欺瞞の怪物
「――真実は変わったんだ」
新月間近の深夜――月は細長い。一等級の星辰が見下ろす港湾の倉庫区劃。
深い闇が垂れ込め、そこを疾駆する影が二つ。
かたや、奥歯を噛み締め、喘息紛いの呼吸で逃げるフード男。かたや、薄笑いを浮かべ、近日の大変動を説く男。
「――何処まで走るの? 子羊さん」
追う男は跳躍―― およそ三メートルはあろう高さの倉庫に跳び乗り、暗闇で遁走を計る人影を目視する。その足取りは限界を迎えつつあるようだ。老躯にしては、よく持ちこたえた物である。
「哀れだね」
若々しい美声。だが、その真底に横たわっているのは皮肉にも嗜虐――分類上、最も害悪とも言われる性格だ。
視界のフード男は片手を変形――長大な鞭を思わせるそのしなやかな腕は、とある倉庫の扉を打ち破った。塵埃が舞い、潮風がそれを薙ぐと、男の姿は無い。
若人は一考。
「ふーん、考えたね」
男は跳躍。ひとっ飛びで、その倉庫の前へ躍り出る。あくまで前――突入はしない。
――そんな馬鹿な事、
「ひっかかるとでも思った?」
若人は、倉庫の入り口を壁ごと薙いだ。ひしゃげたトタンが宙を舞い、砕けたコンクリート片が散弾の如く撒き散る。倉庫に大穴が開いた。敵の狙いは、狭い扉を潜った自分を襲撃すること。俊敏な若人を討つには最も明快で、最も単純な策略だ。しかし、この男の前では悉く看破されてしまう。
「子羊さーん。毛を刈る時間だよー?」
男は、変形させた片腕――古代ギリシア調を象る柱状の鈍器を元の腕に戻す。
倉庫内に撒き散らされた塵。視界不良。潮風もそう早くは取り除いてくれまい。だが、彼は冒される危険を物ともせずに、そこへ踏み入れた。
肌が鋭く空気の流動を知覚する。
「子羊さーん」
反響。大まかな空間把握。彼は感じた。木箱が堆く積まれた倉庫内、その最奥に隠れる一人の人間。
「そこにいるんでしょう?」
その一言が、その場の空気を一変させた。
破壊音――木箱の裂ける音、崩れる音が順繰りにあちらこちらで響き、それは猛烈な速度で接近してくる。
「――甘いね」
視界の隅に影。濃密な塵埃が、あたかも鞭のようなカーブを描いて接近。
彼の健やかな体幹にて、それを避けるのは容易かった。
気流に身を任せるように、躱し、躱し、跳び、躱し――。
第二の鞭も現れたが、男は全く気にしない。幾ら鞭が増えようとも、彼の身のこなしは、それに劣るものではない。
「世界は変わったんだ」
男は語る。全身で敵の動きを読みながら、口先だけは別の仕事。
「常識は、常に大衆の手で導かれる」
渾身の鞭が地面を穿つ。男は跳躍して避ける。
「同じように、真理も大衆――いや、ちょっと専門的かな、まあ人間が導くものだ」
第三、第四の鞭が現れる。彼は、片手を変形――鈍重な柱であるが、扱いはお手の物。四方から攻めてきた鞭を、弧を描くようにして薙いだ。
「僕等はまだ真理を見つけていない。だけど、概形だけは手中にある」
塵埃が薄れていく。暗闇の倉庫。唯でさえ視覚するのも難しい条件下に、彼は順応していた。
「概形だからね、どれだけ歪んでてもいいんだよ。どれだけ倒錯していても、大衆は喜ぶんだ」
完全に塵で見えなかった敵の輪郭が、うっすらと浮かび始める。
「だから大衆は、それがあまりにも真実と欠け離れた物でも気付かない」
深い闇に敵の表情が浮かぶ。苦悶の面持ち――それは、戦闘故か、耄碌故か、はたまた、男の語り故か。
「子羊さん。貴方の時代はもう終わったんだ。貴方の宗教観は時代遅れ――アウト・オブ・デイトさ」
敵の男はきっと彼を睨み、両腕から枝分かれた四本の鞭を束ね、下方から殴るように攻撃――悲しくも、彼の柱の前では何のダメージにもならない。
「どうしてそんな抗うんだい?」
柱の陰から凛とした顔――新時代を司る若人の微笑み。
「世界は――真実は変わったんだ、大変動を境にね。今まで崇められてきた真実すなわち概形は、僕等の手によって改められたんだよ。既に大衆はほとんどこの方へ改宗し、残った人々も明日には僕等の社会の一員だろう。そして、一般常識も、法律も、何もかも、ここに従属しようとしている」
男はニッと笑った。先刻の様な色男の微笑では無く、歯を剥き出しにして、統率の野望をぎらつかせた狂おしい笑い。
「固陋な貴方達は邪魔なんです。消えてください」
反転攻勢――守備を一貫していた若人は、鈍重の柱を振り、鞭を撥ね退ける。そして、振り被り様に敵の鳩尾へ重い一撃。ところが、間一髪で四本の鞭に防がれる。
「どうして抗うかなー。無駄だよ? 貴方の居場所はどこにもない」
無言を守り通してきた敵。ところが、ここにきて初めて口を開いた。
「――私の信じてきた世界は、偽りだったのか?」
