製造番号 49267 ~ 2日目
目を覚ますと、柔らかな陽光が差し込み、部屋全体が穏やかな光で包まれていた。
まるでこの一瞬だけ、世界が何もかもを許してくれているかのような錯覚にとらわれる。
窓の外からは、どこまでも続く青空と澄み渡る海が広がっており、鳥たちが自由に翼を広げて空を舞っているのが見える。
遠くで聞こえる波の音が、心地よいリズムで響き続けていた。
風は柔らかく、肌に触れるたびに優しい湿り気を運んでくる。
その爽やかな風に心が少しだけ軽くなった気がする。
「博士、おはようございました。」
隣で控えめな声が耳に届く。
目を開けると、そこに立っているのは――ヤミン。
彼女の無表情な顔はいつも通りだが、その澄んだ瞳にはどこか期待のようなものが滲んでいるように感じられる。
彼女の存在がいつも朝の静けさを一層際立たせ、何ともいえない不思議な安らぎを与えてくれる。
俺は軽く伸びをしながら、彼女に微笑みを返す。
「おはようございました。ヤミン、今日は何をしようか?」
声に出すと同時に、今日がまた始まることにほんの少しだけ心が浮き立つ。
何もかもが不確かなこの場所で、彼女との時間だけが確実であり、心の支えになっている。
ヤミンは一瞬考え込むように目を伏せた後、微かに微笑んで口を開いた。
「今日は海で魚を捕って、シーフードカレーを作ってみましょうか。」
「魚…?」
俺は彼女の言葉を反芻しながら、しばらく考え込む。
海辺に近いこの研究所で過ごす日々の中、最近目にする鳥や自然の風景が頭の中を巡る。
昨日も見た空を自由に飛ぶ鳥たちや、広がる海の光景が鮮やかによみがえり、少しずつこの場所に生きる他の存在に気付き始めていた。
「そういえば、最近この辺りって魚がいたんだな。」
ぼんやりとした記憶が繋がるように口に出した。
「そうです。研究所は海沿いに面していますから、海はすぐそこです。でも……」
ヤミンはふと視線を落とし、何か言いたげな表情を浮かべた。
彼女が続ける言葉を待つと、少しためらいながら言葉を紡いだ。
「魚が捕れるようになったのは本当に最近なんです。それまでは海で魚を見ることすらできませんでした。」
「なるほど……不思議なもんだな。」
そう言いながら、俺は頭の中でいくつかの仮説を巡らせる。
この海や自然の変化が、もしかしたら研究所と何かしらの関係があるのかもしれない。
それとも、俺たちの知らない外の世界が変わりつつあるのか……。
だが、今はその答えを追うよりも、ヤミンとの日常に集中したほうがいいだろう。
「じゃあ、釣り道具を作るか。」
俺はそう提案すると、ヤミンは頷き、俺たちは施設の中で使える素材を探し始めた。
◆・◆・◆
施設に転がる古びた道具や廃材を手に取り、俺たちは即席の釣り道具を作り始めた。
金属のワイヤーを丁寧に加工し、釣り針を作り、長めの木の枝に紐を巻きつけて竿を作り上げる。
釣り竿はシンプルだが、これで十分だろう。
俺が作業を進める間、ヤミンは時折興味深そうに手伝いながら、どこか嬉しそうな表情を浮かべているのが目に入った。
「博士、これで魚が釣れますね。」
ヤミンは釣り竿を手に取り、少し誇らしげに見せながらそう言った。
「うまくいけばな。」
俺も同意し、彼女とともに施設を出て、海岸へ向かうことにした。
外に出ると、風は心地よく、潮の香りが混ざった海風が頬を撫でた。
青い空が頭上に広がり、海面は穏やかに光を反射している。
波は静かに打ち寄せ、その音がまた耳に心地よいリズムを刻んでいる。
遠くで鳥たちが自由に舞い上がり、その姿がまるでこの場所の静けさを象徴しているかのように見えた。
「さあ、始めようか。」
俺は海に向かって釣り針を投げ入れた。波に乗って釣り糸がゆっくりと揺れ、海面を静かに漂う様子を見つめる。
ヤミンもまた、慣れない手つきで釣り竿を握りしめ、真剣な表情で海を凝視している。
時間がゆっくりと流れる中、俺たちは無言で釣り糸の動きに集中していた。
波音だけが響く静かな空間に包まれていると、俺の手元に突然微かな抵抗が伝わってきた。思わず体が反応する。
「……来たか?」
「博士、どうですか?」
ヤミンが興味津々でこちらを覗き込んでくる。
