に続けた。


「堕天使症候群の疑いがあり、精密な検査が必要だったのでお預かりしていたじゃないですか」


 その言葉が、私の理性を打ち砕いた。


 堕天使症候群の話を聞いたのは、ついさっきだ。


 ホテルを出る前に、突然聞かされたばかりだ。


 だから、昨晩シェリを預けたという話など、絶対にあり得ない。


 だが、私の記憶と、彼の話は完全に食い違っている。


 息が詰まりそうだった。


 私は刑事たちを一瞥し、心臓が高鳴るのを感じた。


「……間違いありません」


 私はそう答えた。


 それしかできなかった。


 そうする以外に道はない。


 そしてヨーゼフは静かに言った。


「良かった、シェリちゃんのことは、このままこちらでお預かりしますね」


 電話を切ると、刑事たちが戻ってきた。


 心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じたが、同時に、私は深い不安に囚われていた。


 ヨーゼフの言葉が、私の胸に重くのしかかる。


 全てが計算通りに進んでいるようだったが、その背後に広がる不安は消え去ることがなかった。



 ◆・◆・◆



 私は、この場所、聖域病院と呼ばれる研究施設に立っている。


 いや、実際にはここはただの病院ではない。


 これは私が仕切る究極の研究所だ。


 かつてグスタフくんが経営していた孤児院だったものを、今や私は完全に掌握している。


 この施設には、私がこれまで積み重ねてきた数々の成果と、そして犠牲が詰まっている。


 それはまるで果てしない迷宮のようだ。


 だが、その迷宮の中心には、私の探し求める真理がある――神を創り出すという禁忌の真理。


 グスタフくんも、彼の孤児院も、元々は単なる隠れ蓑に過ぎなかった。


 彼がどれほどの努力をして二重生活を送っていたか、あるいはどれほどの痛みを背負っていたか――それを知っているのは、私だけかもしれない。


 だが、その苦悩は私の研究には何の影響も与えない。


 彼が隠し子を持ち、その子が人質に取られたことで事件に巻き込まれたとき、私は彼を救うことはなかった。


 ただ、巻き添えになった無関係な人々には少しだけ同情したが、それも短い感傷に過ぎなかった。


 結果として、彼の隠し子は死んだ。


 それがこの世界の理だ。


 私なら交渉などしない。


 取引など無意味だからだ。


 シェリ・クロシェットノエル――原初の天使を手に入れたことで、私の研究は飛躍的に進展した。


 彼女の存在こそ、私が求めていた「人造天使」の鍵だった。


 だが、私はまだ満足しない。


 満足することは許されない。


 さらなる高みへ、さらなる真実へと手を伸ばさなければ、私の望むものは手に入らないのだから。


 神凪言人博士。


 彼もまた、私の目指す道の障害となる人物だった。


 彼の思想は人間の理を守ろうとするあまり、私の研究の本質を理解しようとしなかった。


 そう、彼は人間の理の枠に縛られすぎていたのだ。


 それが、彼の終焉を早めた。


 私は手を下していない……少なくとも、そう言っておこう。


 彼の死の後、私は彼の研究と、彼の養子である神凪香織を手に入れた。


 神凪香織は孤児院で虐めを受けていて、顔にひどい火傷を負っていた。


 その火傷の治療を口実にシェリの天使肉を移植し、奇跡的に適合した。


 それは予想外の結果だったが、私にとっては好都合だった。


 こうして、彼女は新たな研究素材としての価値を証明したのだ。


 彼女が成長し、12年後の自分と現在の自分が量子もつれで繋がっている――フォトンベルト・アセンション……。


 現在の自分と、未来の自分が、同時に存在する。


 それが何を意味するのか、私も最初は理解できなかった。


 しかし、目の前にその現象を見せつけられたとき、私は確信した。


 これこそが、私が探し求めていた「特異点」だと。


 神凪香織……いや、神凪眞理亜は、その「特異点」として、完璧な依り代となり得る。


