製造番号 49267 ~ 3日目
いつものように、淡々と迎えたその朝は、どこかひどく重たく感じられた。
何が違うのか、明確には分からないが、心の中に微妙な違和感がじわじわと広がっていく。
施設のどこかから聞こえてくる機械の低い唸り音も、いつもより少し音量が上がっているように感じられたし、空気が冷たく張り詰めているようだった。
目を覚ますと、目の前に彼女がいた。
ヤミンだ。
長い金髪が自然に垂れ、いつものように整った顔立ちでこちらを見つめている。
だが、その眼差しには、いつもと違う静かな決意が宿っていた。
朝の穏やかな空気とは対照的に、彼女の言葉が、まるで刃物のように心に刺さった。
「おはようございました、博士……」
彼女の声は、どこか遠く感じられた。
時間がゆっくりと流れ、言葉が空間を滑り抜けて、俺の耳に届くまでに何秒もかかっているようだった。
「博士、大事な話があります。」
その瞬間、何か胸の奥で引っかかるものがあった。
何か聞いてはいけないことを、これから聞かされるのだという予感が、体中を駆け巡った。
俺は無意識に息を止めた。
彼女の口から発せられる次の言葉を恐れている自分がいた。
「……大事な話?」
俺の声は、まるで自分ではない誰かが発しているかのように、どこか冷たい響きがあった。
自分の意識が少しだけ後ろに引き、全体が夢の中のようにぼんやりとしている。
しかし、現実はそこにあり、彼女は俺を見つめていた。
「ええ、そうです、博士。」
彼女の声は相変わらず穏やかで、優しかった。
しかし、その裏には何かが隠れているのを感じ取れた。
彼女は続けた。
「博士、私は……今日、終わります。」
その瞬間、頭が真っ白になった。
何を言っているのか、理解するのに時間がかかった。
終わる? 何が終わるというんだ?
思考が錯綜し、焦点が合わなくなっていく。
彼女の言葉が繰り返し頭の中でこだまするが、意味が掴めない。
「終わる、だって……?」
ようやく声を絞り出したが、その言葉には全く力がなかった。
ただ、驚きと戸惑いが滲み出ていた。
ヤミンが終わる?
終わりなど、彼女にはないはずだ。
彼女は永遠にこの施設で俺と共に過ごし続けるはずではなかったのか?
「私の寿命です、博士。」
静かに、けれど確かに、彼女はそう言った。
その声は、まるで機械のように正確で冷静だったが、その中に微かな悲しみが含まれているようにも感じられた。
心臓が一瞬止まったような気がした。
寿命? そんな馬鹿な。
彼女は人工的に作られた存在であり、寿命など存在しないはずだ。
彼女はいつまでもこの施設で俺と――
「今日は、私の最後の日です。」
俺は言葉を失った。
何もかもが止まったように感じた。
時間も、空気も、そして自分自身も、すべてが止まってしまったかのようだった。
彼女が言っていることが、ようやく理解できたのは、しばらく経ってからだった。
ヤミンは、今日で終わるのだ。
彼女の短い命が、今日で尽きるのだ。
「そんな……ヤミン、お前は……」
震える声で言葉を紡ごうとしたが、うまく言葉にならなかった。
何も言えない。
言葉が、ただ空中で霧散してしまうように感じられた。
「そうです、博士。」
彼女は優しく微笑んでいた。
まるでそれが当然のことのように受け入れている彼女の姿が、俺には痛々しくてたまらなかった。
どうして、こんなに冷静でいられるのだ?
どうして、自分の終わりを前にして、彼女はそんなに穏やかでいられるのだ?
「これが何度目かは、博士にはわからないでしょう。」
彼女は静かに続けた。
「博士は、いつも忘れてしまいますから。」
その言葉に、俺は再び胸を突かれた。
忘れる? 俺が何を? 何を忘れてしまったというのだ?
ヤミンが何度も死んでいる? そんなこと、覚えているはずがない。
彼女は言っていることが、まるで夢の中の話のようで、現実感が全くなかった。
「毎回、私はこうして、3日目に終わります。そして、また新しい私が生まれて、博士と出会うのです」
彼女は淡々と語り続けた。
俺の頭の中は、混乱と恐怖でぐちゃぐちゃになっていた。
そんなことが繰り返されていたというのか?
俺はそれを……毎回忘れているというのか?
