エピローグ
江戸の街は壊滅した。
活気に満ちていた江戸の街はそんな言葉で満ち、人々の心は完全に折れていた。
復興は不可能だろう。
民の心が幕府から離れたからではない。単純に、大火事という災害に心を折られたのだ。
先の事など考える余裕など無い。目の前の現実に気休めを嘯けるなら、その者の頭は元から幸せに逃避している。
ただ食べられる物があれば食べるだけ。
食べられる物があるだけマシか。と思うぐらい、たった一つだけ残された我が身の食欲だけに向けられる。
きっと、食べられる物が無くなれば暴動が起きて、江戸は本当の終わりを迎える。
江戸の惨状が知れ渡れば、徳川を見捨てる藩主が出てくるだろう。
他国では江戸を手に入れるため、徳川との戦の準備をするだろう。
いや、こんな焼け野原を欲しがる藩主などいないか。
……申し訳ない。
拙者の出来る事は、紀州藩の者が江戸を抜け出すまでの間、蔵にある米を民に与え、暴動の日を一日でも遅らせる事ぐらい。
……申し訳ない。
子供だから殺される事は無い。ただそれだけの理由で拙者は配給役を任された。
国の為、徳川の為、民の為と学んできた勉学や剣術など何の励ましになる?
他国からの物資はいつ届く?
一〇〇万都市の江戸を満足させる物資があるなら、自国の民へ与える。
……徳川の世は終わり、戦国時代に戻る。
徳川の平和な世があってこその勉学や剣術だったのだ。
藩邸からの配給は、我身可愛さで一時凌ぎに与えるだけ。ただの時間稼ぎであり、藩邸へ押し掛けてくる者を減らすための手段。
国を立て直す為ではない。
民を救う為ではない。
徳川の復興政策の時間稼ぎではない。
……ただ、逃げるため。
紀州藩そして自分を助けるための逃げ道を作るため、後から紀州藩は活動していたと嘯く為の配給。偽善だ。
拙者に出来るのは、このおにぎりにタクアンを二枚乗せるだけ。
の、はずだった。
「私は見習い女神のハトルテ」
神々しく輝きながら空中に浮く少女、女神様。
突然、配給場に現れた異質な存在に、全ての者が意識を思考を厄災に満ちる心を奪われた。
優しく包み込んでくれる美声の一言一句。恐れ多さから芽生える感情は畏怖へと変わるが、女神様の美声は恐れる事を許してくれない。
ただただ優しさだけを心に残してくれる。
天上の美を具現化した存在感、その優しさに身体は素直に反応し平伏していた。
助けてください!
そう、言いたかった。
そう、口に出したはずだった。
「ははぁ!」
だが、出したはずの言葉は声にはなっていなく、ただただ平伏しているだけだった。
……助けてください! お願いします! 助けて、助けて、助けて、助けて——
女神様の輝きが増し、民が癒され、暗雲が包んでいた江戸に太陽の光が差し込んだ。
……あ、ありがとう、ござい、ます。
拙者の心の声が届いたわけではない。
女神様は、大火事に耐え抜いた民に恩恵を与えたのだ。拙者の心労が和らいでいるのは、そのお溢れを頂いたにすぎない。
「〜〜御礼に私の加護を与えます」
名も知らない火消しの頭に御言葉をかけられた女神様は、彼に御加護を与えられた。
神々しく広げられた白い翼。その羽はどんな金銀財宝も錆びて見える存在感を放ち、ふわりと空中で遊ぶと頭の胸へと吸い込まれた。
……頭は人の力だけでは辿り着けない高みの者に成った。
我々、徳川の者よりも……否、人と比べたら女神様への不敬になる。
女神様に眷属として認められる。それは歴史上誰も為し得なかった偉業。
それだけの事を、頭は大火事の中で成したのだろう。
……頭、いや、眷属様。心から尊敬するでござる!
これからは眷属様が先頭に立ち、江戸を復興させ、天下の政をすれば日本は安泰だ。
……それが良い。それが正しい在り方だ。
その在り方の中に、拙者がお手伝い出来る事があれば、逃げる事しか出来なかった拙者に償う機会があれば、と女神様と眷属様を見ていたら、なんと女神様がお声をかけてくださった!
「長いお名前ですね。貴方の事はゴザルと呼びます」
どうやら拙者の名乗りは届かなかったらしく、女神様にゴザルの名を頂く結果になった。ゴザルか……うむ、ござるは言い難いから普段は使わないけど、この機に会話をする時はござるを使う事にしよう。
「あと、ゴザルは外で遊びなさい。家にひきこもってばかりだと、不健康になります」
家の外で遊ぶ許可まで頂いた!
なんという事だ。しかし父上が……否、女神様という征夷大将軍以上の存在に許可を頂いたのだから、父上も文句は言うまい。
拙者は外で遊びたかったのだ。
活気のある江戸を歩き回ってみたかったのだ。
名を授けてくれるだけでなく、拙者の健康まで考えてくださるとは……女神様、一生付いていきます!
……拙者のこれからは女神様と眷属様と共に江戸を復興させ、天下泰平の世に――
しかし、女神様は天界へ帰られてしまった。
女神様はお忙しいようだ。仕方ないのだ。また戻ってくると言っていたので、不敬にならなければ、今は心から女神様を応援する事にしたい。
……女神様が留守の間、拙者は何をすれば良いのだろうか? 女神様は『神々は地上の国を治める者ではなく見守る者なので、眷属が国を治める事はありません』と言っていた。それは女神様と眷属様は政をしないという事だ。しかし、江戸、日本が女神様に心労を与えるような居心地の悪い国ならば……これはマズい。女神様は他に何か言ってなかったか? 思い出せ、思い出せ、思い出せ!