 だが、まだ終わりではない。


 ガブリエル、ラファエル、ウリエルと、3度の失敗。


 流産の繰り返し。


 私の研究は、時折絶望に打ちのめされる。


 それでも、私は諦めない。


 私の手に「神」を創り出す力が宿るのならば、その代償がどれほど大きくとも構わない。


「眞理亜くん、調子はどうだい?」


 彼女は微笑んだ。


「美香は元気よ、お腹の中で蹴ってるわ」


 あの笑顔――母親としての穏やかさ。


 だが、それは私にとってはただのデータに過ぎない。


 彼女のお腹に宿るミカエル、それが私にとって最重要な存在だ。


 マグダラの聖骸布に宿るキリストの血と、そしてウンセプトトリウムを用いて作り出したクローン胚が、神の一端を担う存在となることを、私は強く信じている。


「期待しない方がいい、失敗した時、辛いだろうから」


「大丈夫よ、『観測』したから」


『観測』――未来を体験し目撃した目。


 その力が存在するのならば、すでに未来は決まっているのだろうか。


 だが、私が求める未来は私の手で掴むものだ。


 観測者が語る言葉に振り回されることなく、私は進む。


 仮に私がこの先、どれほどの罪を犯し、どれほどの業火に焼かれようとも、私は構わない。


 この世界に神を創り出すことができたのなら、それこそが私の存在意義だ。



 ◆・◆・◆



『観測』した――その瞬間、ヨーゼフの顔が、まるで獲物を捉えた狩人のように、満足げにほころんだのを、私は目の端で捉えた。


 あの男が求めていたのは、この一言だ。


 それを知っているのに、私はどうしようもなく、その言葉を口にしてしまった。


 まるで、糸に繋がれた人形のように。


 未来を同時に生きる存在、『特異点』


 その言葉が、耳の奥で響く。


 未来、過去、現在――全てが重なり合い、そして『観測』される。


 ヨーゼフが目指すのは、私たちが見ることのできない、ただの「未来」ではなく、あらゆる可能性を生きる存在が体験する「未来」。


 それこそが、彼にとって究極の未来予知なのだ。


 私は目を閉じた。


 あの未来を、あの無限に続く可能性の連なりを、またしても目の当たりにした。


 それが私に何をもたらすのか、私は既に知っている。


 かつて、観測した時と同じ――あの胸の奥に広がる虚無感。


 それは、まるで何もかもが決まってしまっているかのような、冷たく、暗い、止まった時の中に閉じ込められた感覚。


 彼は、望月医師を……ここに呼び寄せるでしょう。


 それもまた、避けられない未来の一部だと理解している。


 望月医師が八神恭介をここに呼び寄せる。


 もう一人のキョウスケ、もう一人の『特異点』、七枷京介――。


 彼らがこの地に集うことで、聖域病院はその暗い運命の一端を辿り始める。


 そして、フォトンベルトの闇が、その運命にさらに影を落とすのだ。


 でも、それでいい。


 私はそう考える。


 いや、そうでなければならないのだ。


 なぜなら、この病院で起こる「悲惨な事件」など、外の世界が迎える「本当の地獄」に比べれば、些細なことに過ぎないのだから。


『観測』する限り、その未来は避けられない。


 外の世界は、フォトンベルトの闇が明ける時、すべての電子機器が誤動作を起こす。


 制御を失った機械たち、その中には、核兵器も含まれる。


 ――そして、それが何を意味するかは、誰にでもわかるだろう。


 終焉だ。


「ああ、そうか……」


 私はふと、自分に呟いた。


 全てが終わり、全てが始まる。


 これは、始まりに過ぎないのだ。


 ヨーゼフはその未来を見据え、計画を進めている。


 彼は、この病院を特異点として、全ての未来を集め、そして制御しようとしているのだろう。


 だが、その制御が成功するかどうかは、誰にもわからない。


『観測』できるのは未来の一片に過ぎず、私が知る未来も、全てではない。


 無限に広がる可能性の中で、何が起こるかは、結局のところ私たちにはわからないのだ。


 それでも――私は進むしかない。


 


