聖女に親指を立てる。(ただし下向きに)
一作目でヒューマンドラマ〔文芸〕週刊ランキング20位になったのが嬉しくて書き上げました。
二作目も気に入っていただければ幸いです。
親指を下に向けて立てる行為は、不満や怒り、非難を表すために行われるとされている。一般的には平民たちの間では劇などの内容に不満があると行われているそうだ。中には劇のことだけでなく個人の行動に対しても行われるとも聞く。
少女は、母が扇子で隠した手が、右手の親指が下を向いたのを横目で見た。非難したい母の気持ちもわかるが、母の態度を非難したい気持ちでもあった。見つかったら危ういのは母も理解しているだろうに。
妹も母に倣い、親指を下に向けている。兄は妹が手を隠しきれていないのを見て、自分の体で隠すようにした。
周囲も表情は笑顔を作り拍手しているが正直なところ我が家と同じ気持ちだろう。見たとしても見て見ぬふりをしてくれると願っている。
ため息を吐きたくなるのをぐっと堪えて周囲と同じように笑顔で拍手を送る。
こんなくだらない演劇を強制的に観劇させられる身にもなってほしいものだ。
国に豊穣をもたらす精霊の加護を受けし聖女アリシアは、生まれ故郷であるガーランド王国を離れ隣国のガレリア王国に亡命した。
亡命したと聞けば何か故郷で辛い目にあったのかと思われるが違う。むしろ高待遇を受けていたとしか言いようがない。アリシアの意思を尊重し、無理難題を押し付けることなく常に気を配り、贈り物なども欠かさなかった。
なのにアリシアが亡命したのは彼女の過去が影響している。
彼女はこの世界で生まれる前の、つまり前世の記憶を持っていた。10代の若い女性の記憶であり、その記憶の中に異世界転生系の小説やゲームに関する知識があった。
その知識と、今の生まれを考えてアリシアはいずれ自分が婚約破棄、国から迫害されるのではとずっと考えていた。けれど物語のように彼女を愛してくれてる人、隣国ガレリア王国の第二王子であるジェードがアリシアを危機的な状況から救ってくれると信じていた。
実際には婚約破棄も何も起こることなく、というより婚約することすらなかった。アリシア自身に結婚相手を決める権利があると王家自ら言われた。
アリシア自身が結婚相手を選べと言われても、何も決められなかった。
ジェードのことは好きだ。しかし、彼は隣国ガレリア王国の次期国王だ。それを放棄してガーランド王国で聖女の夫として、アリシアの生家ローラン侯爵家を継いで欲しいとはいえなかった。
かと言って他の誰かと結婚したいとは思えなかった。唯一他に付き合いのある異性の男性、ガーランド王国第一王子アーノルド・ガーランドはその視線が苦手であったし彼にはすでに結婚秒読みの相手がいた。
悩みに悩んでいたアリシアに、ジェードは姿を現した。以前の夜会のように伊達メガネをしていないため、その精悍な顔立ちはよく見えたがその表情は暗く沈んでいた。いつ見ても自信が溢れていた表情とは異なり目の周りにクマができており、頬も少し痩けたように見える。心配したアリシアが駆け寄ると、ジェードはアリシアの手を取り、真剣な眼差しで告げた。
「聖女アリシア。俺と一緒にガレリア王国に来て欲しい。どうか君の力で国を救ってくれ。」
ガレリア王国は農作物が育ちづらい国土であること。
餓死者が出たり、国外からの農作物輸入のため国民に重税をかさなければならないこと。
そのためアリシアの聖女の加護で国を救って欲しいこと。
ただ、それはガーランド王国から聖女を奪うも同然であり、戦争の危険性があること。
その危険性がわかっていてもアリシアにガレリアへ来て欲しいこと。
「君にとって母国を裏切る行為だ。それでも俺は聖女に、いやアリシアに、そばにいてほしいんだ。」
苦悩した声でジェードはアリシアに告げる。
アリシアはジェードを愛していたが、ガレリア王国に行くことは生まれ故郷、両親を捨てる選択だとわかっていた。
そばに居たい。でも…………。
悩むアリシアの背中を押したのは、母であるマリィベルだった。母はアリシアに告げる。
――ローラン侯爵家はガレリア王国につく。
そう告げた。
元々ローラン侯爵領地はガレリア王国と親密な関係にあり、ガーランド王家とは距離を置いていた。アリシアが離れるのであればこれを機にガレリア王国とともに生きると。