「でも、今日は違います。今日は、博士にお願いがあります。」
その言葉に俺は一瞬だけ息を呑んだ。
ヤミンが何をお願いするというのか、予想もつかなかった。
これまでに彼女が何かを求めたことなんて一度もなかったからだ。
俺は彼女の目を見つめた。
その瞳には、ただのプログラムや機械的なものとは異なる、確かな感情が宿っていた。
そこには、まるで生きている人間が感じるような、切実な願いがあった。
「私が終わったら、どうか私を空に……連れて行ってください。」
空に――その言葉が俺の中で反響した。
空だって? 空に彼女を連れて行く?
一瞬、その意味が理解できなかった。
「その昔、地球にはチベット族という民族がいたそうです。チベット族の葬制の中には鳥に死体を食べさせる天葬と呼ばれるものがあったそうです」
「天葬?」
「はい。天に還る葬儀です。鳥葬とも呼ばれていました。人々は不要になった自分の身体が鳥に食べられることを願っていました」
「なんでそんな……」
「私たちは天からたくさんの恵みを授かって育まれて来ました。その身体で身体で天にお布施するのは当たり前の事ではないのですか」
天。
つまり、神から授かった恵みの返還。
そんなこと、考えもしなかった。
「天葬とはお布施です。私たちは日常の生活のなかでは、貧しい人にお金や食べ物を布施することと同じです」
彼女が何を望んでいるのか、ようやく理解した時、胸の奥で何かが砕ける音がした。
彼女は、鳥たちに運ばれ、空の彼方へと旅立つことを望んでいるのだ。
俺はその静かな決意に、思わず何も言えなくなった。
◆・◆・◆
俺たちは研究所の上層へと向かった。
エレベーターが音もなく上がっていく中で、俺は何度も彼女の顔を見たが、彼女はただ微笑んでいた。
無理にでも彼女の願いを否定して引き止めたい気持ちが湧いてくるが、彼女の穏やかな表情を見ていると、言葉が出てこない。
どうしようもなく、無力さに打ちひしがれていた。
扉が開いた瞬間、広がるのは屋上の広い空だった。
青く澄み切った空が一面に広がり、風が心地よく頬を撫でていく。
鳥たちが自由に飛び交い、まるで彼女を迎えるかのように空を舞っていた。
「鳥たちに私を運んでもらいます。世界中を旅することができます」
ヤミンは風を感じるように目を閉じ、微笑みながらそう言った。
その姿があまりにも神聖で、そしてあまりにも悲しかった。
「本当にそれで……いいのか?」
俺はかすれた声で問いかけたが、彼女は静かにうなずいた。
その頷きが、あまりにも力強く、俺の反論を許さないものだった。
「はい。これが私の望みです。博士も、そういう自由を感じてほしいです。」
彼女はそう言いながら、空を見上げた。
彼女が言う「自由」という言葉が、胸に響いた。俺が感じたことのない自由――それを彼女はずっと渇望していたのだろうか。
俺たちはその後、しばらく無言で屋上に立っていた。
言葉は必要ないように感じた。
ただ、風の音と鳥たちの羽ばたきの音が、俺たちを取り巻いていた。
その静かな空気の中で、俺はただ彼女の隣に立ち、彼女が去ろうとしている現実を受け入れるしかなかった。
「博士、ありがとうございました。釣りも、料理も、とても楽しかったです。」
彼女が最後に口にした言葉は、あまりにも普通の言葉だった。
その普通さが、逆に俺の胸を締め付けた。
釣りをして、魚を捕まえて、彼女がシーフードカレーを作ってくれた。
あの日の平和な瞬間が、今この場であまりにも遠い記憶のように感じられる。
「俺の方こそ……ありがとうな、ヤミン。お前のおかげで、少しの間でも平和を感じられた」
本当にそうだ。
俺は彼女のおかげで、この短い間に生きていることを実感した。
日々の些細な瞬間が、彼女と共に過ごすことで特別なものに変わっていた。
「博士のこの先の未来に、祝福がありますように」
彼女はそう言って、静かに屋上の中央に横たわった。
風が彼女の金色の髪を優しく揺らし、白い肌に日差しが柔らかく降り注いでいた。
彼女は目を閉じ、安らかな表情を浮かべていた。
そして、鳥たちが一羽、また一羽と、彼女の周りに降り立ってきた。
最初は静かだったが、徐々にその数が増え、彼女の体に集まり始めた。
彼女の肉体が、ゆっくりとついばまれ、空へと運ばれていく様子を、俺はただ立ち尽くして見ていた。
最初の一羽が彼女の肉をついばむのを見た瞬間、俺の心は耐えられなくなった。
「……!」
堪えきれず、俺はその場を離れた。
背を向け、乱暴に屋上の扉を開けて、そこから逃げ出すようにして駆け出した。
扉の向こう側で何が起きているのか、想像したくもなかった。
扉を閉めた瞬間、すべてが現実のものではないかのように感じた。
俺は背中を扉に預け、荒れた息を整えようとしたが、胸の中に渦巻く感情はどうしようもなく膨れ上がっていた。
鳥たちの羽音が遠くから微かに聞こえる中で、俺の中にあるのは、ただ彼女との思い出だけだった。
釣りをした日、彼女が無邪気に笑いながらシーフードカレーを作ってくれたこと。
