第二話:この世を二分する者の価値観(後)
「あまりに月が綺麗でしたので、誘われて出てきてしまいましたの」
彼女は言った。着ている着物こそ立派なものではないが、言葉の端々、その雰囲気は、何か高貴なものを感じさせた。
「確かに今宵の月は見事だ。しかしやはり、娘の一人歩きは危ない。特に最近近くの村では神隠しが起きたとか。お気をつけなさい」
彼女は、形の良い紅い唇を少しほころばせ、くすりと微笑した。
「家まで送ってはくださいませんか?」
そして僕は彼女を家まで送ったのだが、送った先があの神無のお屋敷だったのだ。
別段驚きはしなかった。何故か、彼女が村で恐れられている神無しの娘だということが、とても自然なことのような気がしたからだった。普通の人間とは明らかに違う、そんな雰囲気を彼女は持っていた。しかし怖いとは感じなかった。それは単に彼女が美しかったからなのかもしれないが。
僕が思うに、本当に怖いのは神無の一族でも、無鬼童でもなく、この村自身だ。
この村の奴らは、自分自身のことをマトモな人間だと思い込んでいる。
自身のやっていることが異質なものを極端に恐れるがための偏見による根拠、理由のないただの悪質な虐めであるという事実に蓋をする。
そうして二分するのだ。
この世界全体を、自分らに都合のいいように。
異質なものを疎外する理由は何でも良いのだ。
そして見失う、自分たちの本当の姿。醜く、自分の見たいものにしか目を向けず、欲望のみで膨らんだその腹を肥やす、獣の姿を。そんな彼らの価値観が、僕には理解できない。人を卑下することで得る、自分の存在価値。所詮、この世を二分する者の価値観なのだ。獣の価値観なのだ。僕はそんなものに成り下がるのはごめんだ。
今夜は月が明るい。冬の月見もそう悪くはない。わらじの裏に畦道特有の粗い感触が心地よい。
冬の凛とした空気が、肌を滑り落ちる絹糸のようで少しくすぐったい。こんなに良い晩は、闇が醜いもの全てを覆い隠してしまう気がする。本当にそうなら良いのに、と思う。本当に美しいものだけが純粋に在る世界を見てみたい。
不意に、何か奇妙な匂いが鼻を突いた。一瞬で消えたその匂いは、妙に鼻の奥にしつこく貼り付いて、僕の気持ちを何故か焦らせた。苦いような、甘いような、怖いような、優しいような、その匂い。
遠くから獣のだみ声が聞こえる。汚らわしく、下品なその声は夜の村によく響いた。口調からして、かなり酔っている。僕は、その獣から発せられる声に耳を傾けた。夜風に耳が冷たかった。
「バケモノは今頃…焼けちまってるだろぉよぉ。どぉだぁ、俺ぁすげぇだろぅ…てめぇらぁ、感謝しなぁ…俺ぁ命の恩人だぁぜぇ…」
空耳かと思った。否、思いたかった。イカレテいる。
あの屋敷には娘が一人…たぶん今現在もそこに居る。何の罪もない、一人の娘がそこで、ごう火にその身を焼かれながら、今も。
考えただけで吐き気がした。獣に、そこに居る汚らわしい獣に、怒りを越えた激しい感情を覚えた。
僕の足は自然と北に向かって駆け出していた。僕はただ耐えられなかった。
今夜は月が明るい。月光が僕の行く先を照らす。わらじの裏に、畦道特有の荒い感触が痛々しい。
鼻腔を、刺すような乾いた臭いが風に乗って撫でた。焦燥感を掻き立てるそれは、一歩一歩、歩を進める毎に大きく、強くなり、やがて僕の思考でさえも包んでいった。
目に映ったのは、目が焼けるように鮮やかな朱色だった。夜空に立ち上ったそれは、上に行けば行くほど紺色と溶け合い、美しい色彩を織りなしていた。それはいつか見た、何とかという絵師の描いた夕焼けの絵に酷似していた。
バチバチと悲鳴を上げ、黒い塊が炭化し、崩れゆく。朱色の中で、黒い塊の姿がかすれてゆく。
僕は真っ白になった。予想以上の事態だった。
走ってきた僕は肩で大きく息をし、その場にひざをついた。風に乗って空気中を滑走する寂しげな灰が、息をする度僕の肺に充満するようで苦しかった。目の前に紅々と立ち上る朱色が、僕の目をつついて、その痛さで涙が溢れた。
あの子は?あの子は?
半ば絶望的な気分で、涙の溢れる目を無理矢理見開き、辺りを見回した。しかしどこにもそれらしい姿を見て取ることが出来なかった。