「アリシア。私たちは貴女の味方です。領民たちも貴女の幸せを願っています。だから大丈夫よ。」
アリシアは涙ぐみながらもジェードの手をとった。
これが自分の幸せになれる道だと信じて。
ガーランド王国を捨て、ガレリア王国へジェードと共に来た。
初めてガレリア王国の王都に足を踏み入れると、歓迎の勢いに圧倒された。城までの道のりを馬車で進みと、道沿いに民衆が立ち並んで口々に聖女への歓迎の言葉を送っているのが聞こえてきた。ジェードもこの歓迎を知らなかったのか驚愕した様子だった。
その後はガレリア王家からも歓迎の宴が開かれた。急遽、王家が主催した宴であり、王都滞在の貴族だけが出席することになったが、ガーランドとは異なる音楽を奏でる宴はアリシアを楽しませた。
そして、何よりその宴にはガーランド王国の王太子が駆けつけた。20歳近い息子がいる30代男性には見えない、ガーランド王やアーノルドによく似た美貌の王太子は、和かな表情でアリシアに向かってガーランド王の言葉を伝える。
「聖女アリシア、ガーランドの発展は聖女がいたからこそ成り立ったものです。王家は聖女のガーランドへの貢献は一生語り継いでいくことでしょう。
今までガーランド王国に加護を与えていただき、誠にありがとうございました。
聖女としてガレリア王国に加護を与えるという困難に立ち向かわれる決意をされたこと、心より尊敬いたします。どうか隣国で貴女の幸せを祈っております。」
ガーランド王家からの言葉は夜会で語ったようにアリシアの意思を尊重するものだった。王太子は昔と変わらぬ穏やかな表情でアリシアへ祝福の言葉をかけた。
どんな暴言を投げかけられるかと不安に思っていたアリシアは目をまん丸にさせた。しかし、その言葉の意味を理解すると安堵の表情を浮かべた。
怖かったのだ。自分の行動で戦争が起きるかもしれないことが。けれども、ガーランド王国はガレリア王国に戦争を仕掛けることはないだろうと確信した。戦争を、人が死ぬ事態を避けられたことが何よりも嬉しかった。
周囲はガーランド王家の言葉を聞き、会場が壊れんばかりの拍手を奏でる。
ガレリア王国の苦難を救ってくれる聖女と、そして自国に損失がでるとわかってなお聖女の意思を尊重したガーランド王家を褒め称えるために。
周囲の貴族は表面的にはそのように振る舞った。
その後、アリシアは王都に滞在することとなった。
離宮の一つがアリシアの住まいとなり、そこでガレリア王国について授業を受けている。
授業を受けることは、アリシア自ら望んだ。ジェードの妻となるということは将来の王妃となるということだ。聖女の力を持っているとはいえ、それに胡座をかくような真似はしたくない。
名実ともにきちんとジェードの妻になりたかった。
周囲は皆優しかった。故郷の領地で過ごした時と同じように、そばに居る人たちは穏やかで優しい人ばかりであった。
新しく側付きになった侍女達も仕事はテキパキとこなしているが決して堅苦しいわけではなく、アリシアの休憩中にガレリア王国の流行のドレスについて話してくれたりする。
王室に入るのだからと緊張していたが、穏やかでのんびりとした生活は故郷と変わらなかった。
とはいえ、いくつか不満もあった。
一つはガレリア王都を見て回れていないことだ。故郷ではアリシアが望めば、勿論護衛付きではあるが、領地の街中を探索することができた。母であるマリィベルは貴族令嬢が、聖女が外を出歩くことはあまりいい顔をしなかったが、最終的には折れてくれた。
街に出てお店を見て周り、買い物を行う。お忍びのアリシアを見ると領民は緊張しながらも笑顔で迎え入れてくれたものだ。
ガレリア王国でも同じように行動したいと希望したが安全性のため許可できないと断られてしまった。アリシアがこの国に来たのは急な出来事だった。そのため護衛部隊などの選別が終わっていないらしい。
理由は理解できるが離宮のみで過ごすことはアリシアには窮屈感じられたた。
もう一つの不満はジェードのこと。
