天使が奇跡をおこすとき
天使がどうして生まれて、どうして消えていくのか、僕はずっとわからなかった。
あの日、奇跡が起きるまで。
僕は、指南役を兼ねて新入り天使のアオとコンビを組んで仕事をしてる。……んだけど、アイツはいつも勝手気ままにどこかに行っちゃうんだよね。だからいつまで経ってもビギナーのまんまでさ。
そろそろ別の奴と組ませてほしいって、お上にクレームを入れようか本気で悩んでたときのこと。
アオがまたいつものようにフラフラとどこかに行って、僕はイライラ半分、やけくそ半分で彼を探してた、そんなとき。
先輩天使が自分の燻る想いに終止符を打って、雪の降る朝、季節外れの桜を咲かせた。
白くてふわふわの雪と、薄桃色の花びらがひらひら舞う様子は、誰が見たって綺麗だったよ。風が吹いて舞い上がる花びらが、ゆっくり降りてくる雪と一緒に僕の周りをくるくるまわってさ。
先輩天使の想い人にとっても、一生忘れられない光景になったと思う。
まさかこれが天使の仕業だとは、思わないだろうけどね。
天使たちが天使をやめるとき、彼らはみんな大切な人の幸せを願ってお土産を置いていくんだ。雪の日の桜もそう、入学式の大雪もそう、十五夜の紫陽花もそう。
幸せを祈るなんてカッコイイこと言ってて本当は、ボクを忘れないで、ボクに気づいて、って女々しい気持ちもあるんだろうけどね。
頭の上の輪っかをとって、ぐしゃぐしゃに砕いて、幸せになれって祈りながら空からばら撒く。
輪っかを失った天使は天使じゃなくなるし、祈りを帯びた砕けた輪っかは、小さな奇跡を生むんだって。
あのとき、先輩天使がばら撒いた輪っかの欠片を食べちゃった人間がいた。
それは事故だと思うけど、もしかしたら運命だったのかもしれない。
短いスカートと分厚いコート。栗色の髪をまとった彼女は、桜を見て足を止め、隣に佇んでたアオに気づいて瞳を大きく開く。ぱくぱくと何か呟いて、アオは彼女を振り返る。
ふたりの視線が重なったとき、僕には舞い踊る雪と花びらがピタリと止まったように見えた。そして次の瞬間には、彼らと僕の時間が急速に動きだしたんだ。
「天使の仕事ってなに?」
「いろいろあるよ。天使にも役割ってのがあってさ、いちばん偉いのが……」
「美莉ちゃんは僕らの仕事について聞きたいんじゃないの」
季節外れの桜が舞う衝撃の出会いから、僕らは3人で――いや、ひとりとふた天使で行動することが多くなった。
アオは美莉ちゃんに執着してるみたいだし、僕は僕で人間と話ができる奇跡に興奮してたから。
天使は孤独なんだ。ヒトは誰も僕らの存在を知らない。目の前にいても見えてない。僕らはただ黙々と仕事をこなすだけ。ね、孤独なのもわかるでしょ?
同僚から聞いた話によると、満開の桜を咲かせた先輩天使は人間に恋をしてたらしい。孤独な僕らと違って人間は目がキラキラしてさ、綺麗だもんね。納得。
まぁ……この美莉ちゃんは別だけど。茶色の瞳がなんか虚ろっていうか。
近場の高校に通う彼女は放課後、駅から自宅までの道すがらに公園に立ち寄って、僕らと話す時間を作るようになった。
子どもたちが帰ったあとの静かな公園で、缶ジュースを飲む美莉ちゃんを囲みながら世間話に興じるのが日課ってわけだ。
「そう。アオとハクのお仕事」
「亡くなった人の魂を、迷わないように天に連れて行くんだよ」
「連れてくどころか、俺のほうがまだ迷子になるってのにな」
うっすらスミレ色になった空を指さす僕と、肩をすくめるアオ。そして苦笑する美莉ちゃん。平和な日常。
本当だったら、事故とは言え天使の姿を見てしまった美莉ちゃんの記憶は、消さなくちゃいけない。
それをアオが断固拒否して今に至る。いや、アオだけじゃないね。僕もできればもう少しこのままでいたかったから、共犯だ。
お上に知られれば、アオも僕も……美莉ちゃんも、ただでは済まないと思う。でもヒトと話ができるって誘惑に、抗える天使がいるんだろうか?
