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第8話 剣崎のおじさん

 耕介が借りたアパートは家賃4万円で、お世辞にも立派とは言えなかったが、汚くはなかった。

 外壁は奇妙な緑色で、部屋は狭く、夜は隣の部屋の住人の寝息が聞こえるくらい壁が薄かったが、部屋の割には大き目のベランダがあり、何より耕介が理想とする立地条件だったのが決め手となった。


 その日は朝から良い天気だった。

 耕介は簡単な食事を済ませ、近くのホームセンターで1,890円で買った卓袱台の上に、50枚ずつに仕分けした一万円札の束と、キャンパスノートの『財を成すための2歩目』と書かれたページを開いて置いた。


 既にキャンパスノートには、次にやることが箇条書きにしてあり、耕介はそれぞれに掛かる費用を振り分ける算段をした。

 同じアパートには学生が多く、隣近所との交流は全くなかった。

 近くにはコンビニと喫茶店があり、素朴ながら、ジョギングには十分な大きさの公園もあった。


 耕介の描く2歩目には、メインとなる作戦の遂行と、3歩目への種蒔きの2つが含まれた。

 先ずはメインの作戦に取り掛かる為、耕介はキャンパスノートに思い出せるだけ沢山の『過去のヒット商品』を書き込んで行った。

 一つ思い出すと、イモずる式に次々と思い出し、ノート2ページ分の商品やブームの名前が並んだ。

 耕介はそれらを暫く眺めると、今度はノートを閉じてTシャツと短パンに着替え、ランニングシューズを履いて公園にジョギングに出掛けた。


 平日の午後の公園は人気もまばらで、小さな子供を連れた母親と何度かすれ違う程度だった。

 その中の子供の一人が、耕介を指差して「あーばーばー」と母親に何か問いかけていた。

 母親の方は、「そうね、お兄ちゃん走ってるねぇ。」と答えていたが、耕介はその光景を見て、もしかすると幼い子供には何か特殊な能力があって、耕介が未来から来たことを察知し、それを母親に伝えようとしているのかもしれないと思った。


 そんなくだらない事を考えつつ、公園の木々から漏れる光の中、流れる汗を『過去の大地』に染み込ませながら走るのは、言葉にならないほど心地が良かった。

 金儲けなんてやめて、今手元にある金で、アルバイトとジョギングだけして暮らして行くのも悪くないなと思った。

 『ひっそりジョギング生活』なんて本を出版して生活していけたら、どんなに幸せだろうとも思った。


 公園内を30分ほどジョギングし、公園からアパートまでの10分は歩いて帰った。

 シャワーを浴びて、濡れた髪をタオルで乾かしながらコーヒーを淹れた。

 近くの喫茶店に昼食を食べに行ったとき、コーヒーがおいしかったので、少し高いが豆はその店で挽いてもらったものを買っていた。

 耕介は安定収入が得られるまでは、「贅沢は何か一つだけ」と決めていたが、コーヒーがその座を獲得することになった。


 タオルを頭にのせたまま、コーヒーカップを持って洗濯機の置いてあるベランダに出た。

 ベランダから見下ろすと、駐車場で若い女が、黒いラブラドールとボールで遊んでいるのが見えた。

 女は金髪のショートカットで、黒いTシャツに黒いデニムを吐いていた。

 「黒色が好きな女だな」と耕介がぼんやり眺めていると、男が車でやってきて、女と犬を乗せてどこかに消えてしまった。もちろん車は黒色だった。

 男は車から降りてこなかったが、男の服も、きっと黒色だったのだろうと耕介は想像した。


 駐車場に誰もいなくなると、耕介もベランダから部屋に戻った。

 コーヒーを飲みながら、キャンパスノートを開き、ジョギング前に書き込んだ内容を見返した。

 「何か大事なことを決めるときは、頭が熱くなっているときに決めず、一度冷静になってから決めると失敗が少ない」という、祖母の言葉を耕介は信じていた。


 耕介は卓袱台の上に投げてあったボールペンを手に取り、キャンパスノートに書かれたヒット商品群に取り消し線を入れて行った。

 ペットを育てるたまご型のゲーム機や、スマートフォンで気軽にできるパズルゲームなどは、アイデア部分を支える媒体の開発、製造、広告に莫大な費用と労力が必要であり、それらを持つ企業に話を聞いてもらえるとも思えなかったので削除した。

 同じような考え方で次々に取り消し線が増えて行き、最終的に残ったのは10個程度となった。


 耕介はその残った10個の案を、時系列に並べてみた。

 耕介の記憶している10年程度の歴史の中で、耕介が実際にそのブームに乗れそうなものは、『歌』と『時計』だった。

 その他にも個人の力で何とかなりそうなものもあったが、ある程度の財力が必要となるため、直ぐに手を付けられないものは後回しにした。


 耕介は当面の行動予定と、それに掛かる費用をキャンパスノートに書いた。

 マルーン2の時と同じで、やる事がはっきりすると、後はそれに向けて行動するのみなので、耕介は心が少し軽くなったような気がした。


 耕介はポロシャツとジーンズに着替えると、卓袱台の上に置いてあった封筒をリュックに突っ込んで、スニーカーを履いて銀行に向かった。

 封筒には23万円が入っていた。


 耕介の記憶は相変わらず不安定なままだったが、いくつかはっきりとしたものもあった。

 その一つが『剣崎のおじさん』の記憶だった。


 耕介の記憶では、耕介の両親は耕介が小学生だった頃に、事故で亡くなっている。

 耕介は祖父母に面倒を見てもらったが、隣町に住んでいた親戚の、剣崎のおじさんが事あるごとに協力してくれた。

 父親参観日には仕事を休んで来てくれたし、運動会には息子の孝也と一緒に、弁当を持って参加してくれた。

 耕介が高専に合格した時には、涙を流して喜んでくれた。

 おじさんが、入学金と寮費の全額を肩代わりしてくれたので、耕介が「バイト代で少しずつでも返済したい」と申し出ると、「金がある時は、じいちゃんとばあちゃんに会いに行って、一緒に旨いものでも食ってやってくれ。」と笑ってはぐらかし、受け取ってくれなかった。


 そんな剣崎のおじさんが亡くなったのは、耕介が社会人になって間もない頃だった。

 後から聞いた話では、投薬すれば助かる可能性もあったらしいが、その頃承認されたばかりのその新薬は、2億円と言うべらぼうな値段で、更に新薬のため、その効果も保証されないとの事だったらしく、おじさんは「家族にそんな負担を残して死ねない」と言って投薬を断ったという。


 おじさんは病床で、「耕介から、入学金の返済は受け取らないように。」と家族に伝えていたそうだ。

 耕介はその記憶が甦るたび、おじさんが闘病する姿を想像し、目頭が熱くなった。


 耕介の計算では 『今』なら、まだおじさんは生きていて、薬に悩むのはもっと『先』のはずだった。


 銀行に着くと、耕介は23万円を封筒から取出し、ATMで剣崎孝也の口座に送金した。

 孝也がその金を受け取るかは分からなかったが、「おじさんは受け取ってくれないけど、僕の感謝の気持ちなので、家族に何かあった時にでも使って欲しい。くれぐれもおじさんには内緒で。」というメッセージを携帯で入れておいた。

 ATMの前に立つと、スラスラと孝也の口座番号を入力できることに驚いたが、もしかすると、何度か送金したことがあったのかも知れない。

 相変わらずな曖昧な記憶に、耕介は軽い溜息をついて銀行を後にした。

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