以前とは違い、同じ場所にいるのだ。もっとジェードと会える時間が増えるかと楽しみにしていたのに、ジェードは会議や政務などがあるため会える時間は少ない。1日中そばにいられる日はほとんどなく、たまに夜一緒に食事を取れるのみだ。ジェードは会えない日も手紙を送ってくれるなどこちらを気遣ってくれているが、それでも会えないのは寂しい。
(ここで我儘言うのはダメね。ジェードは私を連れてくるために無理をしてくれていた。会議もほとんど聖女に関することみたいだし、ここで我儘を通すのは失敗転生ヒロインそのものだもの)
そう考えて、アリシアは不安があれど、それを表に出さないようにしていた。
とはいえ、そんな生活が2ヶ月も過ぎると不満が溢れ出てしまう。
暇なのだ。
勉強と庭の散策で1日が終わってしまう。お茶会を開くこともなく侍女以外に人に会うこともない。故郷で自由気ままに過ごしていたアリシアにとって大変窮屈な生活だった。頭では理解しているが感情では納得できていない。
退屈そうなアリシアの姿を見て離宮に来てからずっとそばにいてくれた一番心を許している侍女はくすくすと笑った。
「アリシア様、お顔に出ておりますよ。」
「むぅ……。
だって退屈なんだもの。」
「お気持ちはわかります。ジェード第二王子殿下がこんなにも慎重なお方だったとは思いませんでしたわ。まさかまだ護衛部隊すら決まらないなんて。」
「だから離宮の中庭までしかいけないのよ。せめて王宮の方まで入れたら少しは違うのに。」
2ヶ月経っても状況が変わらないことに不満を言うアリシアに侍女は悪戯っ子のようにニヤリと笑いかける。本来侍女がするべき表情ではないが彼女からは品のなさは感じられなかった。
「アリシア様、今日は退屈しないと思いますよ。」
「えっ?」
「だって――――」
侍女が言い終える前にノック音が聞こえた。誰かがとびらの前にいるようだ。侍女はアリシアに声をかけてから扉を開けると、勢いよく人物が飛び込んで来た。
「聖女アリシア様、ご機嫌よう!
外出のお誘いに参りましたわ!!」
飛び込んできた勢いのままカーテシーを行う。そのカーテシーはお手本のような角度だったが速度が素早い。目をまん丸にして見つめるアリシアに、現国王の側室であるヘルミーナは笑顔を向けた。
その勢いのまま、あれよあれよと侍女にお忍び用の軽装のドレスに着替えさせられ、馬車に乗ること1時間。王宮を出て、以前通った王宮までの道のりを今度は逆に進む。
現ガレリア国王の側室であるヘルミーナ。
元々裕福な伯爵家の出身で、正室との間に子供のできなかった王家に頼まれて24年前に側室として嫁いだ。嫁いですぐに王子を妊娠し、王子だけでなく2人の王女も産んだ女性だ。
正室の子であるジェードは第一王子誕生から2年後に生まれた。その時、どちらを王太子とするのか揉めに揉めたが、ヘルミーナ自ら自身の子の王位継承権をジェードより下にすべきと進言したため、現在ジェードが第一位王位継承権とされている。
その後、ヘルミーナは第一王子を将来の国王補佐となるよう教育している。第一王子もそちらの方が性に合っていたのか将来は農林大臣として国家に尽くしたいと公言し、日々農業関連の学者と接していると聞いている。
側室として正しい行動をとっているヘルミーナだが、ジェードは警戒していた。
彼は側妃ヘルミーナを女狐と呼んでいるのをアリシア知っている。王宮に来る際も警戒するよう伝えられており、最初の宴で挨拶を交わしたのみの付き合いだった。
しかし、
「これ、美味しいんですよ。ここのお店のご主人がジャムから手作りしているお菓子でガレリア名産の豆を使ったものです。ぜひ食べてみてくださいな。」
ニコニコと笑いながらお菓子を勧めてくるヘルミーナにアリシアは肩の力が抜けてしまった。
温和で常に微笑んでいるような顔立ちの女性。実年齢より若く見られるが顔の造形ならガレリア王妃の方が遥かに上だ。しかし、親しみやすいのはどちらと言われれば側室のヘルミーナだ。
緊張感のない様子でのほほんと、お店で買ったものをアリシアに差し出す。しかもその買い方は侍女に買わせるのではなく自分から財布を出して買っているではないか。故郷で比較的自由に過ごしていたアリシアですら財布は侍女が持っていた。
店主も慣れた様子で「いつものですね!」と笑顔で受け答えしていた。
(ま、周りに護衛がいるのはわかっていますけどヘルミーナ様自由すぎない……?)
