『過去の自分と』
『血が出ても、泣きも叫びもしない。気色悪いなお前……』
『……気色悪いだと?俺をこんな風にしたのはお前らだろ』
俺の心を、黒い感情が汚していく。
『俺が生きていちゃいけないなら、お前らも生きていて良いはずがない』
このままだと、世の中は敵だらけになってしまう。
これ以上、歪んではいけない――
けれど、理性はじわじわと蝕まれるように消えていく。
まるで闇に呑まれていくかのような、ずっしりとした重みが身体を支配していく。
そして俺は、心を剥がされたかのようにふわりと浮かび上がり、上から自分の身体を見つめるような状態になっていた。
気づけば今まで言われ続けていた言葉を口にしていた。
『もう俺に暴力を振るえないくらい』
いつも使われていたソレを向ける。
『調教してやるよ……』
――あの日を思い出し、俺は心が壊れていたのかもしれない。
「はっ…………」
スナップイーターは千切れた部分から身体が裂けたものの、すぐに再生し、二体に分裂していた。
俺らが逃げられないよう挟み、牙を光らせる。
口からは唾液のようにドロドロとした体液が垂れる。
今、俺が死線をさ迷ってという事実だけでニヤケてしまう。
もう、あんな一方的な暴力は嫌だと思っていた。
けれど緊迫した状況であるほど、俺の心の闇がざわめく。
「……あっはははは!」
笑いが止まらない。
「ははっ、ふはははっ!」
止められない。
「氷雨?どうしちゃったの?」
心配そうに、恐れるように、咲良はそっと問いかけてくる。
けれど俺には届かない。
この俺ではなく、今俺の身体に居る俺には……
笑うことに飽きたのか、俺はスナップイーターを睨み付けると、ポツリと呟いた。
「…………せ」
「ひさ、め……?」
耳を疑ったかのように咲良が青ざめた顔を向ける。
けれど、俺の中にいる、俺ではない誰かがもう一度告げる。
「殺したいなら殺せ」
「ちょっと氷雨っ!?あんたっ、何言ってるかわかってるの!?」
咲良が尋常ではないほどに取り乱している。
俺の両肩を掴みかかり、ガタガタと前後に揺さぶる。
「死んだら、殺されたらもう会えないのよっ!?葵衣やあんたの仲間、誰にも――」
そして大きく息を吸い込み、より一層大きな声を張り上げて
「彼女の私にも!!」
けれど俺は冷徹な視線を送るだけだった。
咲良は唇を噛みながら目を伏せる。長い睫毛を震わせるが、涙は枯れたかのように流れる気配が無い。
俺は興味が無さそうにスナップイーターと向き合う。
「ただの虫けらが、俺を殺せるわけないだろ?」
そして俺は走りながら槍を地に刺した。
槍がしなりながら弧を描いた瞬間、足を地から放す。
身体がふわりと宙を飛び、スナップイーターの眼前まで迫っていた。
口を大きく開け、飛び込むのを待ち構える姿が視界に入る。
だが、俺は冷静に腰のベルトについた留め具を外し、ソレを手にした。
それは硬鞭と呼ばれる鉄で出来た棒状の鞭だった。一定の間隔で節目が付いている。
グシャという鈍い音と共に、スナップイーターが横転する。
そして俺は宣告した。あの日と同じように
「俺が調教してやるよ」
――同じ言葉を
手の平にポンポンと軽く硬鞭を当て、悪役のように不気味に、口元だけで笑う。
咲良はすっかり青ざめ、俺とは一線引いた位置に居る。腰を抜かしてしまったのも、当然と言えば当然のことだろう。
ちなみに一部始終を目撃し、俺の過去を知るはずの葵衣は――
虫が分裂した衝撃で意識を失っていた……
真っ暗な部屋の中、水が流れるような清々しい音が響いていた。
ぱしゃぱしゃと水の床を幾度も踏む影が揺らめき、同時に飛沫が跳ねる。
飛沫は僅かな光を反射して煌めいた。
緋色の神――ナギは踊るようにくるりと回る。
楽しげに軽やかなステップを踏み、黒いドレスの裾が舞う。
近くにしゃがみ込んでいた緑髪の袴の少女、沙羅は不思議そうに首を傾げた。
「楽しそう、なんで?」
待ってましたと言わんばかりにナギは振り返った。
「闘争本能が目覚めたみたいだからねぇ」
ピンと来ない様子の沙羅。けれど、暫くしてハッと息を飲んだ。
「まさか……」
「そう、そのまさか……だよぉ?」
沙羅は認めたくないと言うように首を嫌々と振る。
「残念ながら、現実は残酷なんだよぉ?」
茶目っ気のある口調とは対照的に、沙羅は焦燥感を抱いていた。
葵衣と同じく氷雨の幼馴染みだからこそ、『彼』が暴走していることをすぐに理解できていた。
だからこそ今すぐに会いに行くことが出来ない、助けられない自分にもどかしさを感じていた。
「それにしても、君たちは全然似ていないんだねぇ……」
「何?」
日に焼かれず染みの無い綺麗な白肌を、ナギは舐めるように見回す。
沙羅はゾクリと肌が粟立っていた。
自分の身体を隠すように抱き締め、軽蔑の目を向ける。
