acid rain
キャラフレ2018皐月祭「世界が終わる音」自主製作スクリプト作品の原作に当たります。
ACID RAIN
死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。
L.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より
※※※
――ジ、ジジジジジジジジジ
嗚呼、耳鳴りがする。
耳鳴り? いや、これは羽虫の羽音だ。
ジジジジジジジジジジジジジジジ
顔の上を小さな虫が動きまわている。
咄嗟に手で追い払おうとしたが腕は動かない。
それどころか眼も開けられないではないか!
これはいったいどういうことだ?
ジジジジジジジジジジジ
その間にも羽虫は我が物顔でおれの顔を這い回っている。
それに記憶を辿るに――
おれは誰だ?
自分が誰だとか、どこの何者で、幾つだとか全く思い出せない。
それが全くの暗闇で、身じろぎもできないまま、何所かわからないところに放置されているのだ!
ジジジジジジジジジジジジジジ
分かるのは顔の上を虫が羽音を立てながら動き回っていることだけ。
畜生、眼を開ける。
おれは渾身の力を込めて瞼を開ける。
ひらけ、
開けったら開け。
ジジジジジジジジジジジ
嘲笑うかのように羽虫が瞼を通り過ぎた。
開け、開けひらけひらけひらけ――――!
不意に強烈な光が差し込みそれはおれの眼を焼いた。
同時に羽虫は飛び立ちいずこかへと飛び去った。
焼けつくような眩しさは薄れ、そこは薄暮の室内だと気付くのに二分ほどかかった。
室内? そこをゆっくりと見回すと、寝かされていたベッドと低いテーブル、作り付けのクローゼット、バスルームとトイレがあることに気が付いた。
ドアがある。外へ向かってのものだろうがどうやら外は危険であるとおれの本能が全力で告げていた。何故?
近くにスイッチがある、どうやら部屋の明かりのようだ。押してもよいのだろうか? 採光のための窓は小さく分厚いカーテンがかかっている。カーテンの隙間から外を窺うとそこは雨だった。
汚れたガラス窓に耳を寄せるとびしゃびしゃと雨音が爆ぜた。外の景色は激しい雨とこの汚れたガラスのためよくわからなかった。
おれは再び寝かされていたベッドに今度は腰かけるとローテーブルの上に一冊のノートが乗っているのを見た。
パラパラと捲ってみるとそれはモーテルに置いてあるようなノートで他愛もない恋の落書きから、深刻な恋愛の相談。
イラストもごく下手くそなものから玄人裸足の絵まで様々だった。
ところが数ページ破られた後急に何か小説のようなものが始まってノートの最後まで書かれていた。
ACID RAIN
ひどく汚い字であった。
鉛筆の殴り書きでびっしりと書かれたそれを読もうとしたとき不意に部屋の扉が開いた。
髪を赤く染めた背の高い女が入ってきたので、おれは思わず汚れた絨毯にノートを落とした。
「目が覚めたの? よかったわ、でもお生憎様。外は安全じゃないの」
女はぞっとするほど美しかったが、同時に何か敏感な人間に与える嫌悪感じみたものがあった。
「そのノートはどうかしてるわ」
「読んだのかね、これを」
「喋れるようになったのね。随分回復したじゃない、私がここに連れ込んだときに較べたら――」
「いったい何があったんだ? 順を追って説明して貰わないと」
「それを言うわけにはいかないの、自分で見つけ出さなくちゃ」
「どういうことだ!? 何を知っている?」
「私はエステラ、今は貴方を匿っている……」
女の大きな眸が宙を泳いだ。
「匿っている? だと」
「そうよ」
むっとするような、この女の身に纏う香りはどこか記憶にあった。
「と、するとおれは追われてるのか」