アリシアですらその奔放さに驚愕してしまうほどだが、そんなことはお構いなしにヘルミーナは観光案内を続ける。
「あそこは2代前の国王陛下が造られた劇場なんです。一番人気は遊牧民であった初代国王の建国に関する劇ですね。多分そのうちアリシア様の劇も創られると思いますよ。その時は一緒に観に行きましょうね。」「あちらのお店はアクセサリー店です。あの店舗は市民向けに大量生産された品が置いてありますが別店舗だとオーダーメイド品を扱っています。王家御用達なのでアリシア様への贈り物にもその品があると思いますよ。」「あそこのお店、美味しいですけれども量が多いいためすぐに満腹になってしまうんです。今日は他のものを食べて欲しいのでまた今度にしましょう!」「あの路地、猫集会所なんです。こっそりと見に行きませんか?」
貴族らしく口調や表情を取り繕わず、のんびりとした口調とコロコロと変わる表情。貴族の振る舞いができていない、品がないと思う人間もいるかもしれないがアリシアは彼女に親しみを感じた。肩を張らずに接することのできる人間とは彼女のことを言うのだなと思わず思ってしまった。
そうして夕方まで一緒に過ごしていたが、少し疲れてしまい公園のベンチに2人で座った。公園はちょうど子供たちがいなくなる時間なのか護衛たちを除き他に誰もいなかった。
「ヘルミーナ様、今日は王都を案内していただき本当にありがとうございました。」
「いえ、私の道楽に付き合っていただいただけですよ。」
「……この国に来てから初めての外出でした。人々と触れることでこの国の良さを実感した思いです。」
アリシアは心から感謝した。
ガレリア王国。
母の故郷で、故郷より山脈を超えた土地。作物が育ちづらく、餓死者も出るほどと聞いていた。ガーランドで餓死者なんて聞いたことがないため、どんな国なのだろうと恐怖もあった。
しかし、王都に住まう人たちは活気が溢れており、人々が精一杯生きていることを感じることができた。この国をもっとよくできたらという思いがアリシアに湧き上がっていた。
「アリシア様。」
ヘルミーナはゆっくりとアリシアに話しかける。
「アリシア様がこの国を少しでも好きになっていただけたら幸いです。
……王都だけではわかりにくいですが地方では貧しい暮らしをしている者が多くいます。本来王家が貧困をなくしていかなければなりませんが我らの力では全てを救うことは出来ません。
どうかアリシア様、聖女の力で一部の領地だけでも構いません。どうか民をお救い下さい。」
ヘルミーナは真剣な表情でアリシアに懇願した。アリシアは勿論と頷こうとしたが、ヘルミーナの懇願に気になる言葉があった。
「あの、一部の領地とは……?」
「…………ガレリアの国土はガーランド王国より遥かに大きいものです。ガーランド同様、聖女様の力は国土全てを覆うことが難しいことは重々承知しておりますので……。
えっと、あの、アリシア様?もしやご存じないのですか………………?」
ヘルミーナは首を傾げているアリシアの様子に驚愕する。少し悩んだ後、アリシアに事実を告げる。
聖女は精霊より祝福され、聖女がいるだけで国は豊穣を約束されている。
しかし、聖女の力は万能ではなく加護が及ぶ範囲はそれほど広くなく、ガーランドでも一部の国土のみ影響があったこと。
加護のない地域に加護が行くようにするには数年の滞在が必要だがその分他の地域の加護がなくなってしまうこと。
ガーランドより広大なガレリア王国では聖女の力は国土の2割も影響を及ぼせないだろうこと。
上記全てをヘルミーナは説明した。
(なに、それ。
私、知ら、ない。)
聖女は国を豊かにする。