拙者が女神様の言葉を脳裏で反芻していると、民が、眷属様がこちらを見ていた。
拙者だけでは何も出来ない。しかし、紀州藩という後ろ盾が有れば眷属様も動きやすいはず。
拙者は眷属様と対面し、裾と襟を伸ばして姿勢を正すと、眷属様を見上げる。
「眷属様、これからどうしたら良いか御指示をください、でござる」
「……新之助様、某は女神様の眷属でも、女神様が居なければ一介の火消しです。みんなが驚いているので止めてください」
「そうはいきませぬ。拙者は徳川御三家とはいえ一国の民。国や世界を守る女神様の眷属様に礼儀を尽くさなければなりません。今後、紀州藩は女神様そして眷属様のために有ると思ってください、でござる」
下克上の世の中では、明日に立場が変わっている。今の江戸も政の向かい先では、立場など安く変わる。拙者はその辺の教育も受けているから大丈夫だが……。
「某に背負えるとは思えません。新之助様、眷属の仕事は女神様が戻って来てからなので……詳細は女神様と話し合われてからでお願いします」
「うむ、そうか。そこまで言うなら……」
眷属様は困っておられる。
先程までは拙者の立場が上だったから、急には変えられないようだ。
落とし所は拙者的には納得できないが、眷属様に不便を与えるわけにもいかぬ。
「それでは……頭殿でよろしいですか? でござる」
「はい、できれば敬語も止めてくださると助かります」
「女神様への不敬になりませぬか?」
「女神様に聞かねばわかりませぬが、某の行いが女神様の不敬にならなかったので、大丈夫かと」
「そうですか……うむ、承知した」
さて、拙者と頭殿の立場をはっきりさせたところで、次は女神様が江戸に戻ってきた時の為、復興するだけではなく、江戸を女神様の住みやすい街にしなければならない。
そのためには女神様の情報が必要だ。
「頭殿、拙者は女神様の事を知りたいゆえ、ここに居る者を紀州藩邸に招きたい」
「ここの者だけ紀州藩の恩恵に……いや、お互い様ですな」
「うむ。頭殿の思ったとおり、どこの藩邸も民を助けられない。米が尽きる前にそれぞれの国へ逃げる。しかし、紀州藩邸に頭殿が来てくれれば、紀州藩は最後まで江戸の復興をできる。贅沢はさせられないが、手を貸してほしい」
「かしこまりました。あそこに居る盗っ人はどうされますか?」
「盗っ人?」
そんな者を女神様の御前に……ん?
「頭、あの盗っ人は処刑されているのか?」
「いえ、女神様と子供たちが、確実に安全な見張りをするために拘束したようです」
……拘束、なのか? いや、女神様が拘束と言うなら拘束なのだろう。
「拘束か……うむ。火事場の盗っ人など卑怯千万、そんな者にまで慈悲を与えるとはさすが女神様。しかし、女神様が盗っ人を生かしているなら、女神様が戻られるまで紀州藩で預かるしかあるまい」
「そ、そうですね。女神様が戻られるまでは、普通の牢屋に入れておけば良いかと」
「うむ。女神様が生かしている者を拙者らがどうにかしては不敬になる。女神様が戻られるまで普通の牢屋に入れておこう」
盗っ人、お主は十分に罪を償っていると思うが、拙者らにはどうする事もできぬ。
「平常時なら軟膏を分けてやれるが……いや、女神様の癒しで盗っ人以外は傷が無いな。頭殿、女神様が癒しを与えなかった盗っ人を治療するのは不敬になるか?」
「処刑をしないで生かしていますので、盗っ人には生きて罪を償わせようとしている……と思われます」
「うむ。拙者も同じく思う」
「女神様はいつ戻られるかわかりませんから、それまでは生かしておかないとなりません」
「うむ。軟膏を与えるとしよう」
拙者と頭殿は木と木の間にぶら下がっている盗っ人の下に行く。
拙者は側仕えから印籠と軟膏入りの貝を受け取り、盗っ人の腹に貝と痛み止めの薬を置く。
「縄を解くが、暴れるようなら切るしかなくなる。女神様が戻られるまでおとなしくするのを約束できるか?」
「っ……っ……」
憔悴して声も出ないようだ。だが、頷いているため、言質と受け取ろう。
側仕えに盗っ人の縄を解かせ、戸板の上にうつ伏せで寝かせる。
これで、紀州藩邸へ向かう準備は出来た。
拙者は一同、約二〇〇人へ向く。
「それでは皆の者。次に女神様が戻って来られた時に不快な思いをさせたくないため、皆で女神様を迎えられるよう江戸を復興させていこう」
「「「おう!!」」」
拙者は二〇〇人の民を連れて紀州藩邸に戻った。
民を連れて帰ってきた事に父上からお叱りを受けると思っていたが、拙者の向かった場所から江戸を包む光があり、女神様が天界へ帰られたのが見えたらしく、事情を話たら快く頭殿を藩邸に招き入れてくれた。
なんとも現金なものだ。
否、現金にもなるさ。
現に拙者も逃げ道から背を向けた。
奇跡なのだ。
奇跡を見たのだ。
奇跡の大盤振る舞いをされたのだ。
「火の花を咲かせて散った江戸に、奇跡の水を与えてくださったのなら、江戸は粋でいなせな心を女神様に捧げようではないか!」
読んでいただきありがとうございました。