その笑顔や、彼女が放った言葉の一つ一つが、今となってはあまりにも鮮やかに蘇ってくる。
彼女は、確かに生きていた。
俺の隣で、確かに存在していたのだ。
「ヤミン……」
俺は拳を握り締め、目を閉じたまま、とうとう堪えきれずに涙を流した。
温かい涙が頬を伝い、声を上げることさえできないほどの感情が押し寄せる。
彼女はもういない。
もう、俺の隣で微笑んでくれることはない。
「ありがとう……ヤミン……」
鳥たちは今頃、彼女を空高く運び、世界中を旅しているのだろう。
その姿を見る勇気は、俺にはなかった。
ただ、俺は扉越しに立ち尽くし、彼女との別れを静かに受け入れるしかなかった。
◆・◆・◆
ヤミンの亡骸が鳥たちに食べ尽くされて、彼女の形はもはやこの世界に残っていない。
目の前に広がるのは青空だけで、鳥たちの影すら遠くに消えてしまった。
彼女を覆っていた肉体は羽ばたく鳥の翼に乗り、空へと散っていったのだろう。
けれど、俺の心の中には、彼女の存在がまだはっきりと残っている。
あたかもその形が風に溶け込んだかのように、彼女の面影が消えることはない。
俺は、いつまでもここに佇んでいる。
屋上に立ったまま、彼女の気配を感じ取ろうとするように。
風が頬を撫でるたび、彼女の温もりが蘇る。
ほんのわずかな風の流れ、鳥たちの羽音すら、彼女の息遣いのように感じる。
あの日、彼女は無邪気に笑いながら、釣り糸を垂らし、俺に手を振っていた。
あの金色の髪が太陽に反射して、輝いていたことを覚えている。
シーフードカレーを作ってくれた時の誇らしげな表情も、もう戻ってこないけれど、俺の記憶の中では、彼女はそのまま生き続けている。
時間は止まり、彼女の笑顔が永久にそこに閉じ込められているかのようだ。
彼女が今、どこで何をしているのか、答えはもう得られない。
けれど、俺は想像することができる。
鳥たちと共に彼女は世界を飛び回っているのだろう。
自由に、軽やかに風に乗って、広い空を漂っている。
彼女は、俺が知ることのない場所を巡り、世界の秘密をその目で見つめているに違いない。
空高く、鳥たちの歌声と共に彼女もまた歌っているだろう。
どこかの海辺で、彼女は潮風に触れ、波音に耳を傾け、時には雲間から差し込む陽光を浴びながら、静かに微笑んでいるに違いない。
俺は目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、彼女の無邪気な姿だ。
たった3日間、ほんの短い時間だったけれど、その時間は永遠にも感じられた。
彼女が俺の傍にいた瞬間、何もかもが光り輝き、疑う余地のない幸せだった。
彼女が見せてくれたあの笑顔、あの声、それらすべてが今も俺の胸の中で生き続けている。
彼女が去ってしまった今、それでも彼女は、俺の中で死ぬことなく、いつまでも存在しているのだ。
「ヤミン……お前は今、どこを飛んでいるんだ?」
俺は思わず、静かな声で呟いた。
空に向かって、風にその言葉を乗せた。
もちろん、彼女が答えることはもうない。
彼女はもうこの世界にはいない。
けれど、その声は風に乗ってどこかへ届くかもしれない。
もしかしたら、どこか遠い空の下で、彼女は俺の声を聞いているのかもしれない。
そして、彼女は微笑んで、俺に答えてくれるだろう。
「博士、大丈夫です。私は自由です」
そんな言葉を、彼女は優しく口にしてくれる気がした。
屋上には、彼女の骨だけが残されている。
鳥たちが食べ尽くした後の、その痕跡だけが。
けれど、それすらも、いつか風と共に消えていくだろう。
彼女の体は空に溶け、風に還り、世界中を漂いながら、鳥たちの翼に乗って飛び去ったのだ。
それでも、彼女がどこかにいるのなら、俺はそれでいい。
俺は彼女を見送ることができたのだから。
彼女が望んだ最後の願い、それを俺は叶えることができた。
それだけが、今の俺にとっての唯一の救いだ。
あの短い日々の中で、俺は何度も彼女に救われた。
彼女の笑い声が、俺の心の中で荒れ果てた場所を癒やしてくれた。
彼女の何気ない一言が、俺の孤独を消し去り、温かい光を灯してくれた。
俺は彼女をただの人工生命体だと思っていた。
何も知らない、無垢で、ただ生きるだけの存在だと。
けれど、いつの間にか彼女は俺にとってかけがえのない存在になっていた。
彼女の存在は、俺が望んでいた以上の何かだった。
それは単なる道具でも、実験の結果でもない。
彼女は、俺にとって……何よりも大切な存在だったのだ。
「ありがとう……ヤミン……」
その言葉が口をついて出た。
それ以外には、もう何も言えなかった。
感謝の気持ちが胸に満ち溢れ、それがどうしようもなく苦しくて、胸の奥がじんわりと痛んだ。
彼女がいなくなってしまったこと、その事実がようやく、現実として俺の心に突き刺さった。
それは痛烈で、避けようもない現実だった。
けれど、受け入れるしかない。
俺は目を開け、もう一度空を見上げた。
鳥たちはもう見えない。
空はただ広がり、どこまでも続いている。
けれど、俺は信じたい。