「じゃあ、私がいつか死んだらアオとハクが案内してくれる?」
「もち――」
「やだね! ばーかばーか! 死んだらなんて縁起でもねぇこと言うなよバーカ!」
「バカなんて言ったらだめだよ、アオ」
反抗期の男の子みたいに拗ねた顔でアオがそっぽを向いた。
アオが天使になってから、人間の時間でまだ2年も経たない。だから中身もヒトだったときの年齢からそんなに成長してないんだよね。
見た目だけなら美莉ちゃんとそう変わらないけど、中身が子どもっぽかったら天使の威厳ってものが損なわれちゃう。ぜひ気を付けてほしいところだ。
そう。天使はみんな昔は人間だったって先輩天使から聞いた。
天に昇る魂は普通、次の生に向けて準備をする。生前の行いによって必要な準備は違うらしいけど、詳しいことを僕は知らない。
この仕事は、次の生への準備をしない魂がやる。……らしい。
どうして天使に選ばれたのか、同僚の誰も知らないんだ。僕も他の多くの天使と同じように、以前の記憶がない。気が付いたら天使として存在してたから。
「ふたりが迎えに来てくれるなら死ぬのも怖くないなって思ったのに。てか、アオは見た目はともかく精神年齢がガキだよね。それに引き換え、ハクは若く見えて大人の魅力って感じ」
「はぁ?」
こっちに近づく人の気配に、僕はじゃれるアオと美莉ちゃんを静かにさせた。砂利を歩く足音がさくさくと軽くて小さいのは、その人の履くヒールのせいだ。
「美莉。また道草してるぅ」
「若葉ちゃん。早いねー! 仕事もう終わったの?」
「外回りだったから直帰してきちゃったぁ」
スーツ姿の彼女は美莉ちゃんの従姉。フランス人形みたいな美莉ちゃんとは対照的に、日本人形みたいに艶々の黒いストレートの髪と、濡れたようなまつ毛が綺麗な人だ。
若葉さんがいるときは、僕らはふたりの会話を眺めてるか、仕事に出かけるかなんだけど。最近はこうして眺めてることが増えたかな。
「そういう時デートとかさー、するんじゃないの? 大人って」
「デートしてもいいって思える素敵な人がいたらねぇ」
「そうやって選り好みするから彼氏いない歴が年齢になるんですー」
「いたことありますぅ」
「えっ! 嘘!」
「……あれ? なかったわ」
「もー!」
暗くなった空、街灯の明かりだけが頼りの公園に、二人の笑い声が響く。
僕はこの時間が好きだ。ケラケラ笑う若葉さんが、好きだ。
帰ろうかと近所に住むふたりが立ち上がって、僕らはそれを見送って日課が終わる。ずっと続いて欲しい平和な日常。
◇ ◇ ◇
日課のおかげで捕まえやすくなったアオは、仕事も覚えて少しずつ任せられることが増えた。だから季節外れではない桜の蕾が顔を出し始めた頃、僕らはよく別行動してたんだ。
お上に呼ばれて天上に出かける途中、僕は夜中の公園に若葉さんがポツンとひとりでいるのを見つけた。
歩いても砂利は鳴らないし、飛んでも翼は彼女の髪を揺らしてはくれない。
僕という存在に気づいてもらえなくても、ただ俯く若葉さんのそばにいたくて空から降りる。
「……やっと来た」
ベンチに腰かけて、チューハイの缶を握っていた若葉さんがゆっくり顔をあげて呟く。
思わず周囲を見渡すけれど誰もいなくて、深酒してるんだなって僕は顔をしかめた。
すぐそばにいないと聞こえないくらいの声量で、若葉さんの独り言が続く。
「これは、お兄さんのほうかなぁ。いつも美莉の相手をしてくれてありがとうねぇ」
「僕が、わかるの? 見える? この声が聞こえてる?」
天使として目を覚ましてから8年。僕も天使歴が長いとは言えないけど、こうも立て続けに天使と話ができる人が出現するなんて、驚きだ。しかもそれが若葉さんだなんて。
でも僕の小さな喜びは次の瞬間には儚く散った。
「今まで霊感があるなんて思ったこともないけど、最近たまに美莉のそばに誰かいるような気がしてたんだよねぇ。だからかなぁ。美莉がね、天使が見えるって言うの、信じちゃった。
こんな独り言いってるの誰かに見られたら、頭のおかしい人だと思われるよねぇ。ふふ、酔っぱらってるのかな。可笑し……」
目を合わせようとしても合わなくて、僕は大きなため息を吐いて隣に座った。
