製造番号 49267 ~ 1日目
潮風が鼻先をかすめる。
空にはいくつかの白い雲が浮かんでいるが、全体としてはどこまでも続く蒼穹。
波の音が遠くから微かに響き、鳥の鳴き声も聞こえてくる。
静かな海辺の景色が目の前に広がっているはずなのに、心はどこか不安定で、虚ろな感じがする。
目の前の培養器が静かに佇んでいる。
透明な液体の中で、金色の髪がゆらゆらと揺れ、その髪を持つ少女が眠っているのが見えた。
彼女はまだ目を覚まさない。
ただ、無機質な透明の世界の中にその身を委ねている。
俺は彼女をじっと見つめながら、胸の奥にわき上がる奇妙な感情に困惑していた。
まるで何かが足りない、あるいは忘れてしまったかのような感覚だ。
「……おはようございました」
無意識に口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど乾いた響きだった。
だが、それ以外にどんな言葉をかけるべきか分からない。
培養器の中の少女は、ゆっくりと目を開けると、まるで長い眠りから目覚めたばかりのようにこちらを見つめた。
彼女の瞳が俺の視線を捉えた瞬間、心の奥で何かが軋むような音がした。
その瞳には何の感情も浮かんでいない。まるで空っぽの器のようだ。
それが恐ろしくもあり、どこかで安心感も覚える。
彼女が何も知らない、何も感じていないという事実が、俺を落ち着かせているのかもしれない。
「おはようございました、博士。」
彼女の声は、まるで波に溶け込むように柔らかく、しかし同時に無機質だった。
彼女の口から発されるその言葉には感情がない。
ただ、記録されたセリフを再生しているような印象を受ける。
その一方で、その声にはどこか懐かしさも感じた。
俺たちは、これまでに何度もこうして出会ってきたのだろうか?
「……おい、俺とおまえ。以前、どこかで会ったか?」
思わず口をついて出た問いかけに、彼女は淡々とした表情で答える。
「はい。私たちは毎日会ってます、博士。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。
だが、それが何なのかは分からない。
ただ、記憶が断片的で曖昧な俺にとって、彼女の言葉にはどうしようもない既視感が漂っていた。
「そうか……」
俺は軽くため息をつきながら彼女を見つめた。
金色の髪、細くしなやかな体つき、そして無垢で無感情なその瞳。
彼女は完璧に美しい存在でありながら、どこか不自然で、まるで機械仕掛けのような印象を受ける。
俺は彼女に手を差し出しながら言葉を絞り出した。
「行こう、ヤミン。」
彼女は無言で頷き、俺の手を取った。その手は冷たく、どこか現実離れした感触があった。
だが、その冷たさが逆に心を落ち着かせる。
俺たちは一緒に培養室を後にし、静かな施設の中を歩き出した。
施設を出ると、目の前には広がる大空と海、そして頭上には無数の鳥たちが舞っている。
翼を広げて風に乗り、自由に空を飛び回るその姿は、どこか幻想的であり、同時に羨ましくも感じられる。
「今日は、何をしましょうか?」と彼女が静かに問いかける。
その問いに、俺はしばらく考え込んだ。
だが、答えはすぐに浮かばない。
俺たちには何か目的があるのか?
それともただ、この日々を繰り返しているだけなのか?
頭の中がぼんやりとして、明確な答えが見つからない。
「……なんでもいい。今日を精一杯、生きよう」
それが俺の口から出た唯一の答えだった。
鳥たちが自由に飛び回る空を見上げながら、俺たちは静かにその場に佇んでいた。
鳥たちはまるで、何かを訴えかけるかのように俺たちの頭上を旋回している。
彼女はその光景を黙って見つめ、俺もまた、胸の奥で広がる漠然とした不安を感じながら、鳥たちの姿を追い続けた。
その時、ふと心に浮かんだ。俺たちもまた、こうして鳥のように自由になる日は来るのだろうか?