そうアリシアは教えられてきた。その国とは国土全てを指すことだと思い込んできた。誰も彼も一部しか及んでいないなど教えてくれたことなどないのだから。他国ですら知っていることなのにアリシアは知らなかった。アリシアの知識が不足しているのは誰の影響なのだろうか。
考えるまでもない。
アリシアの教育は本来王家がする予定だったが両親はそれを断り、自分たちで教育係を選定していた。つまり、知識の偏りが出てしまったのは両親が影響しているとしか思えない。
その事実に気付いた時、アリシアの脳裏にある疑問が湧き上がってきた。
「あ、の。
私、聖女の力に目醒めてから、ずっと、領地に居たんです。
加護は、どう、なっていたのでしょうか…………?」
「…………こちらが聞いている限りですとローラン侯爵領とそれに接する領地に加護があったと伺っております。ただ、ローラン侯爵領は王都より北側にございます。王都はまだ範囲内ででしたが、王都より先の地には加護が及んでいなかったとも。また、侯爵領とガレリアは面しておりますがそちら側は険しい山脈があるためガレリアへは加護は届いておりません。」
ゾッとした。
両親はわかっていたのだ。聖女の力のことを。つまり、アリシアに知識を与えなかったのはわざと。自領に加護があればいいという考えの元動いていたとしか思えない。
アリシアは足元が崩れ落ちる気持ちだった。今まで両親からの愛情を疑ったことなど一度もない。けれども、本当に両親はアリシアを愛してくれていたのだろうか。両親が愛していたのは、自分たちに都合のいい人形だったのではないか。
なんの言葉も発せずにいるアリシアにヘルミーナはただただ肩を抱き寄せて静かに見守ってくれていた。
「この国の農地や国土に関する本、それと聖女の加護を研究した資料があれば持ってきて。」
アリシアはヘルミーナに付き添われ離宮に帰ると侍女に告げた。侍女は疑問を投げかけることなく速やかに行動してくれた。
アリシアは考え、そして知るべきだと思った。
この国において自分の、聖女の力がどのように及ぶべきか知るべきだと。
それからさらに2ヶ月。暇だ暇だと嘆いていたのが嘘のようにあっという間に時が過ぎていった。この国の農地や遊牧地の分布図、生産物や農産物の輸入状態。ガレリア王国でも伝わっている聖女の伝承やガーランド王国から入手した歴代の聖女の歴史。時には農業専門の学者を招いて直接授業を受けたりした。
この手配をしてくれたのはヘルミーナだった。ジェードに聖女の加護に関することを伏せて食糧状態について知りたいと頼んだ際に断られたからだ。
「君がいれば改善することだよ」と。
アリシアはジェードに不信感を覚えていた。なぜならジェードもアリシアに聖女の加護について話して来なかった人間の1人なのだから。アリシアの知識に偏りがあることをジェードなら知っていただろう。
だから、ヘルミーナに頼った。ヘルミーナはすぐに教師や本の手配してくれた。その手配に偏りがないかと心配になったが、勉強していくうちにそれはなくなった。教師はヘルミーナの実家の領地や王家に関することもきちんと説明してくれたからだ。
ヘルミーナの実家である伯爵家は王都の近郊にあり、王都周辺の国土は僻地に比べ安定している。そのため聖女の加護なくても一定の食糧は確保できるので、現状早急に加護を必要とすることはないと包み隠さずに教えてくれた。
そのようにジェードに内緒で勉強していると2ヶ月はあっという間に過ぎていった。
「アリシア。やっと決まったよ。」
ある日、ジェードがアリシアを訪ねてきた。疲れ切った様子で目の下のクマも濃く、あまり休めていないことが窺えたが嬉しそうな表情を浮かべている。
「君のことで他の連中が口出ししてきたがようやく決まった。君を一番安全に守れる場所に滞在してもらうことになった。」