 どうかこの世界に、最後まで神の祝福があらん事を。



 ◆・◆・◆



──某国 紛争地域──


「望月さんなら何処の病院も欲しがるでしょうに、どうして、こんな紛争地域の医療支援なんかに?」


「やっぱり、天才っていう人種は自分が世界で何処まで通用するか試したくなるもんなんでしょうか?」


「そんなんじゃないさ」


「だったら、何故?」


「妹が不治の病なんだ、世界に出れば、その治療法も見つかると思ったんだ」\


 俺はこのことを隠さない。


 それどころか積極的に話すようにしている。


 そうすれば、どんな些細な情報でも逃さないからだ。


「なるほどね……いや、でも良かった」


「……何が?」


「天才って何処か異端な感じで、すごい特殊な事を考えているのかなって」


「はは……それは偏見だな」


「はい、でも家族の為にって知って、望月さんの事、すごく身近に感じました」


「大丈夫、きっと見つかりますよ、妹さんの病気の治療法」


「……別にいいんだ、気休めかも知れないって思っている」


「……気休め?」


「世界中を歩き回って探しつつも、見つからないって分かってるんです」


「もちろん権威のある病院には問い合わせたし、今はインターネットで大体のことは分かるからな」


「映画やドラマじゃあるまいし、こんなところまで来ても、見つかるわけないだろう?」


 俺はタープから見える景色に目を移す。


 彼も同じように辺りを見る。


 ここには何もない。


 この国が世界に対して生みだしている物は何もない。


 ただ終わることのない紛争を繰り返し、血が流れるだけの場所だ。


「……例え、治療法が見つからなかったとしても、麻耶に見せてやりたかったんだと思うよ」


「……え?」


「狭い病室に閉じ込めるんじゃなく、この広い、ありのままの世界をね」


「なんかいいですね……」


「……まあ、少々刺激が強いこともあるがな」


「何かあったんですか?」


「威勢のいい男どもが、麻耶に下品な事ばかり吹き込む、全く気苦労が絶えなくてね」


「いいじゃないですか、下ネタ、あいつらのノリ、俺好きですよ」


「よしてくれ、こっちは子連れだぞ?」


「あはは、まあいいじゃないですか、人は無菌室じゃ生きられません。多少の毒も必要ですよ」


「世界の綺麗な面だけじゃなく、汚い面も見せるべきだと思います」


「うちの親父がそんな教育方針でした、何でも経験しろ、世界を知れ、やれホームステイだの、やれ海外支援だの、ね」


「良い親じゃないか」


「ええ……そういえば、その軍人さん……前線に行ったんですよね?」


「ん? ああ、数週間前に」


「なら、たぶん、此処にはもう来ませんよ」


「目にした訳じゃないですけど、テロが激化しているらしいです」


「前線も相当な被害を受けてるみたいで……だから、あまり期待しない方がいいですよ」


 相当な被害ね。


 それは俺も小耳に挟んでいた。


 その時の表現はもっと過激だった。


『デスブロウトゥ』


 つまり、壊滅的な攻撃を受けた、と――。


 彼は俺のメンタルを配慮して、敢えてそう言ったんだろう。


 そこでは、逃げ延びた少女ひとりを除き、辺り一帯には生存者はいなかったそうだ。


 否、人間のカタチを保っていない死体もどれだけあった事か。


 そういえば、他のスタッフがその戦災孤児の少女を保護したと聞いた。


「ああ……」


「我々、医師団も来週には大半が自分たちの国に帰国します」


「そう……か……」


「仕方ないです、戦場ですから、次の派遣先は災害地みたいですよ」


「俺は、戦場よりも、災害地の支援の方がいいな、 助け合ってる感がありますし」


「此処だってみんな助け合っているし、人命救助に戦地も何もないだろう?」


「いや、でも、戦地って言ったら危険ですし」


 その言葉に失笑する。


 戦地は戦地だが、ここはまだ幼い麻耶がフラフラしていても襲われない程度の場所だ。


 長距離からの砲撃も、まずあり得ない。


「此処は戦場と言っても、全然安全だ」


「支援団体や広報新聞部まで死傷者が出るようじゃ大抵基地は全滅じゃないか」


「まあ、それはそうなんですけど……俺は平和なのが一番だと思うけどな……」


「それは、誰もが思っているよ」


「俺達は俺達で、自分にできる事を頑張りましょう」


「そうだな……」




 静かな一日だった。


 怪我人も来ない。


 挙げ句の果てには、部隊の人間が昼寝をしに来たり。


 そんな日があっても、まあいいか。


 ここでの生活は数ヶ月を過ぎ、そろそろこの場所から離れようか悩んでいた。


 俺以外の医師も到着しており、俺がいなくてもなんとかなりそうだった。


「望月さん、此処にいたんですか? 探しましたよ」


「リーダーが探していました、何でも望月さん宛てに客人だとか」


「客? 客が来ているって……ここに?」


 誰だろう?


