【 タイムリミット 】7
夜中は弛かった雨が、明けがたすぎから本降りになり、周りの音を全て吸収し空は薄暗く低く垂れ込んでいる。
黒く濡れたコンクリートと暗く低い空でプレスされる錯覚に陥る。
傘をさして家を出た富多子は、家の近くのコンビニには入らずにそのまま道を歩き続けた。
傘に跳ね返る雨粒の音だけが富多子の耳に入り、雑念は取り払われていく。
行く場所は決まっていた。というか、行かなければならないというふうに頭のどこかで反応していた。
あそこへ行くしかない。
この悪夢を終わらせるためには、あいつに会うしかない。私とあいつの汚れを取り除くしか方法はない。
傘を持つ手に力を込めて唾を飲んだ。
『来る』
あざみは線路の上に立っているが、そこから一歩も動けない。
膝頭まで紫陽花の葉がまとわりつき、紫陽花に足から喰われていた。
毒々しく深海のように青黒くなった紫陽花は、富多子を喰うたびに脈打つように花びらを揺らしている。
もうひとり片づけなければならないと言ったあの日からいったいどのくらいの月日が経ったことか。
よくやくその日を迎えることができる。
これで全てが片づくとあざみもまた考えていた。
線路に弾かれる雨粒が待避所の中で丸くなってじっと動かない桜の顔に当たった。
目だけを大きく見開き、伏せる格好であざみに狙いを定めている。
あざみが油断するその一瞬を逃すまいとしているわけだ。油断したその瞬間に食らいつくつもりだった。
「ふんっ。あんたには何もできないのよ」
鼻で笑って一瞥くれるとホーム上に視線を戻した。
大梯はあのあとやはり嫌な予感を手放すことができず、すぐに富多子を追いかけコンビニへ走ったが、そこに富多子の姿はなかった。
コンビニにいないということは行くところはあそこしかない。
雨が降りしきる中、考えなしに地面を蹴った。
傘をさす時間さえ惜しいと感じ、顔に叩きつける雨粒、目に入る雨を手の甲でぬぐいながら先を急ぐ。
雨の音と自分の呼吸音だけが頭に響き、周りの雑音はかき消された。
通りを一本中に入ったところで見覚えのある傘が目にはいり、走るスピードを上げた。
まっすぐに歩き続ける傘の後を追いかける。
無常にも信号が赤に変わり、目の前を大型のトラックが轟音を立てながら通り過ぎ、視界が一回閉ざされた。立ち止まっている間にもどんどん先へ行ってしまい、自分1人が取り残されている気分になる。
赤い信号機と前にどんどん進んでいる傘を交互にもどかしく見て、早く青になれと心で叫んだ。
「あなたはうちへ帰ったほうがいいよ」
頭の中に声が響き、大梯の心臓は一度ドクンと跳ね、太い針で心臓を串刺しにされたような鋭い痛みを覚えを覚えた。
目の前には誰もいない。声だけが雨粒のように振ってきた。
心落ち着けるべく唾を飲み、一度ゆっくりとぎゅっと瞬きをした直後、目の前には白くて綺麗なあざみの顔がいきなり現れた。
手を延ばせばつかめる距離にあざみの怪しく笑む顔があり、顔同様真っ白い肌に魅力的な黒い瞳、瑞々しく光る桜色のリップから覗く白い歯にくぎ付けになった。
目の前で妖艶に笑うあざみのおかげで傘をさして歩いている富多子の姿がまったく見えない。
「富多子ちゃんを追わないで、彼女をこのまま私へ返して」
「富多子ちゃんを、どうするつもり?」
「さぁ。わからない。でも彼女は私に会いたがっている」
「そんなことない。それは違う」
「心の中に抑えている欲求がもうそろそろ限界なんだと思う。あなたのことも、私のことも、両方手に入れることなんて、できないの」
「富多子ちゃんは君のことなんて望んでない! むしろ怖がっている。だから僕たちは二人一緒に肩を寄せてきたんだ。彼女が何をしたのかは知らない。でもそれを、そこから変わろうとしているなら僕はそれを受け入れて、一緒にこの先を進んで行くつもりだ! 君はもうこの世にいないんだよ。僕達から離れて行くべきところへ戻って」
「ふふふ。何を言っているのかよく分からない」
くすりと笑うと、骨のように細く真っ白な腕をするりと伸ばし、大梯の顔の前で手のひらを広げた。