ジェードはアリシアが聞きたくなかった言葉を発する。
「俺の母方の領地だ。そこなら聖女の君に干渉してこようとする他の貴族の手も及ばない。
君の故郷と同じく、そこでなら面倒な決まり事に悩まされずに自由に過ごせるさ。」
アリシアは知っていた。
その領地周辺の国土は不安定さは確かにあるが、他の領地よりも作物の収穫量が安定していることを。
だからアリシアは決めた。
ガレリア国王主催の夜会。この国で最初に参加したものは近隣貴族のみの晩餐会だったが今回は違う。社交シーズン最後の王主催の夜会であり、何よりも聖女アリシアの正式なお披露目のためガレリア国の大貴族全てが招かれている規模の大きな夜会だ。ガーランド王国で参加した国王主催の夜会よりも多くの人が参加している。
アリシアはこの日のため新しく仕立て上げたドレスを身にまといジェードにエスコートされて入場する。かつてガーランド王国の夜会のように。けれども心のあり方は同じではなかった。
活気を取り戻した精悍な顔つきに満面の笑みを浮かべたジェードに導かれ、ガレリア国王の元に向かう。国王の左手側にいるのはジェードの母の王妃、そして右手側に王妃より一歩下がる形で控えているヘルミーナが居た。
会場中の貴族達の視線を感じながらもカーテシーを披露し、王へ挨拶の言葉を告げる。王はそれに答え、アリシアのことを紹介すると、周囲は会場の外まで響き渡る拍手で持って歓迎した。口々に周囲の貴族が褒め称える言葉を発しているのをアリシアは冷静に受け止めた。
「ガレリア国王陛下。
もし、よろしければ私からこの国を統治している皆様へ挨拶の言葉をお伝えしたいのですが。」
「無論だとも。聖女アリシア、貴女の言葉を皆待ち望んでおるだろう。」
「感謝いたします。」
隣に居るジェードの方に横目で視線を向ける。 ジェードは嬉しそうに誇らしげに口に笑みを浮かべ堂々とした態度でアリシアの側に立っていたのが視界に入った。
その姿を確認したのち、一度目を閉じて深呼吸する。今からすることはジェードと対立する可能性が高いことだ。アリシアはジェードに対する恋心が未だに消えていないことを自覚していた。
けれどもその目蓋を開いた時、アリシアはジェードへの恋心に終止符を打つことに決めた。
「皆様、ガレリア国王陛下よりご紹介にいただきましたガーランド王国ローラン侯爵家長子、アリシア・ローランと申します。」
その後に続く言葉は演説としてはありきたりなものだ。この国への思い、聖女としての責務を果たすなど事前にジェードとも打ち合わせをしていた演説内容。周囲は言葉の区切り区切りに拍手喝采をアリシアへ送った。
決められていた演説内容を述べたのちアリシアは一呼吸置いた。これから話す内容は事前に決められていたものではない。
「皆様ご存知の通り、精霊から与えられた聖女の加護は万全ではありません。このガレリア全土に平等に加護を与えることは不可能です。」
隣にいるジェードが驚いた様子で凝視しているのを感じた。
「しかしながら一度加護を与えられた土地は加護が無くなっても、すべてが0になるわけではありません。その大地に残る水、一度芽吹いた草花はその後の成長を助けることができます。」
今更止まる気はない。
「研究家、農林省とも話し合いました。今後、私聖女アリシアは3年の月日を目安にしながらガレリア王国全土を周り順次大地に加護を与えて行きます。」
ジェードが口を開こうとするがもう遅い。
「まず初めにガレリア王国でも特に干魃の酷い地方から回っていきます。
餓死者を少しでも減らすこと。
これがこの国で私がするべき使命です。」
「聖女アリシア、貴女のその覚悟、思い。
