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たぐいまれなるあるじ  作者: 九重 木春
たぐいまれなる執事
2/7

後編

 今日も少年は弟様の賢さに感嘆の息を飲みました。弟のフラド様は少年の二つ年下でありながら、既に父親から少しずつ仕事を任されているのです。いつ部屋に入っても綺麗に片づけてあって、山のような書類に目を通し、領地を回ったり、王宮の催しに参加したりと大忙しです。前の主とは比べものになりません。


 しかし、少年の仕事は以前より減ったと言っていいでしょう。弟様は自分で何でも出来る方でしたので、少年の手を必要としていないのです。


 弟様から命じられれば少年は全力を尽くして取り組んだでしょう。けれど少年は弟様の警戒を察してしまいました。弟様は完璧主義者ですから、自分の引き受けた仕事を他人に任せられないのです。他人に任せて足を引っ張られたり、情報を悪用される危険を常に考えていらっしゃる、そのくらい賢い方でした。そうなると少年は手も足も出せません。少年は弟様に仕えるようになってからというもの、自分の存在が不確かになってしまったような、言いようのない不安にとらわれるようになりました。


 少年が溜息をついて部屋に戻ると、イトコのカスラーンが少年の部屋を訪ねてきました。

 そして、訴えたのです。


「いったいぜんたいどういうことなんだ!ダンスの練習に付き合えば足を踏まれ、紅茶を出せば高価なカップを割られるし、散歩の途中に猫を追っかけて行方不明。あれでほんとうにお嬢様なんかよ」


 少年に言わせればそんなのは日常茶飯事でしたし、驚くに値しません。

 カスラーンの努力不足に過ぎません。


「お嬢様は何人ものダンスの教師が匙を投げた程の強者。お嬢様を矯正するより自分が主の独特のステップをマスターした方が早い。それにお嬢様は猫舌だから熱い紅茶は厳禁だ、猫を見つけたらまたたびを出して引きつければいいだけだろう」


「またたびなんて持ち歩いてねぇよ!」


「お前は学校で何を学んだんだ。解らないことは俺に聞けと教師から習ったのか。自分のことばかりでなく、主に目を向けろ。さぁ帰った帰った」


 少年はカスラーンの背中を押して部屋から追い出しました。少年は無性にお嬢様が懐かしくなりました。あの頃は忙しかったけど毎日が充実していた。お嬢様に仕えていた時の日誌はすぐに厚くなりましが、今は毎日二、三行書いて終わってしまいます。


 あの時お嬢様が下着を履き忘れていなかったら、今も自分はお嬢様に仕えていたことでしょう。


(そうだ!また同じことが起きぬように対策を練っておかなければ)


 少年がその難題に取り組む内に夜は更けていくのでした。









「姉上の様子がおかしい、調べてきてくれないか」


 それは弟様からのはじめての命令でした。

 じつは少年も同じことを気にしていました。


 以前はよく聞こえていたお嬢様の笑い声が屋敷に響かなくなったのです。この前廊下ですれ違った時は完璧なレディーの所作で挨拶され、別人のようなお嬢様に少年は戸惑ってしまった程です。


 それと同時に屋敷のまわりにも変化が起き始めていました。お嬢様に毎日褒められていた花たちは元気がなくなり、お嬢様が小食になったので在庫過多になった食料庫は腐りやすくなり、お嬢様と戯れなくなった猫は運動不足でネズミが捕まえられなくなりました。どんどん屋敷の中が暗くなっていきます。


 あれほどおしゃべりが好きだったのに口数も少なくなってしまった、とメイドが少年に伝えに来ました。そのことを喜んでいるのはお嬢様の父親である当主様とカスラーンだけでした。





 その日はお嬢様のダンスのレッスンがある日でした。少年は弟様のご命令で自分がお嬢様の練習相手をつとめるから帰っていい、と教師を下がらせました。


「お嬢様、今日は私と踊りましょう」

「うれしいわ。よろこんで」


 突然部屋に入ってきた少年の申し出にもお嬢様は快く受け入れてくれました。お嬢様の手を取った瞬間、違和感を感じました。その正体はお嬢様の手を覆う長い手袋でした。

 お嬢様の幼児(おさなご)の手のようにあたたかい、そのぬくもりが好きだった少年は残念な気持ちになりました。


 さて、踊りはじめるとお嬢様は見間違えるように上達していました。これならデビュタントでも恥をかいたりしないでしょう。しかし、五曲目になってお嬢様ははじめて少年の足を踏んでしまいました。


「ごめんなさい、痛かったでしょう」

「いいえ、羽のように軽かったですよ」

 少年はお嬢様が間違えて自分の足を踏んだというのに、嬉しくなってしまいました。

 これでこそ、自分の主だ、と思ってしまったのです。


 すると、お嬢様は後ろに手を組んでよそ見をしています。


「なにをしているのですか」

「なんのことかしら」

 お嬢様はにこりと笑って首を傾げました。


「さぁ、つづきをはじめましょう」

 お嬢様の手を取って少年は踊り始めます。少年は大変優秀でしたので滅多にミスをしません。今度はターンしたところでお嬢様が転びそうになりました。少年は咄嗟に抱きとめてそれをふせぎました。


