出会えた理由はフォルテの願い
6月某日。日曜日の午前に早起きした理由はたった1つ。今日は楽しみにしていたピアノの演奏会があるからだ。いつもは昼前までそこからダラダラとテレビを見たりガーデニングをするのがテンプレート。でも今日はそんなテンプレートは通じない。
『もしもし』
机の上で震えていたスマートフォンを手に取る。相手は中田先生だ。恐らくいつ頃こちらにつくかの連絡だろう。
『もしもし、中田です。もう30分くらいで着きます』
端的な連絡だった。そして内容は予想通り。
『わかりました。では家の前に出ておきますね』
『りょーかいです』
電話は切れ、スマホを机に置き、準備を始める、急いで。僕は少し寝坊してついさっき起きたばかりだ。朝ごはんは食べてないし服も着替えてないし、歯も磨いてないし、寝癖も直してないしでめちゃくちゃだ。さっき先生には冷静な対応をしていたけれど内心ものすごくあせっていた。朝ごはんは最悪食べなくてもいい。それを抜けばなんとか間に合うだろう。まずは急いで歯を磨く。顔とかを洗うときに服に水が散るのが嫌だというごく普通な理由だ。
ピアニストか。誰が来るんだろう。僕はピアノを弾いているだけで、ピアニストに詳しいわけじゃない。バドミントンは好きだけどバドミントン選手を知らないのと同じ理論だ。でもプロのピアノを聞く機会なんて生涯に一回あるかないか。今日は貴重すぎる日になりそう。
特に特別な誰かに合うわけでもないのに寝癖や服の見た目を気にしてしまう。
準備がなんとか間に合い、よしっと気合を入れた刹那、玄関のチャイムがなった。
「はーい」
玄関を開けると中田先生がいた。
「先生、外に出ておいてと言ったじゃないですか」
おっと、忘れていた。中田先生は不満気に頬を膨らませた。
「ごめんなさい。思ったより準備に時間がかかってしまって」
ホントは嘘だけど。適当にそれっぽい言い訳をつける。
「行きましょっか」
表情が明るい笑顔に変わった。僕は荷物を取りに一度リビングに行き、玄関を出て鍵を閉めた。トントンとかかとを鳴らし靴を履く。
中田先生はそのイメージ通りの車だった。水色で、丸っこい目をしたライト。僕が欲しかったタイプによく似ている。
「この車いいですね。このデザイン好きなんです」
「わかります?可愛いですよね」
先生が車に乗り込んだのを見て助手席の扉を開けた。
車なんて高価な買い物まだできない。家から小学校までも徒歩圏内だし、田舎だけど近くにスーパーもある。1日に5本から6本バスも走っている。だから今は車を買う必要はないのだ。
「学校へは、この車で?」
車はとっくに走り出しており、いつの間にか赤信号で停止していた。
「普段は自転車です。飲み会とかのときに帰れなくなるので。だから車で来るときは飲み会には参加しないようにしているんです!」
謎にガッツポーズをされ困惑した。社会人になってからは飲み会も増え、いわゆる大人の付き合い方というのを学ばさせてもらっている(自分で思ってるだけ)。一週間に一度話は必ず大勢の先生を連れて居酒屋に行くこともある。曜日は大体金曜日。理由は次の日が休みだから。田舎の小学校は特に土日に出勤してまでする仕事がないので、2連休をもらえることが多い。
「先生、飲み過ぎちゃいますもんね」
「この前は平気でしたよ。自分でも抑えたほうです」
この前とは、多分この日のことについて話したあの日のことだろう。先生の言う通り、酔ってはいたものの、いつものように泥酔して寝てしまったりいきなり訳のわからないことを言ったりはなかった。
「普段がやばい自覚はあるんですね」
痛いところを突かれたのか、先生は頬を赤らめた。
「ほ、ほら、もうすぐ着きますよ」
話を逸らされてしまった。窓の外に目をやると、さっきとは打って変わって人が増えている。そして正面には会場であるアリーナの案内板があった。本当にもう少しのようだ。
「えっと駐車場は」
ピアニスト。それはピアノをあたかも自分の体の一部であるように、思い浮かべた音を具現化させる人。そんな人たちの演奏が見れる。あと少しで。
やっぱり人はすごくたくさん来ているみたい。ざっと見ただけで100人は超えている。
なんとか車を駐車場にとめることができた。そして既に会場は立ち入りが許されており、すんなりとアリーナへ入れた。