ガレリア王国国王として感謝いたします。」
ジェードより先に国王陛下がアリシアの言葉に賛同してくれた。ジェードが何か言おうとしていたが口から言葉は出てこない。口をぱくぱくして呆然している。
その様子に心が痛まないわけではない。愛した人の力になりたい気持ちもある。
でもそれだけではダメなのだ。
「皆の衆、聖女アリシアへ今一度感謝を伝えてくれ!」
ガレリア国王の言葉に周囲は今まで以上に大きな拍手をアリシアへと送る。
目を閉じ、その拍手を受け入れる。
これが私の進む道だと、覚悟を決めるために。
目を閉じたアリシアは最後まで周囲の張り付いた笑顔に気がつくことはなかった。
「ヘルミーナの一人勝ちね。
いえ、正妃と第二王子の負けかしら。」
気怠げな美女が侍女にネイルを塗らせながら呟くのを少女はソファに座って見ていた。娘とはいえ身支度をしている様子を他者に見せるのはどうかと思うが、自由気ままな母に言っても無駄だ。
少女は呆れた様子で紅茶を啜る。
ガレリア王国の一貴族の家庭での会話。しかし、どの貴族も今日は同じような会話をしていることだろうなと少女は思う。
「3ヶ月間の政治劇が、全て無駄になりましたね。」
「どの地域に加護を与えるか、言葉通り血が飛び交うような会議だったわぁ。あれで何人廃嫡したり、引退したかしら。」
「急死したご家庭もあったようで。
我が家は介入しなくて正解でしたね……」
どの土地に加護を与えるか。それは領地を持つ貴族にとって死活問題だ。
今餓死者を出すほど貧困している領地は何としてでも聖女を手元に置きたがり、また別の領地は他領のみ富を得るのを良しとはしない。
聖女が来てからの3ヶ月。
貴族ばかりではなく市民すら巻き込む勢力争いがガレリア王国全土で繰り広げられていた。
「ヘルミーナが勢力争いには静観の構えだったから。どうせ何かあるんだろうと思ってヘルミーナの実家としか接触しなかったわ。」
「王の静観もヘルミーナ様の指示でしょうね。
王家の中で王妃と第二王子殿下のみが主導権争いに参加しておられました。」
「会議で王妃が勝者となったけど、無理やり過ぎて周囲からの反感が酷いことになったわぁ。暗殺疑惑も全部王妃の指示だーってすごーいのぉ。
流石に全部ってわけではないけどいくつかは確定よ。」
母がこう言い切るには証拠があるくらいのだろう。
あまりに雑すぎるが急な出来事すぎて、行き当たりばったりにしか王妃も動けなかったのではと少女は思う。
「陛下は王妃を庇われますか?」
「王妃派閥が会議で主導権を握ろうと暴走しなければ、ここまでの死者はでなかったと思うわ。
ヘルミーナですら、王妃の狂乱ともいえる行動をとるとはさすがに思ってもなかったでしょうね。
膿として切り落とすんじゃない?」
母は王妃のことなど気にも留めない様子で塗られたネイルを確かめている。両親からしてみればいずれ王妃が排除されることは確定事項だったのだろう。我が家は王妃の派閥と縁を結ぶことはなかった。
「ヘルミーナが勝ったことで我が家にも利益が出ることは嬉しいけど、文句の一つは言いたいわぁ。」
ネイルの色を確認し終えた母がため息を吐く。
「文句、ですか?」
「ええ。あんなつまらない劇の観客に、いえ隅っこにいる名もない配役に貴族全員配置したことよ。」
「……あれは酷かったですからね。」
「本当よ。
あの聖女様のつまらない覚悟とやらを見せつける劇なんて、ヘルミーナにしては駄作ね。
思わずブーイングしてしまったわ。」
「妹が真似するからおやめ下さい。気持ちはわかりますが。」
「聖女様は決死の思いで決断したのでしょうね。愛する男に敵対することになってでも正義の道を歩むことを決めた。
なんて素晴らしき覚悟なんでしょう!
