表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

リストカットの花言葉

作者: 村崎羯諦

 幸せだとどこか居心地が悪いし、楽しいこともそれほど好きじゃない。


 クラスメイトとお喋りしているときも、大好きな音楽を聞いているときも、ふとした瞬間、誰かに後ろから肩を叩かれたかのように意識だけがどこかに飛んでいって、それから重たい鉛玉を背負って私のもとへと戻ってくる。


 誰かからひどい仕打ちを受けているわけでもない、辛い過去を背負っているわけでもない。私よりもずっと可愛そうな目にあっている人はたくさんいる。だからこそ辛い。きっと誰も理解してくれないだろうから。


 何をすればこの気持ちが楽になるのか。どういう努力をすれば、何を手に入れさえすれば、私はあの子達と同じように毎日を笑って過ごすことができるのだろうか、私になくて、あの子達にあるものとは何なのだろうか。


 私にはそれがわからない。これからずっと、永遠に、何かが欠けた状態のまま生きなければならないのだろうか。一生、理屈の通じない苦しみを抱えながら生きていかなければならないのだろうか。その可能性を考えるだけで、私は不安になる。明日なんて来なければいい。明後日はなおさら。少なくとも、両手を広げて彼らを迎えに行くだけの喜びを私は持っていない。


 不安感に襲われ、息をすることさえ苦しくなったとき、私は教室を飛び出し、誰もいない校舎裏の花壇へと逃げ込む。メッキの金属糸が複雑に絡まりあった頭を落ち着かせながら、私は家のリビングからくすねてきたカッターをポケットから取り出す。


 刃をゆっくりとスライドさせる。校舎裏の日陰で張り替えたばかりのカッターの刃が鈍色に光る。袖をまくり、左手首の腹を仰向けにした後、カッターの刃を白い肌に当てる。ひんやりとした金属の冷たさが伝わってくる瞬間、寒気のようなものが内側こみ上げてきて、身体全体がかすかに震える。呼吸を落ち着かせ、震える親指でグリップを固定し、少しづつ力を入れていく。ゆっくりと白い皮膚の中に刃の端っこがもぐりこんでいく。この瞬間。この瞬間だけ、あっちこっちにいっていた私の意識がぎゅっと一箇所に集まって、私が私であることを実感できる。五感すべてが私のもとに戻ってきて、全部の神経が今私を傷つけているカッターの刃と一体になる。さっきまで聞こえていた雑音がピタリと止み、心臓の鼓動だけが静寂の中で痛いほどに高鳴っているのが聞こえる。額にはうっすらと汗が浮かび、その一滴が右のこめかみを伝っていく。私はそれからゆっくりと、ゆっくりと刃を引いていく。痛みはない。刃が通った跡には一本の筋が残り、その周りでは薄皮がめくれている。少しすると、傷跡から赤い液体が滲み出してくる。しばらくすると泉のように溢れ出し、左手の指先へと伝っていく。温かい血液は私の手のひらへと伝い、軽く握られた指の第二関節へと伝い、その先で小さな雫となり、地面へと落ちていく。一滴ずつ、一滴ずつ。そして、その血のしずくがこげ茶色の地面の中へと吸い込まれていく様子を見ていると、不思議と気分が落ち着いた。地面にできた黒いシミを手で触ってみる。固く冷え切った地面の中で、その場所だけはほんのりと温かく、湿っていた。


 これは解毒なんだ。地面に残った黒いシミを見つめながら私はふとそう思ったことがある。ろくでもない明日を、楽しくもない明後日を、私は私の中からこの血と一緒に追い出している。私の中からそれらを追い出してしまえば、酸欠のような焦燥感と向き合わずに済む。


 だから、私は私の手首を傷つける。明日がある限り。明後日がある限り。





 そんなある日のことだった。私がいつものように校舎裏へと逃げ込んだ時、いつも私が血の雫を滴らせているその場所に、植物の芽がひょっこりと顔をのぞかせていることに気がついた。雑草とは違う、見たことのないような幼葉。私がその場所に駆け込んでくるたびに苗木は大きくなっていって、一ヶ月もしないうちに見事な花を咲かせた。背丈の高い茎の先から、溢れるように白とピンクの花が咲き、数本の長いおしべとめしべがひげのように花元から伸びている。


 校舎裏という陰気な場所に似合わない、場違いで綺麗な花。私が血の雫と一緒に追い出した明日と明後日を吸って咲いた花。一体なんていう名前なんだろう。興味がわき、携帯でその花の名前を調べてみる。


 いくつかのサイトをめぐり、ようやく見つけたクレオメという花の名前。熱帯アメリカが原産で、ひとつひとつの花は一日で散ってしまい、毎日次から次へと新しい花が咲き続ける不思議な花らしい。


 サイトに記載されていた情報をぼんやりと眺めていると、クレオメの花言葉という項目があった。そして、数多くある花言葉の中で、一つの言葉に目が止まった。





『思ったよりも悪くない』





 私はその言葉を目にした瞬間、ふと肩の力が抜けたような心持ちがした。何の意味も深みもない、そこらへんにありふれた言葉。今私に欠けているものを教えてくれたり、私が置かれている状況に変化をもたらしてくれるわけでもない。


 それでも。それでも、もう少し生きてみようかな。少なくとも明後日までは。


 風に揺られてクレオメの花がそよぐ。私は空を見上げてみた。うっすらと空を覆う鼠色の雲の向こうに、春の太陽が透けて見えたような気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