極北島は国になった
カラリットという、大陸と価値観も慣習も言葉も全く異なる人々との出会いは、極北島人を揺るがした。
特に大きな変化は、カラリットが持ち込んだ『生きたトナカイ』によってもたらされた。今まで人力か船に頼っていた輸送が、トナカイという畜力を得たことで活性化したのだ。
この影響は大きかった。極北島人は更に稼いで確実に穀物を輸入出来るようにするため、様々な産業を発展させようと考えた。
しかし、村毎にバラバラに動いたところで上手くいくはずがない。聖暦一一六〇年の年明け、極北島各地の村は連名で『スィング』を宣言した。
『スィング』
それは極北島の村どうしの争いを解決する場のことで、二つ以上の村が宣言することで『スィングの岩山』に極北島全ての村長が集まって開催される。
この場で決められたことは神々の前で決められたこととされており、もし破ればその村人全員極北島から身ひとつで追放される、と決められている。
神々の前で決められたことを破った者は聖暦一一六〇年までに三人出ており、その三つの村人は全員極北島の北『北極海』に追放され、全員凍死が確認されている。
それほど厳格な会議が、スィングなのだ。
聖暦一一六〇年の春も、クリムトヴォール火山噴火の影響が抜けきらず遅かった。
大地がぬかるむ中、スィングの岩山に極北島各地の村長が集まり『産業発展』について会議が行われた。
「村毎に自給自足を目指すのではなく、地域毎に分業すれば良い」
結論は簡単に出た。
全土で羊やトナカイの畜産は続けるものとして。
北西部は捕鯨と漁業。
北東部はベリーとキタカンバの炭、木酢液、木タール。炭焼きの熱を流用して作られる塩。
南東部はキタカンバの建材、シロップ、酒、縄。蜂蜜と蜜蝋。
南西部は羊毛の服。造船。海草灰。
それらに特化するものと決定された。
また、新たな産業を興したり、生産量や輸出量を相談するため。村毎にモノを融通しあうため。スィングを毎春開催することも決められた。
同時に、対外的に『極北島の団結』を示すため、数年話し合って極北島の旗と国名を決めることも、決められた。
スィングの常設が決められた聖暦一一六〇年をもって、極北島は国になった、とされるのが、歴史学者の間では主流だ。
法律家は聖暦一一六三年に国旗と国名『ノーザラント』が決められた時を建国の年として争っているが、聖暦一一六〇年代に『ノーザラント人』というアイデンティティが生まれたのは、間違いないだろう。