それとも、俺たちはこの繰り返される日常の中で、永遠に閉じ込められたままなのか?
だが、その答えは見つからないまま、俺たちはただ静かに、空を見上げ続けた。
◆・◆・◆
探索を続けていると、静まり返った施設の奥でひとつの端末を見つけた。
それはまるで、忘れ去られた時間の中でひっそりと佇む古い記憶のかけらのように、無機質な光を湛えながらそこにあった。
俺は何かに引き寄せられるように、その端末へと歩み寄った。
ヤミンは一言も発さなかった。
ただ黙って、少し距離を置いて俺のことを見守っていた。
彼女の小さな影が視界の端にかすかに揺れるのを感じながらも、俺は端末に向かって手を伸ばした。
触れた瞬間、指先に冷たい金属の感触が伝わってきた。
その冷たさが、まるでこの施設そのものの象徴であるかのように、俺の心を静かに締めつける。
「何を探しているんだ……俺は」
心の中で自問する。
その答えがどこにあるのか、俺には分からなかった。
ただ、この端末が何かの答えを持っているような気がしてならなかった。
希望なのか、絶望なのか、それすらも定かではない。
それでも、俺は知る必要があった。
ここで何が起きたのか、そして俺たちが何者なのかを。
淡々とキーを叩く音が、静寂の中で響く。
端末の画面が淡い光を放ち、暗闇の中でまるで小さな灯火のように揺れていた。
その光に照らされた俺の手のひらが、不思議と自分のものではないように感じる。
どこか現実感のないこの状況で、俺はただ情報の海に溺れそうになりながらも、何かに縋るようにその画面を見つめ続けた。
後ろでヤミンが、静かに俺を見守っているのを感じる。
その気配は温かくもあり、切なくもある。彼女の存在が、まるで俺を見失わないための灯台の光のように、いつもそこにある。
彼女は何も言わない。
俺の集中を乱すことを恐れるかのように、慎ましやかに、その場に立ち尽くしている。
(ヤミン……)
俺は心の中で彼女の名前を呼んだ。
声には出さなかったが、彼女はそれを感じ取っていたのかもしれない。
彼女の存在は、無言でありながらも確かに俺の中に深く染み渡っていた。
彼女は俺の横にいる。
ただそれだけで、どれほど救われているのだろうか。
だが、その一方で、俺は彼女に何も与えることができていないという焦りが胸の奥に広がっていく。
この場所で、俺たちは何を成し遂げるのだろうか?
何を知れば、この閉じた世界に光を差し込ませることができるのか?
その答えが、この冷たい端末の中にあるのだと信じて、俺はひたすらに操作を続けた。
しかし、その答えはいつも霧の中にあるようで、明確には見えてこない。
データの羅列、数字、無機質な文字――それらが何かを伝えようとしているのかもしれないが、俺にはまだ理解できなかった。
俺の手は疲れていたが、止めることはできなかった。
ヤミンが静かにそこにいてくれる限り、俺は続けなければならない気がした。
彼女のために、俺たちのために、俺はこの無機質なデータの中に埋もれた答えを見つけ出さなければならない。
それが俺の使命だと感じていた。
時間がどれほど経ったのか分からない。
やがて瞼が重くなり、意識が薄れていくのを感じた。
疲れが体中に溜まり、集中力が途切れかけていた。
だが、それでも手を止めるわけにはいかなかった。
ヤミンの無言の見守りが、俺を突き動かしていた。
「もう少しだ……きっと、もう少しで」
だが、ついに疲労が限界に達し、視界がぼんやりと揺らめいた。
端末の画面が次第に霞んでいく。
まるでその光が遠ざかっていくような感覚に包まれながら、俺はゆっくりと意識を手放していった。
(ヤミン……)
最後にもう一度彼女の名前を心の中で呼び、俺は静かに眠りに落ちていった。