俺は竿を慎重に引き上げると、銀色に輝く魚が釣り針にかかっていた。
その鱗は太陽の光を受けてキラキラと輝き、まるで宝石のように美しい。
俺はその光景を見て、心の中に小さな達成感が生まれた。
「やったな。」
俺は満足げに笑い、魚を手に取った。
「すごいですね、博士!」
ヤミンも無表情ながら、その声には興奮が含まれていた。
彼女の小さな変化を感じ取れるようになったことに、俺は少し嬉しくなる。
その後も俺たちは数匹の魚を釣り上げ、やがて釣りを終えることにした。
ヤミンは釣れた魚を丁寧に抱え、静かに見つめてから言った。
「これで、シーフードカレーが作れますね。」
俺は頷きながら、ヤミンと一緒に研究所へと戻る道を歩き出した。
波の音が遠くなり、また静かな日常が戻ってくる。
◆・◆・◆
朝から始まった俺たちの小さな冒険は、気がつけば昼過ぎまで続いていた。
施設に戻る頃には、陽は高く昇り、気温も少し暖かくなっていた。
海から吹く風が微かに潮の香りを運び込み、その涼しさが心地よかった。
ヤミンが釣った魚を両手に抱え、俺たちは施設の古びた厨房へと戻ってきた。
「じゃあ、早速始めますね、博士。」
ヤミンは無表情ながら、どこか嬉しそうに魚を調理台に置く。
その動作には慎重さと丁寧さが見て取れた。
彼女は魚を一匹ずつ扱い、慣れた手つきで魚の腹を裂き、中の内臓を取り除いていく。
彼女がその作業をする様子を、俺はしばらく黙って見つめていた。
ヤミンの動きは、あまりにも自然で、人間らしかった。
だが、それと同時に、何か決まりきった手順をただ淡々と繰り返しているようにも見えた。
彼女がどこで、どのようにその技術を学んだのか、あるいはそれがただのプログラムに過ぎないのか――その答えを俺は知らない。
しかし、その手際の良さには感心せざるを得なかった。
「博士、野菜も一緒に煮込んだほうが美味しいと思います。何か良いものがあれば……」
俺は少し驚いた。
彼女が料理について、自ら提案してくることなど滅多になかったからだ。
ヤミンは物静かで、どちらかと言えば俺の指示に従うことが多い。
しかし、今この瞬間、彼女は確かに料理を楽しんでいるように見えた。
「そうだな、野菜を探してみよう。」
俺は厨房の奥にある棚や冷蔵庫を調べ始めた。
施設の老朽化によって、保存されていた食材の多くは使えない状態だったが、かろうじてまだ新鮮そうなものがいくつか残っていた。
玉ねぎ、じゃがいも、人参――ありふれた材料だが、それで十分だった。
「これでいいか?」
俺が手にした野菜を見せると、ヤミンは小さく頷いた。
「完璧です、博士。」
彼女は魚をさばき終えた後、手早く野菜の皮を剥き、綺麗に切り揃えていった。
魚と野菜を一緒に鍋に入れ、水を加え、火をつける。鍋がぐつぐつと音を立て始めると、徐々に心地よい香りが漂ってきた。
「博士、もう少し待っててください」
ヤミンは何気ない一言を呟きながら、鍋をゆっくりと混ぜている。
彼女の顔は相変わらず無表情だが、その手の動きには少しだけ楽しさが込められているように感じられた。
やがて、スパイスの香りがキッチンに広がり、俺の胃袋がついに限界を迎えそうになった。
長らく味わっていなかった、この心地よい空腹感。
スパイスと魚の風味が合わさり、カレーの香りが俺を包み込んでいる。
「できました、博士。」
ヤミンは静かにそう言い、出来上がったシーフードカレーを俺の前に差し出した。
その瞬間、俺は驚くほど美しい光景を目の当たりにした気がした。
カレーの香り、彩り、湯気――まるで普通の日常の一場面が戻ってきたような感覚だった。
俺はスプーンを手に取り、最初の一口を口に運ぶ。
スパイスの刺激と、魚の旨味が口の中で見事に調和している。
これが、ただの人工物であるヤミンによって作られたものだとは思えなかった。
口の中に広がる味わいに、思わず感嘆の息が漏れる。
「うまい……本当にうまいぞ、ヤミン。」
俺は心からそう言った。
何か特別なことを言いたかったわけではない。
ただ、今この瞬間を心から楽しんでいる自分がいた。
「ありがとうございます、博士。」
ヤミンは微かに微笑んだ。
その笑顔は、どこかぎこちなかったが、それでも確かに彼女なりの感謝の表現だった。