 というか手当をした部隊の人間以外に、この国に知り合いなんていないはずだが――。


「ジョゼフだかヨーゼフだか……ドイツの方らしいです……お知り合いですか?」



 ◆・◆・◆



「血液型の種類には40種類以上の分類があってね。その中でも君たち日本人にはABO血液型がなじみ深いだろう」


 血液型の話をしながら、思考は遠い昔の研究室へと戻っていく。


 あの頃は、希望という名の狂気に取り憑かれたように、必死で真実を追い求めていた。


 だが、今ではその真実が何だったのかさえ、俺自身もうまく掴みきれない。


「だが、彼らの血液はその理から逸脱した」


 俺は古いニュース紙を広げて、彼に見せた。


「この日、世界は強力な太陽フレアに晒された。影響を受けたのは、電子機器だけではなかった。生まれた新生児たちは、そのDNAに致命的な損傷を受けたんだ」


 壊れたDNA、太陽フレアによる致命的な損傷――すべては事実だ。


 しかし、言葉で語れる範囲の現実など、どれほど無力なものだろうか。


 俺たちは神の領域に踏み込んでしまったのだから。


「堕天使症候群を患っている患者は……この日に生まれた新生児たち……?」


 ショウゴが妹のために尋ねる度に、俺は彼に何を伝えればいいのか迷っていた。


「君の妹さんが長年苦しんでいる堕天使症候群とは、遺伝子の障害なんだよ」


「そして、壊れたDNAは元には戻らない」


 ショウゴは言葉を失っていた。


「それこそ、天使の血でも分けて貰わない限り」


 俺の口から出る言葉は、まるで自分自身に対する諦めのように聞こえた。


 天使の血、それはファンタジーに過ぎないという声が聞こえてくる。


 しかし、それでも俺は、ショウゴに向かって「リアリティな話だよ」と静かに言い放つ。


 なぜなら、それが俺たちが作り出した「現実」だからだ。


 そして、ミカエル――小さな彼女が廊下を駆け抜ける。


「廊下は走るな。危ないぞ」


 彼女の無邪気な姿が、俺の心に一瞬の安らぎを与えた。


 だがその背後には、重い現実が横たわっている。


「ホスピスというより、まるで小児科だ」


「違いない」


「そういえば、堕天使症候群を患っている患者は、10年前のあの日に生まれた新生児たちという話でしたね」


「そうだね」


「ということは患者は皆、10歳のはずです。今の子は明らかに幼すぎましたが……」


「彼女はまあ、患者じゃないからな」


「どういうことですか?」


「さあな、なんでもない」


 ミカエルは患者たちの治療にあたる血清を採取するためのクローン……我々の造った人造天使だよ。


 そう、ファンタジーでもフィクションでもない。


 彼女は患者ではない、いや、患者以上の存在――我々が作り出した「人造天使」だ。


 天使の血清を採取するためだけに存在する彼女の運命は、どこまでも冷酷で、悲劇的だ。


 歩みを止め、院長室の扉を見つめる。


 木目が刻まれた古びたドアは、まるでこの施設全体の象徴のように感じた。


 何年もの間、この扉を開け閉めし、ここを訪れる人々の心の重みを背負ってきたのだろう。


 俺もその一人だ。