「そうね」
他人事のようにエステラは応えた。
「待ってくれ! おれは一体何をしたっていうんだ?」
今思い出せるのは女のきつい香水のかすかな残渣だけ。
「――水、水が必要ね。ずっと眠っていたのだから」
「ずっと眠っていた……」
一体何日だろう? 三日も水分を摂らなければ命に係わるが。
だが女は踵を返すと再び外界へと踏み出す、部屋の出口でピンヒールが固い音を立てた。
「そのノートには触れないことね、理性を保っていたいのならば!」
女の声は雨音に消えていった。
エステラと名乗る女は記憶を失ったおれを匿ってるといい、現に水まで調達しに行くらしい。
だがノートを読むなとはどういうことだろう? おれは床に落ちたノートを拾うと埃を払った。
『理性を保っていたいのならば』とはどういうことだ、ノートにはあの女にとって都合の悪い事柄でも書かれているのだろうか。
まさかモーテルのノートにそんな話があるわけもない、もういい。
エステラが帰ってきたらちょっと脅してあらいざらい吐かせてしまおう。
おれは再び明かりのスイッチを探すと先ほど女の出て行った扉の近くにパネルを見つけた。それぞれのへやの明かりを調節するツマミらしい。幾つかツマミを動かすとこの部屋の明かりが徐々に変化を始めた。これか。
雨の薄暮の中、はっきりとノートの字が読み取れるようになるまで、おれは灯りを調節する。
するとどうだ。先ほどまでいた羽虫が明かりめがけて暗がりからジジジジジジと飛び出し壁に止まった。
それだけではない、部屋にいたあらゆる走光性の虫どもが一気に飛び出すと薄汚れた壁で憩いはじめたではないか! それも先ほどの顔面を撫でていたサイズの羽虫からスズメほどもある蛾まで大小さまざまな虫どもが跋扈しているのだ。
これでは読書どころの騒ぎではない、急いで部屋の明かりを絞ると虫たちはまるでいなくなったかのように気配を潜めた。
なんて不衛生極まりない、よくもあの女おれをこんな所へ寝かせていたものだ! 帰ってきたら脅すだけでは済まさない所存だ。
さてそうしているうちに完全に日は暮れた。雨は降り続いている。女は戻ってこない。闇に落ちた部屋に一人、虫どもとぼんやりと座っている。時たま通る車のヘッドライトが薄汚れた室内を照らし出す。
ふと、どこか懐かしい香りが鼻腔を撫でた。
扉が開き女が入ってきた。
なまめかしいはずの姿態はやはりどこか嫌悪を感じさせる。おれはこの女を知っているのか。
「灯りを点けようとして諦めたでしょう? ここには余りにも虫が多いから」
はなっから虫のことを知っていやがった! 不自然に赤い唇が言葉を紡ぐと怒りに駆られておれは叫んでいた。
「よくもこんな不潔な部屋で看病してくれたなエステラさんよ、どんな目に遭う覚悟もできてんのか?」
「貴方は私に危害を与えることはできない、そう取り決められている」
「どういうことだ!? 答えろエステラ!」
回答は明白だった。
女は拳銃を構えたのだ。
「ノートは諦めなさいな、あれは狂っているのよ」
目は少しも笑ってなどいなかった。
憐みもなかった。無感動な大きな眸がじっと照準を見つめている。
「やけにノートに固執するな、見られちゃ困るのか」
「だってここで灯りが必要なのはノートを見ることくらいでしょう? 固執してるのは貴方ではなくて?」
図星を突かれておれはひそかにたじろいだ。畜生この女――
「そのチャカは本物なのか」
「そうね、試してみる?」
試す? おれで? 匿ってるはずのおれで?
だが女は、エステラは撃鉄を引くと今度こそ照準をおれに合わせた。
正直嫌な汗が背中を流れていくのがはっきりと判った。
ここで死ぬ? 嫌だ。
記憶喪失のままわけのわからない女に殺されるなど――
南無三!