たまたま、若葉さんの独り言のタイミングに居合わせただけらしい。期待して損した。いや、期待した僕が馬鹿だった。
「美莉もあたしも、ずーっと心に虚無感があってさぁ。友達と遊んでても本読んでても仕事に打ち込んだって、いつも何か足りないんだぁ。大切なものが抜け落ちてるっていうのかなぁ」
手の中の缶を大きく煽って、息を吐いてからぎゅっと潰す。
若葉さんの目は潰れた缶を見てた。まるでそれが自分の心であるかのように、切ない目で。
「最近の美莉はその穴がちょっとだけ埋まったように見える。君たち天使くんのおかげかなぁ。羨ましいなぁ」
「若葉さん……」
震える肩に伸ばした僕の手は、何に触れることもなく脇に戻って来た。
「ねぇ寂しいよ。どこに行ったのかなぁ、君は」
若葉さんの手に、ひしゃげた缶に、ぽたりぽたりと涙が落ちる。
「君って誰――」
僕が呟くのと同時に、若葉さんが何かに気が付いたみたいに顔をあげて首を傾げた。
「あれ。君って誰のことだろう。誰を探してたんだろう、あたし。……へんなの」
ベンチから立ち上がって、ゴミ箱に向けて缶を投げる姿が僕の視界でダブって見えた。セーラー服を着た女の子と、スーツ姿の若葉さんと。
「ハクくん、だっけ。まだ近くにいるよねぇ。愚痴、聞いてくれてありがとねぇ。なんだか懐かしいような切ないような気持ちになってさぁ……」
顔を上げた若葉さんは、一度だけ目元を拭うような仕草をしてから公園を出て行った。
僕はそれを追いかけられない。
なんだったんだろう、今のは。誰だったんだろう、あの子は。すごく、忘れちゃいけないことのような気がするのに、何も思い出せない。
どうして僕は、天使なんだろう。
「ハク、こんなとこで何してんだよ。お上に呼ばれてるって言ってなかったっけ?」
ぼんやりしていた僕に、通りがかったアオが声を掛けてくれた。
そうだ、若葉さんの姿を見かけて思わず寄り道してしまったけど、早く行かなきゃ。
「やっば。ちっと行ってくる。あんまりフラフラするなよ」
「もう一人前だっての」
頬を膨らませるアオに手を振って、翼を広げる。
高く高く上がると、同僚が魂を連れて昇っていくのがチラホラ見えた。彼らの表情がいつもどこか寂しそうなのは、仕事のせいだろうか。僕も、あんな顔をしてるんだろうか。
◇ ◇ ◇
「ここにハク。ニコニコしてる。こっちにアオがいてー、ちょっと照れてる」
「照れてねぇよ」
「あはは! 照れてないって怒られた」
こんな会話で美莉ちゃんが僕らを若葉さんに紹介したのは、若葉さんがチューハイを飲みながら泣いてた翌日のことだ。
このとき、仲いいねって微笑みながら視線を上げた若葉さんと、やっと目が合った気がしたんだけど……。彼女の視線はすぐふらっと何かを探すように揺れた。
わかってたけど、彼女の黒い瞳は僕を映さない。
そんな風にして、いつもの日課に若葉さんが加わってから10日が経った。
この10日のうちに2回くらい、若葉さんが夜の公園でぼんやりするのを見た。
隣に座る僕に気づいてるのか気づいてないのか、「なんか寂しくてねぇ」って一言こぼす、それだけのことがすごく印象的でさ。
無意識に若葉さんを目で追ってた僕の周りを、強い風が吹き抜ける。ぶわっと広がった彼女の黒い髪が輝いた。
「若葉さんは、髪、染めたりしないんだね」
なんとなく呟いた言葉を美莉ちゃんが伝えると、彼女は首を傾げて不思議そうに答える。
「昔ね、褒めてくれた人がいるんだよねぇ。この髪が好きって。だからお手入れは念入りにしてるんだぁ」
「ええっ! 誰、男の人? まさかホントに彼氏いたとか……?」
「いやいやっ。覚えてないの。夢でも見てたのかもしれないねぇ」
抜け駆け反対と騒ぐ美莉ちゃんに、ケラケラ笑う若葉さん。僕はこの時間がずっと続けばいいのにって、目を伏せた。
あの夜僕はお上――つまり神様から、ふたりの記憶から僕らの存在を消すこと、美莉ちゃんが食べてしまった輪っかの効果を消すことを、ついに申し渡されてしまったんだよね。
「ハク、最近元気なくない? 大丈夫?」
「え、そうなの? 天使も疲れたりするのかねぇ」