 あの日、研究者としての誇りを胸に、この扉を開けた瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。


 だが今、この場所は希望の象徴ではなく、終焉の待合室のように思えてならない。


「ここが俺たちの研究所の所長……いや、表向きは堕天使症候群のホスピスの院長の部屋か」


 言葉を吐き出すように紡ぎながらも、どこか虚しさが残る。


 ショウゴの表情を盗み見れば、その目には疑念と重苦しい現実が映り込んでいる。


 彼の妹の運命が、この場所で定められるかもしれない。


俺は何度もその瞬間を目撃してきたが、決して慣れることはなかった。


命の灯火が弱まり、やがて消える様を見守る――それがこの研究所に課された現実だ。


「失礼します。彼を連れてきました」


 俺は静かにドアをノックし、手が汗ばむのを感じた。


 俺の心もまた、この場所で何度も救えない命に向き合った記憶がよぎり、重く沈む。


 ドアの向こうから聞こえる院長の声は、いつもと変わらず淡々としているが、俺にはその声が距離を置いた無機質な響きにしか感じられない。


「ご苦労、アガンテアくん、さて、初めまして、私が聖域病院の院長のグスタフ・ピスクノーフだ」


 ピスクノーフの冷静な声が部屋に響くが、俺は彼の言葉を聞きながらも、心の奥底で一つの問いを抱えていた。


 俺たちのこの研究は、本当に正しい道を歩んでいるのだろうか?


 天使の名を冠する人工の存在――その存在自体が命を救うための希望なのか、それともただの延命の幻想に過ぎないのか。


 手を軽く握りしめながら、俺はショウゴの横顔を見た。


 彼が背負う苦しみを思うと、俺自身の罪深さが増すようだった。


「浮かない顔ですね、どうしましたか?」


 ヨーゼフの言葉が静かに響く中、俺は微かに胸の奥がざわつくのを感じた。


 神への冒涜――それは言葉にしなくとも、心の中で幾度となく繰り返されてきた疑念だ。


 この研究が進むたび、俺たちは何か取り返しのつかないことをしているのではないか、と。


「俺たちがしていることって、神への冒涜なのではないかなってね」


 この言葉を口にした瞬間、俺は無意識に自分の拳を軽く握りしめていた。


 心のどこかで、ヨーゼフがこの問いに答えてくれることを期待していたのかもしれない。


 だが、彼の返答は、俺が望んでいたものではなかった。


「アガンテアくんは割と信仰深いのですね」と、彼は軽い調子で言う。


 その響きは表面的な慰めのようで、俺の胸に刺さるような鋭さはない。


「たしかに、我々の研究をよくは思わない人々もいるでしょう、でも、大丈夫」と、彼は続けた。


 大丈夫。


 その言葉がまるで免罪符のように響くのを感じた。


 俺の心の中で広がる不安や疑念は、そんな簡単な言葉では片付けられない。


 それでも、ヨーゼフは自信に満ちた態度で言い切った。


「人類の歴史において、神を巡って数えきれない人々が血を流してきました。完全なる形で神がこの地に姿を現したのなら、そんな争いは起きない。いや、起こさせません」


 その言葉の確信に満ちた響きに、俺は逆に寒気を覚えた。


 神の姿が現れたとき、果たして本当に争いは終わるのか?


 人間は、神の前で謙虚に生きる存在だろうか?