おれは咄嗟に跳躍するとエステラをベッドに押し倒す形で取り押さえ、次の瞬間弾丸が部屋を横切り、羽虫どもがばたばたと飛び立った。
鱗粉の舞い落ちる中スローモーションのようにエステラはベッドに倒れこみ、続いておれが覆い被さるようにその上に落ちた。
心の臓が鼓動を打ち彼女の冷めた体温がじんわりと広がっていった。
咄嗟に右手の拳銃を跳ね飛ばすとカラカラと回りながらそれはベッドから滑落する。
呼気が伝わるほど近づいたエステラはやがて長い睫毛を伏せると、敗北を悟ったように口を開いた。
「本当に撃つとは思わなかったでしょう?」
「殺す気だったのか!」
「……いいえ、いいえ」
エステラは頭を振った。
「では何故撃った? 冗談が過ぎるぞ」
「銃の扱いは一朝一夕にできるものではないわ」
「お前は何者だ!」
おれはエステラの着ているワンピースの襟首を掴むと、ソファから引き起こし誰何した。
むっとするような香水の匂い。
「いい? あなたは組織に追われてるのよ」
「組織? 待て、お前はだから何者だ、答えろエステラ!」
「お望み通り少し情報を呉れてやったわ、お喋りはそこまでになさい。喉が渇いてる筈よ」
言われてみればそうだった。ひどく喉はカラカラだ。
「入口のビニール袋に水と食糧がある、好きに食べなさい」
そう言ってエステラは横を向くと癖のある赤い髪がさらさらとソファに流れた。
「チャカは預かっておくからな」
手を伸ばして拳銃を拾うとようやくおれは彼女を解放した。
「あと何発撃てるかは私だけが知っているわ、せいぜい暴発させないよう気をつけなさいな」
脱げたピンヒールを履きなおしながらエステラは言った。
エステラの持って帰ってきたビニール袋には1リットル入りペットボトルの水が一本と、ありふれたコンビニのサンドイッチが2つ。
――このまま食べるのはあまりにも危険すぎる、何せ拳銃を用意して実際に発砲した相手だ。
「毒味をしてもらおうか」
「あら、信用ないのね」
ワンピースの襟を直しながらエステラは微笑んだ。
「お安い御用だけど」
そう言って彼女は水を一口飲み、サンドイッチに口をつけた。残る口紅の跡。
「いかが?」
おれは無言で堰を切ったように食事を貪りはじめた。一体何日振りなのだろう? エステラは知ってるのだろうが皆目見当がつかない。
その様を女は無感動にじっと見つめていた。
まるでその眼は爬虫類のようでそれが嫌悪の源なのだと、たった今気づいた。
すっかり食事を食べきると余裕が出たおれは、エステラの正体よりもやはりあのノートのことが気になっていた。銃を撃ってまで見せたくないノート、何故そんなものがここにあるのだろう? 邪魔ならこっそり処分するなりなんなりすればいいものを。
だが今はノートについては黙っていることにすることにした。
完全に日が暮れた。雨は降り続いている。
薄暗い部屋を見回すとダブルベッドが一つだけ、エステラは今晩どうする気だろう? おれの心情を察したのか彼女は口を開いた。
「安心して頂戴、朝になったらまた来るから。そう銃は今はあなたが持っているのよね、おやすみなさい」
「待て! エステラ! お前は一体……」
言いかけておれは言葉を飲み込んだ。
一体エステラが何だというのだろう? 自分のことも皆目見当つかないこのおれが。
雨は降り続く、長い夜が始まった。
拳銃はあまりにもおれの掌には重かった。
先ほどエステラが一発撃ったがまだ弾倉式のそれには何発か弾が残っているようだ。
(銃の扱いは一朝一夕にできるものではないわ)
彼女の言葉が頭の中でぐるぐると回っている、ああそんなことは分かっているさだがいとも簡単に狙いを合わせてみたエステラにうすら寒いものを感じたのも事実だった。
次に彼女がこれを握れば必ず殺すまで行かなくとも、おれに対して圧倒的に優位に立つに相違ない。
そうして冷え切った薬莢がカーペットに落ちていることにおれは気が付いた。銃は――38口径か。
手元のチャカと照らし合わせて確認する。
よくもまあエステラはこれを気軽に撃つ気になったな。
ベッドに倒れこまなければ反動でかなり彼女の見た目では吹っ飛んでいた筈なのだが。
「それだけの覚悟があるということ、か」
独言は雨にかき消されてゆく。
最早完全に日の落ちた室内で灯りをつけずには居られないことを悟って、おれはうんざりした。
やれやれまたあの羽虫たちと、今度は同衾か……
入口付近のパネルを頼りに再び灯りを点すと音もなく虫どもは現れ、羽ばたき、群がった。
それを無視して、銃の隠し場所を考えようと部屋を見回すと、思いもしなかったものが目に飛び込んできた。
あの、ノートだ。
エステラは明朝まで来ないといった。読むなら今がチャンスだ。
(そのノートはどうかしてるわ)
どうかしているのはおれの方かもしれない、得体のしれない女に匿われ――否、囚われている。
(そのノートには触れないことね、理性を保っていたいのならば)
理性を保つ? ああそうだすっかりおれは狂っているのだと!