「気のせいだよ、大丈夫。ありがとうね」
「そっかー。気のせいだって。心配性の若葉ちゃんも安心だね!」
「どういう意味ィ?」
僕は笑い合う二人が好きだ。ケラケラ笑う若葉さんが好き。
いつか若葉さんが言ったように、確かに美莉ちゃんは出会った頃と比べたら笑顔が増えたように思う。若葉さんも。
もし僕らが彼女たちの世界からいなくなったら、ふたりはまた虚無を抱えて生きていくんだろうか。
「なぁ、お上からなんて言われたの」
ふたりを見送ったあとで、アオがぽつり呟いた。それは小さな声だったけど、納得いく回答がなかったら怒るぞって圧を感じる。
「あるべき形にしろって言われたよ」
「どういうこと」
「アオもわかってるだろ。本来、僕らは人間と喋っちゃいけないんだって」
何か言おうと口を開いたアオが、ぎゅっと拳を握って俯いた。
「ふたりの記憶、消すの」
「うん」
「美莉の視界から天使を消すの」
「うん。期限は、今月中」
「あと一週間じゃん」
お上に呼ばれてから今日まで、僕はアオに言うことも行動することもできないままグズグズしちゃってたんだ。
アオと美莉ちゃんは、まるで運命の赤い糸で結ばれた恋人同士みたいに絆を深めていて、僕は彼らからお互いを取り上げることができずにいた。
違う。
もしかしたら、自分から若葉さんを取り上げる踏ん切りがつかないだけかもしれない。
「そろそろ覚悟しないと」
「……俺さ、ハクと違って昔の記憶があんだよね」
「え?」
「美莉は俺の幼馴染。大好きだった。絶対結婚するって思ってた」
アオは静かに翼を広げて空へ舞う。僕もそれを追いかけて地面を蹴った。
すっかり夜になったこの町は、家々の明かりと街灯が星空よろしく光ってる。
「生前の記憶がある天使なんて聞いたことないよ」
「でも俺にはある。だから、美莉が俺のこと何も覚えてないのや、実家に俺が生きてた痕跡が何もなかったのがショックだった」
「それ、ほんとにアオの記憶?」
自分が存在した痕跡がないんじゃ、正しい記憶だとは思えないな。そう言いながら、でも僕はアオの言葉を信じてしまった。
だって、最初にアオと美莉ちゃんが出会ったとき、美莉ちゃんは確かに「アオイ」って呼びかけたんだ。本人は覚えてないみたいだけど。
「やっと前みたいに笑うようになってきたのに、美莉をまた抜け殻にしたくねぇよ」
アオがいつもフラフラとどこかへ行ってた理由が、いまわかった。美莉ちゃんが心配だったんだ。
僕はなんて言っていいかわからなくて、意味もなく「でも」って呟いた。
「俺、若葉ちゃんのことも覚えてるよ。年が離れてるからあんまり話したことなかったけど、幼馴染だから」
「そ、そうだろうね」
「若葉ちゃん、彼氏いたことあったよ」
「あー、そうなんだ」
「東谷珀朗って人。調べたけど、そんな奴、存在した記録はどこにもなかったけどね」
アオが僕を見る。僕はどう返事をしたらいいかわからなくて、すごく腑抜けた顔をしてたと思う。
脳裏に、セーラー服の女の子が浮かぶ。艶々の黒髪が綺麗な子だ。
「ハクは思い出さねぇの? なぁ! いっつも悲しそうな顔してる若葉ちゃん見て、何も思わねぇのかよ! 記憶、また奪っちまうのかよ!」
――ハク、ずっと一緒にいてねぇ。死んでも、生まれ変わっても、ねぇ。
「僕らがやらなくても、お上が誰か寄こすよ。僕らの存在をヒトに知られるのは、良くないことだ」
僕の声は震えてた。視界が歪んで、天使でも涙が出ることを知った。
「俺は戦う。美莉と約束したんだ、一生幸せにするって」
「アオがいれば美莉ちゃんは幸せなの? 天使のアオと一緒にいて幸せになれるの?」
呆然とした顔が僕を見返した。
これはアオに言ったというより、自分に言い聞かせたが近い。僕は若葉さんが死ぬまで寄り添うことはできるけど、彼女がそれを知ることはない。そして、一緒に生まれ変わることもできない。僕はそういう存在なんだから。
だったら、余計なことは思い出さないほうがいい。
虚無を抱えてたって、きっといつか僕じゃない誰かが彼女を見つけて、傍でそれを埋めてくれるはずだ。