 それとも、より大きな力を得るためにさらなる争いに突き進むのだろうか。


 ヨーゼフは信じているのだ、このプロジェクトが人類に新たな未来をもたらすと。


 そして、彼のその確信に満ちた目を見たとき、俺は一瞬、言葉を失った。


 彼が持つ信念の強さに、俺自身の弱さを見せつけられたように感じたからだ。


 だが、俺の心はまだ揺れている。


 この研究が人類の未来を救うものなのか、それとも新たな絶望を生み出すのか。


 答えはまだ、俺には見えてこない。



 ◆・◆・◆



「結局、あんた達はカルロを被験者として囲っときたいだけだろう?」


「被験者だなんて好ましくない言い方だな。彼等は患者だ、大切な……救うべき被害者だ」


「そもそも堕天使症候群? 未知のウイルス? オカルト映画の見過ぎだ」


「未だ解明されていない病気、未知の病気はいくらでもある」


「それらを否定することは不可能です」


「仮に堕天使症候群などというものがあったとしよう。だが、何故、アメリカではなく、聖域病院なんだ?」


 何故? それは地下施設が大規模な研究所でもあり……。


「地理的にも環境的にも、最も適しているからです」


 2000年もの間、シチリア沖の海底で眠っていた踊るサテュロス。


 その深海のさらに下の地層で、超重元素ウンセプトトリウムが発掘できるからだよ。


 この堕天使症候群の治療において、マグダラの聖骸布に付着したキリストの血痕から解析したヒトゲノムと、賢者の石ウンセプトトリウムの存在は必要不可欠なんだ。


「風土病だとでも?」


「エンデミックなどではありません、その規模は全世界に達します」


 あの日、太陽フレア環境下で生まれた世界中の新生児は、このDNAの損傷を受けた。


 4重螺旋DNAに伴う血液の疾患。それが堕天使症候群の正体。


「未知のウイルスで感染症、それもパンデミック……馬鹿馬鹿しくて話にならんな。なら何故、WHOは警戒体制を引き上げない?」


 それは、どこにでもいるウイルスだからだ。


 俺たち正常な2重螺旋DNAの人類には感染しないから。


「世界的に認知されていない。故に未知のウイルスなんです」


「話にならんな、未知のウイルス感染症など診断できん。そもそも、それがウィルスによって発生した事象だと判断する術がない。仮に血液から『未知のウィルス』らしきものが見つかったところで、そのウィルスが症状を作り出している事を証明する事はできん」


「……」


「病理解剖の結果は? それに本当に未知の感染症なら、先ず取るべき対策は隔離だ」


 隔離の必要はないんだよ。


 今日時点で12年前の今日生まれたこどもしか感染しないんだから。


「都合が悪くなればダンマリか、やっぱり未知のウイルスなんてものが……」


「あります、確証が得られないものを、ないものとして排除するのは、医者として危険な判断です。未知というのは発見されるまで知らなかったというだけで、存在していなかった訳ではありません」


「そして、特定したと? どこの医療機関でも発見されなかった未知のウイルスを? 医者より小説家になった方がいいだろう」


「事実は小説よりも奇なり、と言うでしょう。フェリクス先生は、世界をどれだけ知っているんですか。アメリカだけが医療の先進国だという考えはとても古い考えです。今や、先進国19ヶ国中、1位はフランス、2位は日本。アメリカは最下位までに落ち込んでいる。他の国はアメリカよりも遥かに少ない資金しか投資していないにも関わらず、救えるべき患者の死亡率が急激に低下している。時代は変わりつつあるんですよ、医療には、国境も人種も関係ない。ましてや医療の本質は、そんな狭い視野では──」


「今はその未知のウイルスについての見解を話している。話が脱線してきているぞ。日本人という人種は、よほど精神論が好きらしい」


「では訊きますが……フェリクス先生、貴方はどのような見解を?」


「本当に未知の感染症なら、感染症対応マニュアルに則って、隔離と観察が常識だ。だが、どこの国の病院でもカルロはウイルス性の疾患とは診断されていない。他の患者と普通に交流していたが、院内感染をした形跡もこれまで一切ない。あれは……適応障害からくる心身症の一種だ」


「なるほど、確かフェリクス先生は臨床心理も学んでいらしましたね」


「安易な考えだと言いたいのか?」


「いえ……精神的、心理的なものを起因とした症状というのも一理あります。患者の多くは、家庭など何らかの心理的ストレスを感じやすい環境にいたと言えるでしょう。しかし、この病気には、精神的な疾患だけでは説明できない点がいくつもある。様々な要因が関係するのであれば、いずれの可能性も否定はできません」


「勿論、そうだと決め付け何も講じていなかったわけじゃない」


「俺だって同じですよ、麻耶を……妹を治してやりたいですから。俺達を信じてください、患者達も、職員も、皆貴方達と同じ境遇に生きている。そこから脱したいと乞い願っている、誰の為でもない、自分の為、大切な家族の為に」


「安い勧誘だな」


「ええ、飾りようのない真実なんで」


 それは、フェリクス医師、あなただって同じはずだ。


「そんな勝算のない賭けを提示して、あちこちから患者を集めてるのか?」


「ええ、まあ……」


 あなただって背に腹は代えられないでしょう?


「営業マンとしては失格だな」


「それなりに実績を残してるんで、そろそろ答えを聞いてもいいですか?」


「……医者としての腕を掛けるなら、こちらも考えよう」


「俺はここに散歩のついでに来たわけじゃありません、医者としての提案です」


 医者としての腕なら貴方の知っている通り、俺はそのすべてを賭けている。


「…………」


 長い沈黙。


 反論がもうないようだ。


 この沈黙は肯定と取っていいのか?


