真相~求婚~
キュールとの婚約が破談となってから、社交的で明るかったカレンはすっかり部屋から出なくなってしまった。
父が扉の向こうで毎日何か言っているけど、彼女の耳にも、心にも入ってこない。食事もほぼ無理やり流動食を流し込まれるくらいに、自分から何もする気が起こらなかったのだ。
そんな日が続いたある日、窓に何かが当たる音を聞いてカレンはカーテンを引いた。普段はそれすらも億劫だと言うのに、何故かその時だけは確認してみようと動いた結果。
猫だ。一匹の三毛猫が前足で硝子を叩いていた。
やはり無意識にカレンは窓を開け、その猫を薄暗い部屋に迎え入れた。凍りつき固まった心が少し解けてきたようで、しばらく上がらなかった口角が持ち上がる。
窓枠から絨毯に降り立った三毛は、まるで驚いたような表情でじっとカレンを見上げていて、のろのろとベッドの縁に座った彼女の足元に身を寄せてきた。カレンは、急に胸が苦しくなった。
上半身を屈めて座ったまま猫の顎下をなでる。
すると、その手をしっかりと握るもうひとつの手があった。猫ではない、人間の手だ。瞬きの一瞬の内にそこにいた筈の猫は居なく、代わりに。
「キュール様……」
目の前に現れた人を見た時、久しぶりのキュールだとか、どうしてここにとか、そんな事を考える前にカレンを襲ったのは。
顔どころか体まで急に血が巡りはじめて赤くなった顔を両手で隠した。何よりもまず羞恥を感じたのだ。
ろくに髪も肌も手入れなんてしていなかったし、目も腫れぼったいし、少しこけて顔色も悪い。何より着の身着のままの寝巻き姿であったから。
キュールは、いつも笑って健康的なカレンのその弱り切った姿に内心で狼狽した。どうしてもカレンに面会させまいとするローイッシュ家の目を掻い潜って、猫に変化してまでここまで来たのに。
「カレン……」
彼女は思わず顔を上げた。
だって、彼の口から初めて自分の名を呼ばれたのだから。
「……ごめん、全部、聞いた……。おれの不注意で……」
何故か彼の方が泣きそうな顔で謝罪してきて、状況についていけないカレンに尚もキュールは続ける。
「……嫌われるのも、しょうがないと……思う。でも、ごめん」
「何故、私があなたを嫌わなければ……いえ、それより不注意って?」
おかしい。何かが噛み合っていない。
キュールも伏せていた顔を上げてカレンを見ると、首を傾げた。彼女も同じく首を傾げた。
「あの、どうして私に会いにきて下さったの? もう魔力は無くなったのに……」
「……おれの薬のせいで、酷く苦しんで……謝ろうと思って……」
「薬?」
カレンにはひとつ心当たりがあった。彼のいとこだという女性から、キュールからだと言って貰った栄養剤――。
「多分……おれが研究してた……薬を飲んだんだと……。あれはまだ、試作の状態で……」
「え、あれは栄養剤だと伺って」
キュールがその言葉に眉をゆがめた。初めて、カレンが見る表情である。
「誰に」
はっきりと淀みなく問い詰めたキュールに、カレンは圧倒される。これは言ってはいけないという直感に、首を横に振る。
「いえっ、誰でもないわ! その、私が勝手に……ごめんなさい!」
「……君がそれでいいなら、おれはもう言わない……。でも、ひとつだけ、知っていてほしい」
キュールは、長年取り組んでいた研究について、とうとうカレンに伝えた。
自分でも知らなかったカレンの力。それを抑制するために、出会った頃から研究を続けていた事。
カレンは、ずっと、自分の中で彼という人を決め付けていた。研究欲のために自分と婚約したのだと。珍しいと言われた魔力だけを見ていたのだ。と――。
(恥ずかしい……彼の人となりをよく考えれば分かった事なのに。他人に興味はなくても非道な人なんかじゃないって、知ってたのに)