「俺は、過去の記憶を持ってることに何か意味があると思う。全力で抗った先に奇跡があるって信じてる」
そんなの、ただのバグだよ。記憶があるってお上に知られればそれも消されるって。気合入れるだけ無駄だよ。
「そっか」
浮かんでは消える言葉はどれも口から出ることはなくて、ただ小さく笑った。いいなぁって思いながら。
若葉さんを……若葉を、ちゃんと覚えてない自分には、そんな奇跡は起こり得ないんだもんな。
天使をやめた先輩たちの中には、僕みたいに薄っすら何か思い出して……そして絶望した天使もいたのかもしれない。
「だから――」
「うん。いいよ、付き合う。僕は誰の記憶も消さないから好きにやりなよ」
「……ハクも、できるだけ若葉ちゃんと一緒にいてやってよ」
それには返事をしないで、僕は仕事に向かった。
生きた痕跡があって、周りの人たちの心に残りながら死んだ魂を迎えに。僕ら天使とは違う魂を。
「わああああああああああああ!」
飛びながら叫んだけど、全然すっきりしない。
「羨ましいなぁ。記憶がある人も、生まれ変われる人も」
呟いても、僕の世界は何も変わらない。
◇ ◇ ◇
お上に言われた期限から2週間が過ぎて、美莉ちゃんは学年がひとつ上がった。天上からの使者はまだなく、平和な日常は保たれてる。
ふたりとふた天使は日課を求めて、土日でさえも夕方になれば公園に集まるようになっていた。
同窓会にほんの一瞬だけ顔を出して来たと笑う若葉と、デート帰りらしいアオと美莉ちゃん。
僕は、追われるように刹那の幸せを貪るアオと美莉ちゃんを見てるのが辛くて、若葉の様子がいつもと違うことに気づかなかった。
帰ろうと立ち上がった美莉ちゃんに、「お邪魔でしょうからぁ」って悪戯っぽく笑って手を振ったのさえ、特に何も思わず僕もアオを見送りに出す。
すっかり誰もいなくなった公園で、若葉がゆっくり立ち上がった。
「さて、と」
ついて来いと言われたわけじゃないけど、そういうことだろうと思って並んで歩いた。
駅のほうへ向かう若葉。
駅の向こう側はそれなりに栄えているけど、住宅街のこっち側には駅前に大きな文化センターがあるだけだ。
住民に開放されているその文化センターは、夜になっても侵入できるフロアがいくつかある。
5階まで上がってガラス張りの壁から外を眺めると、やっぱり家々の明かりや街灯が光ってて、空から見た時よりはしょぼいけど、でも温もりがあった。
「今日ね、同窓会に顔出したんだよねぇ。卒業から10年の節目だから、タイムカプセルを掘り起こすことになってねぇ」
ガラスに映った若葉の表情は、笑ってるようにも泣いてるようにも見えた。
「手紙が入ってたの。『10年後の私へ』ってタイトルのやつ。なんて書いてあったかわかるぅ?」
予想もつかなくて、たとえついたとしてもそれを伝える術がなくて、僕はただ若葉がバッグから手紙を取り出すのを見てた。
手紙を開く指先が少し震えているみたいだ。
10年も土の中にあったとは思えないくらい、綺麗で湿り気も感じられない紙がカサカサと音をたてて開かれる。
「見てよ。見える? ちょっと読んでみるねぇ。『10年後の私へ。元気にやってますか? どんなお仕事をしてますか?』……これだけ」
手元の紙を覗き見れば、確かに、最初に当たり障りのない言葉が並んで、それから20行くらいの空白を置いて「浅石若葉」と署名が入っているだけだった。
「有り得ないの。あたし、こう見えてちょっと頭も要領も良くてさぁ。手紙の内容に困るはずがないの、空白のはずがないの。絶対、絶対何か書いたんだよ。大切なこと、書いたはずなのぉ……」
「若葉……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、若葉はついにその場にくずおれてしまった。
肩を震わせて、顔を覆ってわんわんと泣く若葉に、僕の声は届かない。
「ねぇ、どうして、どうしてあたしなんにも覚えてないの? どうして貴方はどこにもいないのぉ……」
なんだよ。なんで僕は若葉に触れられないんだ。目の前の小さな背中ひとつあっためられなくて、何が天使だよ。
どうしたら若葉に僕を見てもらえる? 声を届けられる?
