プロローグ~東 雅之~
これから語られることは全て現実で起きた出来事…。
「辞めちゃおうかな、もう」
ポロッと口から転がり落ちた言葉だった。その言葉は、俺の足元にストンと落ちる。もう充分やったじゃん。
小学3年生から始めた野球。12年間も毎日毎日、ボールを追い続けた。本当に野球が好きだった。高校時代は無名だった公立弱小校をキャプテンとして、エースとして、埼玉ベスト8まで押し上げた。おまけに大学野球のスカウトに目をつけられ、特待生として、この大学の体育会系硬式野球部に入ることが出来た。 上出来だ。ここまで、よくやってきたよ俺。
「辞めるなよ、マサが」
隣に座っていた龍は前を見据えたまま、呟くように言う。俺も誰もいないグラウンドを見つめる。夕焼け空がムカつくほど眩しい。思わず、ため息をついた。
大学野球は甘くなかった。1年生の時は特待生として期待され、多くの試合で使われた。将来のエース候補。何度もこの言葉をコーチに言われた。その言葉はただただ、自分には重石としてのしかかってきただけだった。自分でもなぜだかわからないくらい、全くと言っていいほど結果は出なかった。期待するコーチは、ああしろ、こうしろと基本的な投げ方から精神面、普段の生活までアドバイスをしてきた。それでも、成果は見えずどんどん悪化するばかり。自分がどんな投げ方をしてたかわからなくなってしまう。
『マサ、入学当時の方が全然いい球投げてたよな』
そんな声がチームメイトから、ちらほら聞こえることもあった。
『俺がスカウトしたピッチャーはこんなピッチャーじゃない』
俺をスカウトしてくれた人にまで、こんな嫌味を言われた。自分自身を見失ってどうすればいいかわからなくなった時、同学年の龍の行動が目に付いた。
龍は入学当時、推薦で入部したもののずば抜けて上手いと言えるような選手ではなかった。俺の方が明らかに力がある、とはっきりと思っていた。それでも本当に野球が好きな奴なんだということは誰もがすぐにわかった。朝早くからグラウンドに出て、整備を行い、用具を準備し、そして自主練習を欠かさない。最後までグラウンドに残っているのも龍だった。そんな野球が大好きな龍は、先輩にも後輩にも好かれた。龍の行動は当然、コーチ達の目にも入り、自然と試合に出る機会が増えた。そこで龍は地味ながらも着実に結果を残してきている。今や、リーグ戦に入れるかどうか、当落選上にいるピッチャーになっている。チームのピッチャーのカーストがあるとしたら、間違いなく自分より上だ。これは認めざるを得ない事実。
そこで、俺は何か浮上する手掛かりになるのではないかと考えて、3年生になった春から龍と行動を共にしてきた。不自然なほど急に近づいた俺に対しても、嫌な顔をせず、むしろ積極的に接してきた龍はいつしか自分にとって、なんでも話せる唯一のチームメイトになっていた。時々、2人だけで飲みに行くこともあったし、三食もだいたい龍と一緒に食べている。身近にいてわかることといえば、やはりコイツは野球が大好きなんだろうなってこと。俺も、自分は野球が好きなんだ!と思い込んできたけど、コイツには負ける。
「なぁ、野球って楽しくないか?」
隣の龍が唐突に言う。こんな小っ恥ずかしいことも平気で言う奴だ。思わず笑ってしまった。
「楽しいよそりゃ。じゃなきゃこんなキツイことここまでやってこないわ」
夕日に染まった龍の横顔をのぞく。
「でも、試合で活躍できないとさ、野球がどんどん嫌いになっていくというか…。怖くなるよな」
正直、今は野球が怖い。口にして改めて、自分が心底そう思ってることに気がついた。しばらく、龍は腕を組んで、俺が口にした言葉に対してじっと考え込んでいた。普段、打球音や選手の声で賑やかなグラウンドが、とても静かに感じる。練習が終わった後の誰もいないグラウンドが好きなんだよ、って龍が言ってたことを思い出した。
「俺だって野球怖かったよ」
目を伏せて、龍が呟いた。龍の顔は、いつの間にか、今まで一度も見たことがないくらい複雑な表情をしていた。恐怖や怒りや悲壮感が混じったような、言葉で表現出来ない顔だ。どんなにキツイ練習をしてたって龍はこんな顔をしない。それどころかキツイ時こそ笑うやつなんだ、コイツは。
「でもさー…」
龍は両手を顔の前で組んで、じっとグラウンドを見つめて言った。
「野球出来てることってホントに幸せなことなんだよ」
言葉にズンとした重みがあった。今の言葉に、俺はさっきのように笑えなかった。
「こんな世の中でさ、ボールをひたすら追い続けるスポーツを、大学生になってまでやれるのって、幸せなことだよな。野球って金がかかるスポーツだし、俺達は寮にまで入れさせてもらって、朝から晩まで野球のことだけ考えればいいだなんて。世の中にはやりたくても出来ない人がいるのによ」
何が龍にここまで言わせるのか俺にはわからなかった。俺だって心の片隅でそういうことを思っていない訳ではない。けど、龍の言葉の重さは俺が思っていることなんかとは比べられない。迫力が違う。まるで『自分自身が肌身で感じた思い』であるかのように。
「なんで…何が龍を…そこまでにさせたんだ…?」
自分から発した声が震えていることに驚いた。少し肌寒くなってきたからではない。龍のただならぬ雰囲気に怯えてるんだ。龍が何か呟いたように感じた。
「え?」
聞き返すと、龍はフッと小さく息を吐いた。
「これから話すことはマサだから話すことだから。他の人に言ったことないからな」
忠告するように俺を見る。俺は身体の震えを抑えながら、頷いた。グラウンドには黄昏時が訪れていた。
龍が口を開いた。
「俺は犯罪者だったんだ」
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