「……ありがとうございます、では早速、受け入れの手配ですが──」


「決めるのはカルロだ」



 その彼の弟のカルロは、俺の申し出を受け入れた。


 俺たちは同じ志の元、同じ病の克服を目指し。


 そして、あの日。組織に裏切られ、俺たちは皆殺しにされた。



 ◆・◆・◆



「そうだよシェリ、夜更かししたらお化けに食べられちゃうんだから」


「いやー」


「麻耶……あまり脅かさないでよ」


「ってかさ、ここじゃお化けっつーより天使様っしょ?」


「ん? 天使って神様の使いだろ? 悪い事すると天罰が下るってか?」


「うんにゃ、それだけじゃすまないぜー。もっと残酷で、そりゃ惨たらしく殺されるってえ話だ」


「天使様伝説だね」


「なんだそれ、ギリシャ神話とか……そんな感じか?」


「う~ん、ちょっと違うかな。なんて言うのかな……」


「怪談や都市伝説みたいなものだよ。よくある噂だね」


「それってたしか、ホントにあった話っしょ?」


「え? ……ああ、うん」


「昔、ここが建て直される前に本当に起こった話……らしいしね」


「へえ~、そうなのか、スターシャ?」


「なんで私に聞くのよ」


「あ、いや……院長の娘なら、その辺、詳しいかな……と……」


「なによそれ…………、興味無いわ」


「この話、カルロも知ってるのか?」


「『悪い子が天使様の裁きを受ける』程度の知識だがな」


「わたしね、感じた事あるよ」


「え? 何の?」


「──天使様」


「鐘って教会の鐘か?」


「具体的に何か、とは聞いたこと無いかな……?」


「悲鳴だったりして」


「ここって建て直されたんだろ?」


「うん、4年前に。確か以前は教会……孤児院だっけ?」


「孤児院だよ」


「今も残ってる礼拝堂から教会も兼ねていたらしいね」


「何かを祀られた聖域だったんだろ? それが天使様か?」


「どうだろうね……」


「何かの芸術品の発掘とかから信仰に繋がったのかもしれないな。『踊るサテュロス像』を聞いた事ないかい?」


「サキュバス……? ……っていうとあの吸血鬼の?」


「……サテュロス。葡萄酒と享楽の神デュオニソスの従者である森の精の事よ。それにサキュバスは吸血鬼じゃないわ。彼女が吸うのは『精気』」


「それでそのサテュロスの像がどう関係するんだ?」


「なんでも1998年にパンテレリーア島と南シチリアのボン岬の間の水深480mの海底で底引網にかかったんだってさ」


「そのブロンズ像、ノイシュは見た事あるのか?」


「ううん、実物は見た事ないよ。僕達がまだ生まれていない頃の話だしね」


「相当年代物っぽいな。やっぱり結構ボロボロだったりしたのか?」


「うん。引き上げられた時は両手と右足、尻尾が欠損していて、古錆が大量に付着していたんだって」


「修復はされたけど、欠損部分はそのままだそうだよ」


「錆って血っぽいよなー」


「お、て事は天使様ってのは失くした手足を捜すその像だったりして? 名探偵現る!」


「あー、はいはい」


「そもそも……孤児院だっけ? ここで起こった事件てどんな内容なんだ?」


「あ、うん……殺人事件、だよ」


「その孤児院の職員、児童が1名を除き、一晩で遺体となって発見されたって話」


「奇妙な事に、遺体からは全ての血液、臓器が摘出されてて、犯人と見られる職員も自らの首にナイフを突き刺し自殺したらしいよ」


「うわ……なんだそれ、尋常じゃないぞ。黒魔術でもしようってのか?」


「自殺した職員の遺体は殺害された他の遺体と共に見つかったらしい」


「ん? ……逃亡先でじゃなく犯行現場で自殺したって事か?」


「そう、でもね……無かったんだよ、摘出された筈の臓器がどこにもね」


「それって……いや、でも自殺する前にどこかに隠したとか、共犯がいたとか、無くなる理由はいくらでもあるだろ?」


「その事に関しては、宇宙人によるキャトルミューティレーションだとか色々な憶測が飛び交ったらしいよ」


「……勿論、天使様の天罰だって噂も」


「いや、流石にそれはないだろ」