頭を掻きむしろうとして、僕の手は自然に輪っかに伸びた。
「そんな……でも……」
美莉ちゃんは輪っかの欠片を食べて天使が見えるようになった。
それじゃあ若葉もそうすれば。でも、でも、天使をやめた天使がどうなるか、僕は知らない。
頭の上のそれをぎゅっと握り締めたとき、まるで血液が逆流するような嫌な予感が体中を走って、顔を上げた。
「事故だ!」
魂を運ぶ天使は、人の死を予感することができる。
誰も迷わせないように、すぐに天へ案内できるように、スタンバっておくことが大事なんだ。
人にも物にも触れられない僕ら天使は、予感がしたところでそれを防ぐことはできないのだけど。
そして僕はたくさんの魂を運ばないといけなくなるような、大事故を予感してしまったんだ。
近隣の天使たちもきっと集まってくるだろう。僕も行かなくちゃいけない。
心細そうに震えて泣く、若葉を置いて。
「どこ行くのぉ!?」
半ば叫ぶような若葉の声が僕の背中を追いかける。
無力に苛まれるこの状況から逃げられることに、ちょっとだけホッとしてしまった罪悪感を抱えて飛び立った。
予想通り、事故が起こるであろう三叉路の真上には数人の天使がぷかぷかと浮かんでいた。
こんな時僕らはどうしても無口になるし、表情も暗くなる。人じゃなくなっても、人だったときの記憶がなくても、人の死はいつだって悲しいから。
三叉路の真ん中にある銀杏の木も心なしか寂しそうな、お葬式みたいな空気が漂う中で、アオがやって来るのが見えた。
「おい、アオ……」
他の天使たちから見咎められないように自然を装ってアオのほうへ向かう。
だってアオは、美莉ちゃんを連れて来ているんだから。そりゃあびっくりするよ。
「アオ、なんで美莉ちゃん――」
「嫌な予感がすんだよ」
「当たり前だろ、デカイ……事故なんだから」
大事故が起きるって美莉ちゃんに聞かせるのはマズイ気がして、声をひそめる。事故が起こる場所に若い女の子を連れてくるなんてどうかしてる。
トラウマ不可避じゃないか。
「そうじゃなくて、もっと、大事なものをなくしそうな、さ」
「だからって美莉ちゃん連れて来ちゃって、どうするの。他の天使に見つかったら言い訳できないよ」
人の命より大事なものがあるみたいな言い回しが、天使らしいなって頭のどこかで思った。僕らは人の死に慣れすぎちゃってるんだよな。
美莉ちゃんは美莉ちゃんで、僕らの口論なんてどこ吹く風といった様子でキョロキョロしていた。
ここで事故が起こることをアオから聞かされているなら、とんだ野次馬根性だ。
帰宅ラッシュで住宅街へ向かう車、駅向こうの繁華街へ向かおうとする人や車が入り乱れて、三叉路は今が一日で一番交通量の多い時間になる。
合流させる気のない速度で本線を走る車。側道のほうも、ずらっと並ぶ車の列とその車間距離にドライバーのイライラが透けて見える気がした。
無理な横断をする人物に、大きなクラクションが鳴らされる。もういつ事故が起きてもおかしくないような空気だった。
「うわぁ、天使ってあんなにいるんだねー」
中空に舞う天使の群れに気づいた美莉ちゃんが感嘆の声をあげたとき、僕の背筋に一際大きく悪寒が走った。
アオや、他の天使たちも同じだっただろう。にわかに空気がざわめいて、誰もが周囲を警戒する。僕は慌ててその場を離れ、三叉路の中心へ向かった。
「ハク! どこ!?」
ピリリとした空気を裂くように、若葉の声が三叉路に響いた。
信号のない横断歩道を、若葉はまるで僕の姿が見えるみたいに真っ直ぐこちらへ向かって来た。
「若葉! 来るな!」
叫んだって、僕の声は届きやしない。
止めようとして彼女の方へ飛ぶんだけど、僕の身体は彼女とぶつかることもなく通り過ぎた。
「ハク?」
僕の気配に気づいてしまった若葉が、立ち止まる。横断歩道の中ほどで。
決して止まり切れない距離から、人間だったら鼓膜が破れてしまいそうなくらいけたたましいブレーキ音とクラクションが迫る。
「走れ! 走れ走れ走れよ若葉!!」
なんでだよ! 天使の予知能力のせいで事故が起こるなんて本末転倒じゃないか!