皺枯れた声。前時代の人々を導いてきた一大宗教の長――クラティーナ=マチル教皇。
「――子供の頃から親に教え込まれてきた、この世界観は間違っていたのか?」
詰問。しかしその矛先は、間近に佇む若人では無い。彼は過去に問うていた。
「そんな――そんな事があっていいのか。私が行ってきた、儀式も、祝典も、催しも、全てが嘘――」
教皇の顔が憎悪に染まる。
「認めるわけがなかろうッ!!」
凶悪な鞭が、四本、八本、十六本――。周囲の木箱を、壁を、フォークリフトを、悉く薙ぎ倒していく。そして、最後に彼が見定めるのは一つ――柱の若人。
「私は、真面目に生きてきた! 人々の為に尽くしてきた! だからこそ教皇になった!」
アトランダムに若人を襲う幾本もの鞭。しかし、彼の卓越した腕使いの前では、全て受け止められてしまう。
「お前は幸運だな、ええ!? こんな都合の良い時期――ちょうど社会に飛び立つ寸前で大変動に遭遇し、そこに便乗して世を司る地位を得る。――こんな美味い話、私も味を占めて見たかったわ!」
生まれた時から、周囲は一つの概形を信じていた。だから、自分はそれに則った。そして、善行を積むことが最大の徳と言われ、勤勉にもそれに従った。大量に徳を積んだ。お陰で、教皇の座を得た。しかし――、
「何故だ、何故私を殺す! 私は、およそ五十年もの時を世界統治に貢献したクラティーナ教皇であるぞ!」
「でも世界は変わり、君の宗派は欺瞞の塊であると裏付けられた」
「黙れ小童! 私は認めぬぞ! 皆それを信じておったのだ、それも長い間な!」
鞭は収束――ドリルを思わせる巨大な造形。伸縮性をバネに、兆速で若人の柱を貫かんとする――。しかし、刹那の所で回避。クラティーナ教皇は隙を見せてしまった。
一瞬で詰められた距離。鞭を舞い戻すには時間が足りなさすぎた。そして老いた足――しかも疲れた足で、どうしてこの危機を回避できただろう。
若人の柱は、古代、知恵にて繁栄したギリシアの建築様式――コリント式の如し。教皇の鳩尾は、この荘厳な模様により貫かれた。
真暗な壁際に横たわる老人――クラティーナ教皇。彼は、口から大量の血を噴き零しながらも、まだ息が残っていた。
「何故、私は死なねばらんのだ」
「それは教皇の座に執着し過ぎたからだ。クラティーナ」
老人を見下げる若人。彼はポケットからハンカチを取り出し、両手に着いた血糊を拭っていた。
「……嫌だったんだ、私は。認めたくない。私の人生が、欺瞞に満ちていたなど信じたくもない」
顔に零れたもう一つの体液――涙。それは彼の頬を伝い、コンクリートの地面を濡らす。
「真実は変わるんです、人の手によってね」
追い討ちをかける若人の言葉。刻々と死に近づく教皇は、耳を塞ぎたく思った。
「いやだ、いやだ、死にたくない。私は――詐欺師にはなりたくない」
「残念ですが、貴方は死にます。お腹の傷を見てください、向こう側が見えていますよ」
しゃがみ込み、嘲るようにして腹を窺う若人。そして、老人の背後から上に伸びる血糊を辿り、砕けた壁にへばり付いた腸を突き始める。
老人は咳。同時に血も零す。そして、絶え絶えの息で言葉を紡いだ。
「若い人よ……警告しておく。必ずや、お前も私の二の舞になる」
「ならないよ」
若人は冷笑を浮かべる。
「絶対ならない。勘違いしてるようだけど、僕はこの世界を統べない」
「……な、に?」
「僕は裏から操るだけだ。その方が安全に稼げるからね。こうして貴方を殺しに来たのも、その方が都合が良いから」
彼はハンカチで指を拭い、それをポケットにしまう。
「僕は、人々の真実が慨形に過ぎないことを知っているんだ。貴方はそれを知らなかった。だから、貴方は教皇の座に着けたんだ」
愚かな称号だよ、と彼は付け加えて踵を返す。
クラティーナ教皇は、その小さくなっていく体を見つめ続けた。憎悪も、怨念も無く、ただ見つめ続けていた。
彼の腹から灌がれる血だまりは、遂に彼の顔も浸さんとしていた。涙の染みはそれに抗えず、敢え無く真紅に塗り潰される。
若人は港湾を立ち去った。
闇夜は深く、細長い月が彼を見下ろしている。
明日は新月。それは、新しい世界の始まりであった。
古きは死に、新しきが栄える――皮肉なものだと彼は鼻で笑う。
「僕等は亡霊に刺される。過去から蘇った、全く古い存在が、牙を剥く」
彼の信条は流転。真実は常に取って代わられるものであり、人々はそれに喜々として従う。
「真実は欺瞞。だから、僕は順応を重ねる」
闇に独り言つのは彼の癖。彼は微笑を浮かべる。
世界は流転する。それに伴い、真実も変わる。
彼は、真実の鎖から解き放たれた、一種の狂犬であった。
無性に戦闘物が書きたくて書きました。
読んでいただきありがとうございました。