チケットは中田先生が予め取っておいてくれたおかげで、席へもスムーズに座れた。そしてその席が
「こんなことあるんですね」
「私も抽選してみてびっくりですよ。まさかセンターの1番前になるなんて」
これにはもう苦笑いするしかなかった。こんなに大きなアリーナの1番前、それもど真ん中。コンサートには行ったことがないからわからないけど、これがどんなにすごい確率だと言うことはわかる。ドームだと後ろの席からはほとんど見えないだろうけど、アリーナだから二階だろうが後ろだろうが多分関係なく見える。
それにしても、街1つ超えるだけでここまで人が多く集まるような大きなアリーナがあるんだからすごい。僕の住んでいる街はお世辞にも都会とは言えない。小学校には児童が全校で合わせて58人しかいない。そんな街はどのつく田舎と言える。そこから車を1時間も乗れば別世界のような都会が顕現する。
中田先生はカバンの中からパンフレットを取り出し、再び誰が出るのかを確認して優越に浸った顔をしている。
「そんなに凄い人が出るんですか?僕ピアニストとか完全無知なものでわからないんですけど」
「ほんとに音楽の先生ですか?そこまで疎いのは珍しいと思いますけど」
疑わしい視線を向けられ、一歩下がった。
「米倉志音って知りません?」
米倉志音。志音?!
「志音?!志音って…」
「心当たりがあるんですか?」
「いえ、昔の知り合いに同じ名前がいたので、でもそんな訳ないですよね」と割り切る僕に対して、中田先生は、顎に手を当てて何かを考えているようだった。
「わかりせんよ。その人かもしれませんよ」
「…いやそれは…あるかもしれないですけど」
あまり前向きにはなれなかった。例え本人だとしても、僕は会いたくない。
そんなモヤモヤした心のままコンサートは始まった。演目としては、1人2曲ずつ演奏し、それを10人で回すというもの。そしてそのフィナーレを飾るのが宮崎四葉だった。本当にその子かもわからない。今でも顔は覚えている。あんなに可愛い子はあの日以来出会っていない。だから一度見たら本人かどうか一発でわかるだろう。
『さあ、フィナーレを飾るのは米倉志音さんです』
そのアナウンスの刹那に会場は大盛りあがりとなった。隣の中田先生も大騒ぎだ。それだけでどれだけ人気かがうかがえる。
そして登場した宮崎四葉。白を貴重とした、袖がひらひらレースの服。天使のような服装だ。
「こんにちは〜」
両手を振り挨拶をされた。それに答えたファンは手が取れるんじゃないかと思うほど激しく手を振っている。その声は、男だった。男子にしては高いが女声というわけではない。よく見ると手の甲にはくっきりと血管が浮かび上がっている。ほらやっぱり人違いじゃないか。少しでも期待した自分が馬鹿らしくなった。呆れた中でも、向こうはそんなこと知るはずもなく演奏は始まった。
「それではまず一曲目です。聞いてください、梅雨の夕立ち」
その演奏を聞いて僕は目を丸くするした。優しいタッチからは想像できないほどの太い音。連鎖する音の中でひとつひとつ鮮明に聞こえる音階。寂しい題名から想像される繊細でおとなしいメロディ。その音1つに思いがあり感情がある。
5分ほどだったんだろう。それでもものすごく早く、記憶に残る曲だった。自分が音楽の先生を名乗るのが恥ずかしくなるくらい雲泥の差だった。
「ありがとうございました。では最後の曲です。今回はフィナーレという大事な役割なので、明るい曲を持ってこようと思いましたが、こういう舞台だからこそ、自分の1番思い入れのある曲を持ってきました。この曲は昔の実体験をもとにしました。聞いてください『初恋の記憶』」
そこからの記憶は感動しすぎたのか無く、あとから中田先生に聞けばボロボロと涙を流していたらしい。大の大人が恥ずかしい。
「少しトイレに行ってきます」
「わかりました」
恥ずかしさを取り繕うために僕は用もないトイレに逃げ込もうと思った。
はあ、なんで泣いてたんだろう。ピアノの演奏とか技術には感動したけれど、別に歌付きでもない。なのに、なんで…
「…!?」
人気の少ない通りを通っているとき、突然何者かに押し倒された。正直死を悟った。
「探したよ。四葉」
どんなに離れていても、私が誰かを思うように誰かは誰かに必ず思われていると思います。