「ごめんなさい。ずっと誤解していたの。でも私はそれでもよかった」
「魔力が無くなって……おれを恨んでいないの……?」
「これでもうあなたの興味が私から無くなるって、だから婚約を解消されて、それで辛かっただけで……」
「ちょっと待って」
キュールはまた強い口調で刺してきた。
「婚約を解消したのは……そっちの、君の父上からで。君を危険に晒したから……」
「えっ!? う、嘘……。そんなの聞いてない!」
カレンは驚きと同時に、沸々と湧き上がる怒りに支配される。
その時、見計らったかのように部屋の扉が叩かれた。外からは父とメイドたちの声が聞こえて、彼女は怒りのまま勢いよく扉を開けた。
「お父様! 酷いわ! どうして私に内緒で勝手に婚約を解消したの!? ……っ!」
久しぶりに大声を出したのと高ぶる感情のせいで咳き込んでしまったカレン。
蹲るその頼りない背をゆっくりとさする暖かい存在に、カレンの目に咽せたのとは別の涙が浮かぶ。
「……カレン……。私は、てっきり……」
カレンの父、ローイッシュ伯爵が頭上で何か呟いているがカレンにはよくわからない。
「っ酷い……。お父様なんて嫌いよ……。私がどれだけキュール様をお慕いしているのか知っていたのに……」
「アクロイドの、何故ここに……いや、それよりも、私は君が娘を騙して魔力を奪ったのだと聞いて……。娘も憔悴していたし、てっきりそれが事実だと……」
戸惑う伯爵の声に、カレンは顔を上げた。滲んでよくは見えないカレンだが、確かに伯爵は泣きそうな顔をしていた。
カレンの背に手を添えていたキュールは、おもむろに立ち上がり伯爵に深く礼をした。
「確かにおれの管理不足で、彼女を危険に晒した事は……確か、です。深く謝罪します。……そして、彼女の魔力の研究も、おれの勝手な……私欲です」
伯爵は、この状況で目の前のキュール・アクロイドを一方的に責める気は完全に削がれてしまい、逆に疑問が脳を覆い尽くした。
「おれ以外の男を魅了して……ほしくないと、身勝手な思いでした」
「魅了……? 一体……」
キュールは詰まりながらも、カレンが幼い頃から無意識に魅了の術を放っている事を伝えた。呆然とする伯爵と、周りにいるメイドたちに更に彼は続ける。
「……本当は政府に、申告するべき、ですが。恐らく、ずっと拘束されて……その」
その先を、ここにいる皆が理解した。自由なんて与えられずに研究材料になるかもしれないのだ。息を呑んだメイドたちも震えて、涙を流す者もいた。
キュールはずっと頭を下げたまま、続ける。
「……もう一度、カレンに……結婚を申し込む許可を、ください」
カレンの治まったと思っていた涙がまた流れる。
「っ、キュール、さま」
「ずっと、不思議だったんだ……なんで、おれにだけ魅了の力が働くのか。単純な事、だった」
立ち上がれないカレンに目線を合わせ、キュールはそのすっかり細くなった手を取った。
「君がおれだけを好いてくれて……それをおれが受け入れて、おれも、君を。カレンを好きになった、から」
「私、魔力が……ないの」
キュールが綺麗だと言ってくれた魔力が消えた事。カレンの未練はただそれだけだった。
「ごめん。おれのせいなのに……苦しんだのに。おれは、それが……うれしい。万が一にも君が誰か他の男を魅了する事がなくなったから」
徐々に、よどみなく言葉を紡ぐキュール。目にも力が籠ってきた。
「婚約は無くなったけど……おれと結婚して、ほしい。ずっとおれだけを魅了していて」
「っ、はい……っ、はいっ!」
久しぶりの娘の晴れやかな笑顔を見て伯爵は、これがただの早合点で、更にただ自分の決断が娘を傷付け憔悴させただけだったのだと悔やんだ。
それでも、純粋に娘を思う父親である。カレンが幸せならば、自分が嫌われてもいいと――少しだけ、寂しさを感じたのだった。