「お嬢様、手袋がはずれそうですよ」

「あらまぁ、ありがとう」

 と言ってお嬢様は素早い動作で腕まで覆う手袋をたくしあげます。

 少年は不審に思いました。


 そうです、お嬢様は滅多なことではあわてたりしないのです。


 少年は無理矢理お嬢様の手袋を取り払って唖然としました。


「誰に、やられたのですか」

 お嬢様の両腕にはたくさんの痣が連なっていました。少年は自分の主を傷つけた犯人に殺意を覚えました。


「私がやりかえしてやりましょうね」

 今日追い払った教師か、カスラーンか、当主様の可能性だって捨てきれません。たとえ当主様であろうと弟様の力添えがあれば始末も不可能ではない。少年の殺人鬼のような視線にお嬢様は首を振りました。


「違うのよ、これは自分でやったの」

「どうしてこんなことをするのですか」


「これは立派なレディーになれなかったおしおきなのよ」

 そういえばお嬢様は自分を弟様の元へ行かせた時、そんなことを言っていました。立派なレディーにならなければお父様に叱られる、その第一歩として「弟様の執事になりたい」という少年の望みを叶えたのです。


「やめてください、こんなことは今後一切しないでください」

 少年は泣きそうな声でお嬢様に言い募りました。


「どうして?わたしはお父様にとっては恥ずかしい娘で、あなたにとってはみっともない主人だったみたい。せっかく欠点を教えてもらったのだから頑張りたいの。ほらこれを見て」


 お嬢様がチェストから出してきたのは一枚のハンカチでした。手渡されたハンカチを広げてみるとそこには青いヴィオラの花が刺繍してあります。少年がお嬢様の縫ったものを一見して判別できたのは、はじめてのことでした。


「すごい……これをお嬢様が?」

「ええ、渾身の出来よ!あなたにあげる」


 少年の目は釘付けになりました。

 それはお嬢様の笑顔でも、ハンカチでもありません。

 お嬢様の傷だらけの指にでした。


「わたし、ダンスも上手になったでしょう?」

「……はい、とても上達していて驚きました」


「新しい先生はとても優しくて熱心な方でね、わたしが一曲完璧に踊れるようになるまでずっと付き合ってくださるの」


 そのお嬢様の目の下にはうっすらとクマが浮かんで見えます。一体、完璧に踊れるようになったのは夜中の何時だったのでしょう。もしかしたら朝方かもしれません。お嬢様の睡眠時間まで削ったり、腕を痣だらけにするほど重要なことなのか、少年は疑問を抱きました。


 弟様には出来て、お嬢様には出来ないこと、それは悪いことでしょうか。


 お嬢様の父親である当主様はことあるごとにお嬢様と弟様を比較してくどくど周りの者に愚痴をこぼします。ええ、何処にだって悪口ばかり言って満足する者がいるものです。だから使用人たちは仕事以外の時はお嬢様の悪口を聞かされないように当主様から姿を隠すよう心がけておりました。


 お嬢様は屋敷の者達に迷惑ばかりかけて、嫌われてるんじゃないかって思うでしょう?


 いいえ、それは違います。

 逆に屋敷の者たちは感謝しているのです。


 お菓子爆発の後に掃除をしたら害虫の巣が見つかったり、怪我をしたダンスの先生は病院に行ったら初恋の人に再会して結婚の報告をしにきたり、お嬢様の縫った芸術的な刺繍は少年の腹筋を鍛えさせました。


 お嬢様の失敗など些細なことでした。

 それを自分は知っていたというのに『自分の主に(あたい)しない』などと傲慢にも口にしてしまいました。これではお嬢様のことを何も解かっていない、少年が嫌悪する当主様やカスラーンと変わりません。


「わたしが立派なレディーになったらみんなに喜んで貰えるでしょう。わたしはお父様やアズラク、屋敷のみんなに支えられて生きているのだから、わたしに出来ることは何でもしたいのよ」


「じゃぁ、まずは私の願いを叶えてください。私はお嬢様の執事に戻りたいのです」

「それでは私の執事になったカスラーンの仕事がなくなってしまうでしょう」


「だいじょうぶですよ。すべて私にお任せください。だからお嬢様は安心してください。お嬢様は十分頑張りましたから、もうおしおきはやめてごほうびにしましょう。今、赤スグリのケーキをお持ちいたしますね」

