オースタドッティルは煙を集めた
ニャーハエー村は『キタカンバ林業発祥の地』ビョルンウース村の隣にある村で、ビョルンウース村に次いでキタカンバ林業に村を挙げて取り組んだ歴史のある村だ。
しかし、ビョルンウース村より内陸に位置するこの村では、キタカンバを薪の状態で運ぶには道が悪く、町まで距離があることもあり、キタカンバ材を薪よりかさ張らない炭に加工して売っていた。
そのための窯も作られており、炭焼きの季節になると窯の熱を使ったサウナが村人達の楽しみになる。そんな村だった。
そんなニャーハエー村の村長一家の奥さん、オースタドッティルは毎年悩んでいた。
「また洗濯物が酸っぱくなっちゃってるわ!」
炭焼きの季節になると、ニャーハエー村は煙の酸っぱい臭いに包まれる。その臭いは強烈で、部屋干しにしても洗濯物に酸っぱい臭いが移ってしまうのだ。
「母ちゃん、この服臭いよー」
「くちゃいー」
この時二児の母であるオースタドッティルもその二人の子供も、この季節の臭い服が嫌だった。
「この季節は臭いわー」
「本当ねえ」
毎年この季節の井戸端会議の内容は決まっていた。
「服が灰だらけになっちまった」
「灰だけなら良いじゃねえか。俺の服は煙の臭いだぞ?」
「うわ酸っぺえ!」
炭焼き窯で働く男達の話題も決まっていた。
つまりは、ニャーハエー村の誰もがこの臭いに辟易していたのだ。
そこでオースタドッティルは考えた。
「炭焼き窯の煙突を伸ばして、村の遠くに煙が行くよう出来ないかしら?」
彼女の提案に村人の誰もが賛同し、その年のうちに煙突が伸ばされた。
しかし、突貫工事で煙突の先に据え付けられたキタカンバ材を組んだ筒は途中でひび割れ、そこから煙が逃げてしまった。
「駄目かあ」
誰もが肩を落としたが、オースタドッティルの息子ニャールソンは気付いた。
「ひびからおしっこみたいなのが出てるよ?」
言われてみれば、何だこれ? と村人達はその液体を捨てる予定だった木のジョッキに貯めた。
「酸っぱ! 凄い酸っぱい臭いがするわ!」
あまりに酸っぱい臭いがするその液体に、オースタドッティルは思った。
「これ、染め物の酢の代わりに使えそうじゃない?」
極北島の伝統的な染め物は、キタカンバの樹皮や泥炭に生える苔を酢と灰汁で処理して行われる。羊毛を朱から紫に染める技法は、母から娘へと受け継がれる大切なものだった。
ここまで酸っぱい臭いがする液体は、怪しいから食品には使いたくないが染め物の酢の代わりになるのでは、と彼女は考えたのだ。
同じように考えた村人は多く、すぐさま染め物が行われた。
「これは凄い!」
朱から紫に鮮やかに染まった布は、今までのものより発色よく、なおかつ色落ちしにくかった。
キタカンバの煙を集めて得られる『木酢液』を使った鮮やかな染め物は、聖暦一〇八六年、ニャーハエー村から始まった。
ニャーハエー村の綺麗な布に憧れた極北島各地の女達の圧力によりその製法は公開され、聖暦一一〇〇年までには、極北島中の炭焼き窯に木酢液回収のための管が付けられた。
炭焼き窯の酸っぱい煙の臭いはかなりマシになったようで、この辺りの時代から『炭焼きの酸っぱい臭いがする』という記述が見られなくなる。