彼女の魂がその空のどこかで舞い続けていると。
彼女が、どこか遠くで自由に飛び回り、風になって、光と共に輝き続けていると。
ヤミン、お前は自由だ。
誰もお前を縛ることはできない。
お前は世界を旅し、風になり、俺の心の中でずっと生き続ける。
お前の存在は、俺の中で永遠に輝き続ける。
「またな、ヤミン……またいつか、どこかで……」
その言葉は、もう届くことはないかもしれない。
けれど、俺はそれでも呟かずにはいられなかった。
俺の呟きは風に乗り、空の彼方へと消えていった。
◆・◆・◆
『 BYA GTOR 』
Cold winds fade, the sky turns bright,
Snow dissolves, lost in the light.
Seasons change, yet here again,
Time returns with spring’s refrain.
Breezes whisper memories near,
Four full cycles brought me here.
Familiar streets, yet somehow new,
Petals paint the world in hue.
Like a dress...
Winds I saw that day collide,
Blossoms rushed and took their flight,
Wrapping me in fleeting white.
In a breath, the world is blurred,
Flower storms erase my words,
Reaching high into the sky,
Saying, "Once again..."
It was just a day like this,
When we met, our fates entwined.
One whole year has passed us by,
Now apart, yet on my mind.
Before these flowers fade away,
By the place where vows remain,
Let the winds now take my wish,
Let it find its way to you.
Like a dress...
Painted winds erase the pain,
Wrapping colors in embrace,
Soft yet easy to erase.
Like a wind...
Blank canvas in shades so bright,
Brushstrokes dancing in the light.
A tiny spark ignites the air,
Drifting high to find you there.
Like a sunrise...
Bringing warmth in golden hues.
Like a sunset...
Softly aching, lost in view.
Like a dress...
Winds I saw that day collide,
Blossoms rushed and took their flight,
Wrapping me in fleeting white.
In a breath, the world is blurred,
Flower storms erase my words,
Reaching high into the sky,
Saying, "Once again..."
◆・◆・◆
窓辺の天使 AFTER STORY 『ARTIFICAL ANGEL ~人造天使は終活したい~』
4章 天葬の記憶 - 完
ノベルゲームコレクション Vol. 1
窓辺の天使 AFTER STORY 『ARTIFICAL ANGEL ~人造天使は終活したい~』
https://novelgame.jp/games/show/10705
脚本:荒毘妃ヤミン / 萌流もる
原画:たまごかけ幼風パスタ
翻訳:薔薇牧百萬値(CHATGPT)
校正:あがてゃん
音楽:SENTIVE / VtuberPlus
制作:VtuberPlus / SANTUARIO
ノベルゲームコレクション Vol. 1
『ARTIFICAL ANGEL ~人造天使は終活したい~』
ノベルゲームコレクション Vol. 2
『異世界転生 Hron of Revelion ~最後の天使と4人の勇者~』
オリジナルソングアルバム 『ARTIFICIAL ANGLE'S ENDING NOTE』
https://youtu.be/9K1hoiGdMeg
作詞:荒毘妃ヤミン(YaminBismillah)
作曲:VtuberPlus (SunoPro)
編曲:VtuberPlus