「待って、それはあとでいいわ」


 お嬢様は少年の服の端をつかんで少年の足を止めました。


「よろしいんですか?」


 正直、大好物のケーキには心惹かれます。

 でもそれ以上のごほうびがお嬢様にはあったのです。


「わたし、あなたとね、たくさん話したいことがたまってるの」

「はい、よろこんでおつきあい致しましょう、お嬢様」











「ということでフラド様、私をお嬢様の執事に戻して頂いてよろしいですか」

「君はいさぎよいねぇ」


 弟様の執務室で少年は頭を下げていました。自分のわがままで弟様の執事になったというのにそれを辞退するのですから当然のはなしですね。


「お嬢様には私がいないとダメなのです」

「ちがうでしょう?君に姉上がいないとダメなんだ。君は根っからの執事だからね。あのくらい規格外でないとバランスが取れないんだよ」

 優秀な少年は能力的には誰の執事になってもそつなくこなすでしょう。けれどお嬢様程、少年に仕事を与えてくれる主はいません。お嬢様の傍だからこそ存分に力を発揮出来るのです。


「僕はね、生まれた時から姉上を見ているから解るんだ。姉上のアレは先天的なもので型にはめられるものではない。それを父が強引に修正しようとしたものだから、その反動で屋敷は滅茶苦茶になってしまった。君と姉上はとても相性がいい。色にも補色というものがあるように正反対のものでも互いにないものを補いあえる。僕たちはその点、似すぎていたのだと思うよ。だから疑心暗鬼になってしまったね」


 弟様の指摘は的確でした。はじめは訳のわからないお嬢様より常識的かつ賢い弟様であれば理解も出来るし、自分の能力を活かせると思っていました。しかしそれは間違いでした。互いに相手の一歩先を読もうとし、同じ答えを弾きだす。鏡の中のもうひとりの自分と変わりません。


「僕が覚えていることを姉上が忘れているから助かる時もあるし、僕の怒りを姉上が笑って昇華してくれる時もある。世界は自らを保つために平行であろうとするのだ」


「つまりフラド様は私がお嬢様の執事に戻る事は最初から予測していたのですね」

「あぁ、君はどれだけ貴重な人間を主としているのか理解していなかったようだからね。ほら、このハンカチを見ると僕は腹の底から笑いがこみ上げてくるのだよ。王宮御用達の針子でもこのような傑作は縫えないだろう」


 弟様がポケットから取り出したのはいつか主が刺繍していたハンカチでした。少年もそれが出来あがった時は前衛的且つ独創的な作品に必死で笑いを堪えたものです。まさかそれを主が弟様に差し上げていて、受け取って下さったとは。


「とてもイイ趣味だと思います」

「そうだろう?僕と君は感性が似ていると思ったんだ」


 弟様と少年はにっこりと笑って互いの仕事に戻るのでした。








 しばらくすると、お嬢様は立派なレディーから元の主に戻っていきました。

 それも少年が主を地道に誘導した結果でした。


 主が上品に笑おうものなら「口を開けて笑った方が可愛らしいですよ」と誉め、猫と遊ぶのを我慢しようものなら「猫はお嬢様が大好きなようですよ」と猫を手渡し、「立派なレディー」と口にしようものならお嬢様の唇にキャンディーを放り込むのでした。



「お嬢様、お願いがございます。どうか私が以前言ったことは忘れていただけないでしょうか。私は間違っていたのです。あの時、私はお嬢様への忠誠心を邪推され悔しくて我慢ならなかったのを私が未熟なばかりにお嬢様への怒りに変換してしまった。ただの八つ当たりでした。ダンスも勉学も刺繍も完璧にする必要はありません。猫と遊んでも構いません。お嬢様にはお嬢様らしく健やかに過ごして頂きたいのです」


「間違いなんかじゃないわ。語学の先生が言うにはわたしは人より苦手なことが多いようだから。でもきっと先生よりあなたの方がわたしのことをわかってくれているわね。嫌いなピメントを食べれるようになった時も、字が綺麗に書けた時も、一番最初に気付いて褒めてくれるのはいつだってあなただったわ。だからわたしは頑張れるの。アズラクの言う事はわたしの為を思って言ってくれること。それを間違いだなんて思わないわ」


 ガツンと頭を何かで殴られたような気持ちでした。

 

 自分は主の何を見ていたのでしょう。

 周りの意見におどらされ、常識にとらわれ、何も見えていなかったに違いありません。少年は粗さがしばかりしていた自分が恥ずかしくなりました。

 

 主は少年の小さな一言を大切に胸にしまっていてくれていたのです。

 自分の努力はちゃんと主に伝わっていましたし、報われていました。


 ――この方の絶対的な信頼に応えたい。


 少年の体の何処に隠れていたのか、身を焼き尽くすような使命感にかられました。

 


「――では、これからは何か失敗されても自分を責めたりなさらないで下さい。私はお嬢様が身を犠牲にしたり感情を殺されてしまうのがなにより悲しいのです。お嬢様は人より努力をする機会を神様から沢山頂いているだけです。頑張っても出来ない事は私が支えますから」


「そうね、わたしの隣にはあなたがいてくれるわね。あなたがわたしの執事さんでほんとうに良かった」


 破顔一笑した主に少年の心が満たされていきます。


 この時になって少年はようやく祖父の手紙の意味を理解しました。


 少年が主に求めていたことは頭の回転の速さでも優美な容姿でも完璧な教養でもなかったのです。


「それは私の台詞ですよ、私のたぐいまれなるお嬢様」


 











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