(ノートは諦めなさいな)
諦めたら何もかもが……エステラどころか何やら得体のしれないモノの、思うが儘に進んでいくような気がしてならないのだ。
ACID RAIN
ひどく汚い字であった。
おれは薄明かりの中ぎりぎりまで目を近づけるとそれを読み始めた。
死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。
L.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より
ウィトゲンシュタイン。知らない名前だった。何の人生訓であろうか?
――ジ、ジジジジジジジジジ
嗚呼、耳鳴りがする。
耳鳴り? いや、これは羽虫の羽音だ。
ジジジジジジジジジジジジジジジ
顔の上を小さな虫が動きまわている。
咄嗟に手で追い払おうとしたが腕は動かない。
それどころか眼も開けられないではないか!
これはいったいどういうことだ?
なんだこれは?
妙な既視感を覚えておれは不快になった。
ジジジジジジジジジジジ
その間にも羽虫は我が物顔でおれの顔を這い回っている。
それに記憶を辿るに――
おれは誰だ?
自分が誰だとか、どこの何者で、幾つだとか全く思い出せない。
それが全くの暗闇で、身じろぎもできないまま、何所かわからないところに放置されているのだ!
ジジジジジジジジジジジジジジ
分かるのは顔の上を虫が羽音を立てながら動き回っていることだけ。
畜生、眼を開ける。
おれは渾身の力を込めて瞼を開ける。
ひらけ、
開けったら開け。
ジジジジジジジジジジジ
嘲笑うかのように羽虫が瞼を通り過ぎた。
開け、開けひらけひらけひらけ――――!
そこまで読んでおれは初めてエステラの言った意味を理解した!
まるでおれに起こった出来事そのものじゃないか、狂ってる!
だがおれは恐れながらもページを、ひどく汚い字で書かれたそれを捲らずにはいられなかったのだ。
不意に強烈な光が差し込みそれはおれの眼を焼いた。
同時に羽虫は飛び立ちいずこかへと飛び去った。
焼けつくような眩しさは薄れ、そこは薄暮の室内だと気付くのに二分ほどかかった。
室内? そこをゆっくりと見回すと、寝かされていたベッドと低いテーブル、作り付けのクローゼット、バスルームとトイレがあることに気が付いた。
ドアがある。
外へ向かってのものだろうがどうやら外は危険であるとおれの本能が全力で告げていた。
何故?