「その髪飾り、家宝なんだよねぇ?」
ナギが指差したのは、沙羅の編んだ横髪に付けられた、柊の髪飾りだった。
「そうだけど……」
「その髪飾りはずっと受け継がれるんだよぉ~」
「?」
家宝が受け継がれることは当たり前だと思っていた沙羅は、言葉の裏に隠された意味に気付かない。
「よぉ~く知ってる子が、君と同じ髪飾りを付けてるんだなぁ」
その笑顔はあまりにも不気味なもので、沙羅はようやく勘付いた。
「嘘……」
想定外な出来事に声は掠れ気味。無理矢理絞り出したようだ。
「私の、子孫……葵衣や氷雨と……?」
妖艶な笑みと、沈黙が答えだった。
お金持ちな家系に生まれ、ずっと甘やかされて育ったお嬢様な沙羅。
氷雨とは正反対だった。
食べる物に困らず、衣服はいつも新品。家に帰ると両親が暖かく迎えてくれて、笑顔の絶えない本当に幸福な家庭。
氷雨の過去がどれだけ過酷であったか想像がつくはずもない。
それでも沙羅は氷雨を理解する努力をし、友人という関係を築いていた。
「それでぇ、君はどうするのかなぁ~?」
ナギは楽しげに問いかけた。
「あたしのモノになる決心はついのぉ~?」
すでに答えが決まっている質問をわざわざ再度声に出すことで、沙羅を煽っているのだ。
「…………っ!!」
純真無垢な沙羅にとって、心身を捧げろというナギの命令は、屈辱的以外の何物でもなかった。
それでも拒否権はすでに取り上げられており、氷雨を助けるためにはナギに抗うことなど出来るわけがなかった。
「わかっ、た……」
顔を林檎のように真っ赤に染め上げ、沙羅は袴をはだけさせた。
するりと、足下へと服が落ちる。
下着姿で恥じらう沙羅を、ナギは満足げに見つめた。
「交渉成立だねぇ」
パチンと鳴らすと、沙羅の首元に鈴が現れた。チリンと涼やかな音を響かせる。
「二人、助けてくれたの……?」
「敵さえいなくなれば、眠りにつくはずだからねぇ」
「あり、がと」
沙羅の視界は歪んでいた。視界に写る物がゆらゆらと揺れ、光が反射する。
瞳いっぱいに潤う雫が、ぽとりと落ちる。
「これで君はあたしのモノだよぉ?」
沙羅は葵衣、氷雨、夜宵の三人には自分の穢れてしまった姿を見せたくない。
もう合わせる顔が無いと涙を流した。
「ごめ、なさい……」
静寂の世界で、その言葉だけが波紋のように広がった。
硬鞭を振るう氷雨の力は圧倒的だった。
スナップイーターは叩かれる度に肉塊が削れ、バラバラと散っていく。
けれど肉塊は集まり、新たな一体として生まれ変わる。
完璧に囲まれた三人。咲良は舌打ちすると白衣へと手を伸ばした。
「氷雨、避けなさいっ!」
返事を聞く間もなく白衣の裏にぶら下がった爆弾を外し、頭上へ放り投げる。
ピンは白衣に固定されているため、外した時点で爆発までのカウントダウンは始まっている。
氷雨は瞬時にスナップイーターから飛び降りた。
咲良は葵衣を庇うように伏せる。
刹那、周囲に爆炎と爆風が広がった。
弾けるような光の中、咲良は口を布で覆いながらもう一つ爆弾を投げた。
上空で筒から紫の煙が迸る。
背の高いスナップイーター達を包み込むと、爆炎の影響もあってか動きを鈍らせていた。
氷雨は槍を引き抜き、円を描くように自分を中心として横一文字に振るう。
ズバッと、真っ二つに裂けるが、再び肉塊同士で集まろうと蠢く。
「キリがない」
「そうね」
しかし――再生には限度があったのか、スナップイーターの身体は石化し、粉々に砕けた。
「終わった、か……」
「ええ」
二人は疲労が滲み出ていた。
汗を袖口で拭い、氷雨は落胆する。
「ちっ……」
「氷雨?」
破壊的な氷雨は普段の氷雨とは別の人格。咲良にも理解出来ている。
リミットがあっても仕方がない。
「ありがとう、あの――」
咲良は自分達を助けてくれたお礼を言いたかったが、どう呼ぶべきか悩んでいたようだ。
「俺のことは水雨と呼べ」
「ありがとう、水雨」
フッと笑うと、水雨は瞼を閉じた。
ゆっくりと開かれた瞳には光が戻っている。
「おかえりなさい、氷雨」
虚をつかれたような顔をする氷雨。
どうやら暖かい言葉に胸を打たれていたようだった。
「ただいま」
返事をすると、恥ずかしげに顔を伏せた。どうやら氷雨は水雨の記憶を持っているようだ。
咲良は戻ってきた氷雨のことを強く抱き締めた。
少し二人から離れた場所で目を覚ました葵衣は、起き上がると静かに二人を見つめた。
「ようやく水雨が出てきたみてぇだな」
知らないようで、全てを知っていた。
「それでいい。お前は、俺らは水雨と向き合わないと、神と会う意味は無いんだ……」
葵衣は既に虫嫌いを克服していた。気絶のフリは水雨を呼び起こすための芝居でしかない。
「ごめんな、氷雨……」
本人以上に悲痛な想いを抱えながら、葵衣はただ謝ることしか出来ずにいた。
「ごめん、水雨…………」