「まあ宇宙人って方が天使様の天罰よりかは物理的に説得力あるけどな」


「恭介君は信じてないの? 天使様」


「え?」


「んーほら、天使って心理的だろ? 信じる者は救われる、とか」


「悪い事をすれば天罰が下る、ってさ。人を殺すにはそこに存在しなきゃなんないしさ──」


「──いるよ、天使様」


「居たんだよ、そこに天使様が」


「……居たって、何所に?」


「だから殺人現場にだよ」


「え~~~と、つまり、自殺した犯人の共犯者って事か?」


「違うよ」


「生存者の事かい?」


「全員殺されたんじゃなかったのか?」


「一人だけ生き残った児童がいたんだよ。あ、違う……一人だけ生き残った児童がいるはずだった。……て言うべきかな」


「恭介~、ちゃんと聞いとけ。言っただろ、『1名を除き』って。その中に自殺した職員は含まれてない。自殺して亡くなってるんだから、1名、生きてなきゃおかしいっしょ?」


「なるほど、じゃあその児童が共犯者って事か」


「だから違うよ」


「貴方もいちいち言葉を挟まないで最後まで聞いたら?」


「でもさ、生存者がいたんなら、そいつを怪しむのは自然だろ?」


「そうかもね。でもきっと無理だよ、その子には」


「…………、どうしてそう言い切れる? ノイシュも天使様派なのか?」


「言い切ってる訳じゃないけど、だって子供にそんな事できるかい?」


「いや、そりゃ常識で考えれば考えたくも無い事だけどさ、全くありえないって事は──」


「その子、2~3歳くらいの子だったんだよ」


「その子が1人で何人分もの臓器を運ぶのも無理だろうね」


「でもだからと言って天使様って推理もな~、その子の証言とか無いのか?」


「証言は取れなかったんだよ」


「ん~、確かに2歳の子から証言を取ろうってのも難しい話だし、信憑性も低いだろうな。でも共犯者の存在くらい覚えてても……」


「あのね──」


「あ~、待て待て、まだ違うって言うな……見つかってないのか? その子の遺体だけ。だから生存者って表現をした……違うか?」


「そう、現場の孤児院周辺も隈なく捜索されたようだけど、結局発見には至らなかったそうだよ」


「だから、天使様なんだよ」


「職員と児童を殺害し、その子をさらった犯人がって事か?」


「違うよ。その子が天使様なんだよ」


「あ~、まあ、天使様と仮定すると色々しっくり来る点もあるよな」


「その場合、天使様ってのは実体を持って降臨するのか?」


「それとも人を依代に……つまり取り憑くのか?」


「それは……分からないけど」


「ああ、だからそのサテュロス像が手足を捜してって事になるのか」


「う~ん、そうだね。でも発見された海底はここから結構離れているし……」


「どーかな~、バラバラ殺人ってのは殺害現場から離してバラ撒かれるもんだろ?」


「きっとさ、夜な夜な血塗れのサテュロス像が徘徊して――」


「その事件がいつ起こったのか分かる?」


「ん? 4年前……だろ?」


「そうじゃないよ、何月何日かって事」


「いや……さあ」


「12月24日の晩から25日の明け方、だそうだよ」


「……へえ……もうすぐだな」


「だから、良い子にしてないとね。天使様の天罰が、下らないように」


「お……おう」



 ◆・◆・◆



 そして、この年の12月25日。フォトンベルトの影響下で、世界中の電子機器が機能を停止した。


 それは、三日三晩続き、世界はとても長い夜を迎えた。


 聖域病院のセキュリティは、機能を停止し、人造天使の研究成果を欲しがる賊の仕業なのだろうか、職員と患者たちは皆殺しにされた。


 だが、そんな事は、本当の地獄の前では、とても些細な事だった。


 世界中の電子機器の機能を止めたフォトンベルトの闇が明けると。


 今度は世界中の電子機器が誤動作をした。


 世界中の核兵器も誤動作した。





 本当の地獄の始まりと、世界の終わりだ。



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