将来披露される演劇のクライマックスシーンね!!
国立劇場で演じられても観に行かないけど。」
もうすでに脚本は作り始めていると母と少女は確信していた。王妃は自分の利益しか考えられない強欲な女として書かれている脚本を。
「私たちはブーイングで済むけど、他家はどんな気持ちだったか聖女様は理解していないんでしょうねぇ。
あの場で殺し合いになるかもしれなかったのに。」
政治騒動により加害者でありながらも身内を亡くした被害者となった者も、被害者であり加害者となったものも同じようにあの場にいたことを聖女は知らない。
張り付いた笑顔で送られた殺意のこもった拍手を聖女アリシアは知らない。
「このまま、王妃様が切り捨てられたとして、王国は安定しますかね……。」
あの殺意渦巻く夜会に参加して、その後何事もないとは少女には思えなかった。
何故なら、3年ごとに聖女の拠点は変わるのだ。
今は無理でも、少しでも早く加護を得たいと願うのは当たり前だろう。巡回順番を巡って争いが起きることを少女は想定していた。
「それは大丈夫よぉ。
ヘルミーナの実家に接触した時、面白い情報を得たのよ。これを聞けば、負けた派閥もある程度落ち着くでしょうね。
これ以上揉めることはないわよ。」
「そのようなことがあるのでしょうか?」
「ええ。
これ以上は、まだ教えてあげられないけどね。」
加護をめぐる争いを制止させるほどの情報。
とても気になるが、母がこのように言うときは、決して何も話すことはない。大人しく、情報が伝えられるまで待つ他ない。
とても気になるが。
「そっちはまだ教えてあげられないけど、別のいいことを教えてあげる。」
母はもやもやしている少女の考えを吹き飛ばすかのように、ニヤリと笑いかける。
「人を自分の思うように動かしたい時のこと。
正しい行動だと、正義は自分にあると思い込ませるのよ。そうした方が人は悪を成すよりも気持ちよく動いてくれるわ。正義の道の歩むことは気持ちのいいことだもの。
その正義が作られたものだとしても、ね。」
母の言葉を聞き、少女は考えていたことを一旦放棄する。そして、母に言われたことに考えを集中するため、ゆっくりと目を閉じ考える。
今回の出来事を。
聖女にとっての正義を。
聖女は旱魃地域からガレリア全土に加護を与えることを自分がすべき正義だと思っている。
確かにそれは正しいことである。
しかし、間違いでもある。
考えてもみてほしい。旱魃地域は国土の中でも僻地にある。その地域が潤うことは現地の人にとっては救いだろう。しかし、他の地域への影響は少ない。
なぜならそこで作物が育ち始めても他の地域へ輸送することは困難だからだ。
いくら豊穣の加護があっても農地が全く整備されていない土地なのだ。3年やそこらでは輸出できるほどの量にはならない。ましてや聖女は3年で転居してしまうため、その実りも数年後にはどうなるかわからないのだ。現地の人間は自分の食糧庫に溜め込むことを優先するだろう。
それよりも農地が整備されている土地に加護を与え、そこでできた作物を旱魃地域などに配布する方が良い。
その考えを王妃は主導し、どの土地に加護を与えるかを3ヶ月間貴族は争っていた。
旱魃地域に加護を与えることが正義か、それとも豊作を優先することが正義か。
どちらも正しく正義である。
だからどの正義を選ぶのかが大事なことになる。
少女は聖女について考える。
ヘルミーナによって、ただ一つが正しい正義であると誘導された子供をどう思うか。
「お母様、私、聖女様に言いたいことがありますわ。」
「なぁに?」
少女は母を見習い、ある動作をする。
「もう少し、自分の頭で考えろ」
そう呟き、少女は親指を立てた。
ただし下向きに。
「あはははは!」
母はそんな少女の様子を笑いながら眺めていた。
なお、聖女アリシアが自分がこの国に来たことで死んだ人間がいることを知る機会は一生ありません。