近くにスイッチがある、どうやら部屋の明かりのようだ。
押してもよいのだろうか? 採光のための窓は小さく分厚いカーテンがかかっている。
カーテンの隙間から外を窺うとそこは雨だった。
汚れたガラス窓に耳を寄せるとびしゃびしゃと雨音が爆ぜた。
外の景色は激しい雨とこの汚れたガラスのためよくわからなかった。
おれは再び寝かされていたベッドに今度は腰かけるとローテーブルの上に一冊のノートが乗っているのを見た。
パラパラと捲ってみるとそれはモーテルに置いてあるようなノートで他愛もない恋の落書きから、深刻な恋愛の相談。
イラストもごく下手くそなものから玄人裸足の絵まで様々だった。
ところが数ページ破られた後急に何か小説のようなものが始まってノートの最後まで書かれていた。
最後だって!? 最後に何が待ち受けているというのだ!
おれ自身の破滅、エステラの勝利。そんなものが頭を掠めては消え、それ以上読み進めることがおれにはできなくなってしまった。
そしてノートを投げ出すと彼女の言葉の意味を理解しておれは頭を抱えた。
この部屋にこのノートを用意したのはいったい誰だ? 何もかも分かった上でおれを惑わせるためにこんなものを用意したのは。
ああ、そうさ狂っているんだ、おれもエステラも、この部屋自体も!
そして改めてノートを手に取って冒頭の引用を音読してみた。
「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない」
生もまた、終わりを持たない……どういうことだろうか。
どうしてノートの筆者はここだけ引用したのだろう? 何かのヒントだろうか。
やはりノートの最後まで読むべきであろうか? いや読む事を運命づけられているといっても過言ではない。
おれは震える手でノートのページを捲った。
ACID RAIN
ひどく汚い字であった。
どういうことだ?
どうしていまさらこの文字をおれは見ているのか? だが続きが気になりおれはノートを読み始めた。
鉛筆の殴り書きでびっしりと書かれたそれを読もうとしたとき不意に部屋の扉が開いた。
髪を赤く染めた背の高い女が入ってきたので、おれは思わず汚れた絨毯にノートを落とした。
「目が覚めたの? よかったわ、でもお生憎様。外は安全じゃないの」
女はぞっとするほど美しかったが、同時に何か敏感な人間に与える嫌悪感じみたものがあった。
「そのノートはどうかしてるわ」
「読んだのかね、これを」
「喋れるようになったのね。随分回復したじゃない、私がここに連れ込んだときに較べたら――」
「いったい何があったんだ? 順を追って説明して貰わないと」
「それを言うわけにはいかないの、自分で見つけ出さなくちゃ」
「どういうことだ!? 何を知っている?」
「私はエステラ、今は貴方を匿っている……」
女の大きな眸が宙を泳いだ。
エステラだと! 何故ノートにエステラ自身が出てくるのだ!? あの女がノートは狂っていると言った理由はこれなのか?
まさか当のエステラ自身がノートに出てくるなどとは――だがおれは理性を必死で保とうと試み、ノートの先を読む。
「匿っている? だと」
「そうよ」
むっとするような、この女の身に纏う香りはどこか記憶にあった。
「と、するとおれは追われてるのか」
「そうね」
他人事のようにエステラは応えた。
「待ってくれ! おれは一体何をしたっていうんだ?」
今思い出せるのは女のきつい香水のかすかな残渣だけ。
「――水、水が必要ね。ずっと眠っていたのだから」
「ずっと眠っていた……」
一体何日だろう? 三日も水分を摂らなければ命に係わるが。
だが女は踵を返すと再び外界へと踏み出す、部屋の出口でピンヒールが固い音を立てた。
「そのノートには触れないことね、理性を保っていたいのならば!」
女の声は雨音に消えていった。
ああ、理性などとっくに焼き切れているのが分かった。
そしてエステラの忠告の意味も。だが読み進めると無情に情景は進み――
再び彼女が現れる。
ふと、どこか懐かしい香りが鼻腔を撫でた。
扉が開き女が入ってきた。
なまめかしいはずの姿態はやはりどこか嫌悪を感じさせる。おれはこの女を知っているのか。
「灯りを点けようとして諦めたでしょう? ここには余りにも虫が多いから」
はなっから虫のことを知っていやがった! 不自然に赤い唇が言葉を紡ぐと怒りに駆られておれは叫んでいた。
「よくもこんな不潔な部屋で看病してくれたなエステラさんよ、どんな目に遭う覚悟もできてんのか?」
「貴方は私に危害を与えることはできない、そう取り決められている」
貴方は私に危害を与えることはできない、そう取り決められている
取り決められている。とはどういうことだろう?