「若葉ちゃんっ!」
「美莉!」
美莉ちゃんの叫び声がすぐ近くで聞こえて、一瞬だけ遅れてアオが叫んだ。
全てがゆっくり進んで見える。
若葉が美莉ちゃんに引っ張られて向こうへ倒れる。だけどそっちの車線にも車が迫っていて、やっぱり酷く急なブレーキをかけながらふたりに突っ込もうとしてた。
アオが美莉ちゃんに腕を伸ばすけど、天使が彼女に触れることなんてできるはずもなくて。
奇跡が欲しい!
若葉から奪った記憶の分、若葉に与えられなかった僕との未来の分、約束を反故にして悲しませた分、ぜんぶぜんぶ埋め合わせるだけの奇跡が!
頭上に光る輪っかを取って両手で粉々に砕く。破片が手に刺さるけどまるで痛くない。
空高く飛ぶ余裕なんてない。
手の中で淡く光る天使の証を、ありったけの祈りを込めて叩きつけた。
「若葉、生きてくれ! 幸せになってくれ!」
僕の声が聞こえたかどうかはわからない。
でも、輪っかを砕いて卒業していった先輩天使たちが、「忘れないでほしい」なんてちゃちな願いなんか持ってなかったことは、身をもってわかった。
ただひたすらに、大切な人の幸せだけを祈って砕いていたんだ。
僕が叩きつけた天使の証は、誰も予想しなかった突風を生み出した。
同時に、この三叉路の真ん中でヌシみたいに育った20メートル近い巨木の銀杏が、広げた枝からぐんぐんと葉を生やした。瞬きひとつ終えないうちに新緑が色づいて黄金へと塗り替わる。
目の前で生まれた突風は、黄金の葉を抱えながらぐるりと渦状に巻き上がって、若葉と美莉ちゃんを歩道まで投げ出す。さらにもう一つ強く逆巻いた風が車道の両側から迫る車を押し返して、ごろんと転がした。
突如発生した季節外れの竜巻。街灯に照らされた黄金色の葉っぱがキラキラ輝きながら渦巻く様は魔法みたいだ。天使の起こす奇跡なんだから、まさしく魔法なんだけど。
転がった車のさらに背後から迫っていた車もまた、本来のブレーキ性能を越えた力技で足止めされて、そして、沈黙が訪れた。
辺りは金色のカーペットを敷いたみたいで、誰もが……空を漂う同僚天使たちもみんな呆けた顔でそれを見てる。
僕は、自分の身体がうすらと消えていくのに気づいた。
若葉の無事を確認したくて前を向けば、真っ直ぐに彼女と目が合った。
「ハク」
彼女の声は掠れていて、とても小さかったけれど、僕の耳にははっきりと聞こえる。
「幸せを見つけて、笑顔でいて」
僕の声は届いただろうか?
わからないけれど、やっと目を合わせることができた、それだけで僕は満足だった。
大丈夫、僕のことはきっと神様が忘れさせてくれるから。
幸せでいて、若葉。
僕は眩しくて温かな光に包まれながら、意識を手放した。
――ずっと一緒にいようねぇ
約束守れなくてごめんな。
――生まれ変わっても、ねぇ
ああ。もし生まれ変わることができたら、きっと。