俺たちはその後、黙々とカレーを食べ続けた。
ヤミンは自分の分を少しだけ食べていたが、彼女が本当に喜んでいるのは、俺が満足している様子を見ていることだった。
それは、彼女にとって最も大切なことのように見えた。
「こんな美味いものを食べられるとは、思わなかったな。」
俺は食べ終わった後、深い満足感に浸りながら言った。
ヤミンはその言葉に頷き、「また作りましょう、博士」と優しく答えた。
その日は、夕方までの時間を静かに過ごした。
俺たちは海辺に戻り、再び釣りを楽しんだ。
波の音、鳥たちの鳴き声、それらが混じり合い、穏やかな空気が広がっていた。
鳥たちが高く舞い上がり、自由に飛び回る姿を眺めながら、俺たちはただ、その静かな瞬間を共有していた。
海風が肌を撫で、俺の胸の中には、ほんの少しだけ平和と安らぎが広がっていった。
ヤミンの隣で過ごすこの日常が、いつまでも続けばいいのにと、ふとそう思った。
◆・◆・◆
夢を見ていた。
ぼんやりと、けれども鮮やかで、触れようとすれば消えてしまいそうな儚い夢だった。
それは、光と影が微かに揺れ動くような、静謐で、どこか懐かしい感覚に包まれていた。
夢の中で、俺はヤミンと共に過ごした日々の欠片を手繰り寄せていた。
俺たちは、ただの作業と呼ぶにはあまりにも豊かな瞬間を共有していた。
まるでそれが、この限られた時間の中で許された唯一の「生きる」証であるかのように。
土を耕した瞬間が蘇る。
俺たちは並んで、冷たく硬い地面を掘り起こし、無数の小さな種を蒔いた。
指先に触れる土の感触、陽の光が俺たちを暖かく包み込み、ヤミンの笑顔がそこにあった。
彼女の目に映る空は、果てしなく広がっていたが、それでも俺たちの時間は限られていた。
にもかかわらず、その瞬間、俺たちは確かに生きていたのだ。
土の匂い、風のざわめき、ヤミンの無邪気な笑い声が、心の中に深く刻み込まれていた。
海へも行った。
足を波に浸し、砂浜を歩き、無邪気に遊ぶヤミンを見つめたあの時間。
海の冷たさが、俺たちの足元をすり抜けるたびに、彼女の歓声が響いた。
彼女は水の中で自由に動き回り、俺を何度も誘ってきた。
その光景が、俺の心を何度も揺さぶった。
海の果てに広がる水平線を、俺たちは見つめていた。
そこにあるのは無限の広がりであり、俺たちの限られた命の対極にあるものだった。
空も見上げた。
雲ひとつない青い空、どこまでも高く澄んだ空気。
ヤミンの小さな手が俺の手を握り、二人で一緒に広がる青を見上げていた。
その青は、どこまでも続く未来への可能性のようで、同時に俺たちには決して手の届かないものでもあった。
だが、その瞬間、俺たちは確かにそこに存在していた。
その空の下で、ヤミンと俺は同じ時間を共有していた。
「生きる」ということは、こんなにもささやかで、こんなにも美しいものだったのか。
何気ない瞬間のひとつひとつが、まるで宝石のように輝き、かけがえのないものに思えた。
ヤミンと過ごすその時間のすべてが、俺にとっての「生きる」ということの本質だった。
彼女の笑顔、無邪気な振る舞い、言葉にならないほどの優しさ――それらが俺の人生に深く刻まれていった。
夢の中で、そのすべてが再び俺の前に現れた。
俺はただ、その瞬間を繰り返し味わっていた。
ヤミンと過ごした記憶が、まるで深い水の中から浮かび上がるように、一つ一つ鮮明に思い出される。
その記憶が俺の心を満たし、同時に寂しさも呼び起こす。
なぜなら、彼女との時間は永遠ではなかったからだ。
それでも、夢の中で俺は思った。
たとえ永遠でなくとも、この瞬間こそが、生きている証だったのだと。
ヤミンと過ごした日々の一瞬一瞬が、俺にとっては何よりも大切な「生きる」実感だった。
それが短くとも、儚くとも、それが俺たちの「命」そのものだった。
夢の終わりが近づくと、光が次第に薄れていき、静かな闇が訪れた。
ヤミンの姿も、そして俺が築いた思い出も、ぼんやりと遠ざかりながら消えていく。
だが、それでも俺は微笑んでいた。
なぜなら、そのすべてが確かに俺の中に残っていると感じたからだ。
――生きること、それは、彼女との時間を大切にすることだった。