ここには、おれとエステラ以外の第三者の介在があるとでも言わんばかりだ。
あるとしたらそれは何者なのか? 何のためにエステラを遣わして、おれをここに匿っている?
何か目的がある筈だ……思い出せ、思い出せ、
そしてさらにノートのページは進み――
「どういうことだ!? 答えろエステラ!」
回答は明白だった。
女は拳銃を構えたのだ。
「ノートは諦めなさいな、あれは狂っているのよ」
目は少しも笑ってなどいなかった。憐みもなかった。
無感動な大きな眸がじっと照準を見つめている。
「やけにノートに固執するな、見られちゃ困るのか」
「だってここで灯りが必要なのはノートを見ることくらいでしょう? 固執してるのは貴方ではなくて?」
図星を突かれておれはひそかにたじろいだ。畜生この女――
「そのチャカは本物なのか」
「そうね、試してみる?」
試す? おれで? 匿ってるはずのおれで?
銃まで与え、何の必要がある!?
エステラは銃の扱いを知っていた、少なくとも堅気の女じゃない。ならばこのおれは?
おれはどうだというのだ? 一般人かそれともそうじゃないのか?
銃だ、もう一度銃を取れ。
弾倉式のそれはベッドに転がっている。弾は一発はもうエステラが撃ってしまっているがマガジンには何発か残っている筈だ。
操作できるのか、それを。
眸を閉じる。
思い出せ鉄の揺らぎ。
思い出せあさましい唄。
思い出せの心臓の戦き。
思い出せ沈むお前の太陽。
思い出せそして美しい日々!
それは完全におれの掌で息づきはじめた。
記憶はなくとも掌の感覚がそれを覚えていた。
どこだエステラ、手始めにお前を血祭りにあげてやる。
輪廻する世界。舞い散るノートのページ。すべては暗転する。
※※※
「そう、私を撃つのね――」
躊躇いはない。
「ここよ」
エステラは心臓の位置をわざと示す。
「撃って?」
「撃たない!」
そうだこれは罠だ。ノートに書いてるとおりの破滅だ。
「エステラ、おれはお前を撃たない。それがノートの予言から抜け出る唯一の方法だからだ」
するとエステラは急にがたがたと震えだし、隠し持っていたもう一丁の拳銃を床へ落した。
「……いいわ」
「どうした?」
「この隠れ家から出ていきなさいな、もう貴方をかくまう義務は私にはない」
「ノートは? このまやかしは?」
「それこそ知らないわ、どこかの誰かが書いたのね――
死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば現在に生きるものは永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。
その通りだわ。さあ、お行きなさい」
おれは軋む階段をゆっくりと下っていくと、居間のような部屋にたどり着きそこから玄関へ進んだ。
ギィと音を立てて扉は簡単に開いた。外を降りしきる雨は酸の匂いがした。雨音に負けす劣らず、ひどい煤煙をまき散らす煙突と工場がみしみしと、夜にもかかわらず稼働していた。
「ここは?」
酸の雨に濡れるのも厭わずおれは辺りを探ると……
不意に車のヘッドライトが一斉におれの影を失くしていった。
メガホンから声がした。
「今から反逆者の処刑をする! 堅気の人間を誤って殺して逃亡した罪でな、撃て!」
その声がするや否やマシンガンの音が響き、男は雨の中文字通りの肉片となって力尽きた。
「ご協力感謝する」
「いいえ、わたしの復讐に利用させてしまってごめんなさいもう会うこともないでしょうね」
雨の中エステラはいずこかへ消去って行った。