『京都守護職』 というお仕事
今日も暑かったですね、体調管理は気をつけましょう。
お盆といえば、京都です。
お盆期間中は、長政の更新のみで申し訳ないですが、ご容赦くださいませ。
永禄10年(1567年) 9月
浅井長政は、『京都守護職』に就任した。
京の都が『平安京』を指すようになったのは、794年以後のことである。
それ以前は、飛鳥京、平城京、恭仁京などが”京”(京師・京都)であった。
それゆえ、平城京のことを南都と呼ぶのである。
ちなみに洛中とか洛外という、『洛』は、意外なことに洛陽のことであるらしい。
京の都であるが、古来より詩文において中国王朝の都への憧れを込めて都のことを洛陽・長安などと呼ぶことがあったようだ。
さて、『京都守護職』であるが、”山城守護”ではない。
あくまでも、平安京(洛中)に限定されている。
現在のところ、『平安京』は、その名に反してうち続く戦乱により荒れ果て、上京と下京さえ別の町に分かれている有様である。
先ずは洛中と洛外を分ける必要がある。
そこで参考となるのが、太閤秀吉公のお土居である。後は京都市を念頭に置いて市域を分けることから始まった。
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― 本国寺 浅井長政 ―
というわけで、俺が引き連れてきた軍勢に追加を含め三千名の兵で、京の都の警備に当たることとなった。
洛中の平安を守るという職務 を遂行するためである。
俺は、とりあえず本陣を本国寺へ移し陣頭指揮に当たった。
何しろ新設の令外官であるため、先例がないのだ。
「浅井が守護であればなあ~」
と以前、思わず愚痴を漏らしてしまっていたが、朝廷のお墨付きの京都守護である。
戦国乱世を生き抜くため、また明るい未来を作り出すために有効に活用して行きたい。
「思えば地道な努力の積み重ねが、『洛中法度』として実を結び、今にいたるんだなぁ~」
何にせよ、失敗は許されない。
小堀正次、板倉勝重、河田長親を奉行に据え、本腰を入れて頑張ろうと思う。
先ずは公家衆と寺、そして町衆と協議の場を設け幅広く意見を取り入れることとした。
浅井家は、いわば余所者である。
細心の注意を払ってもやり過ぎでは無い、”浅井の支配を受け入れることが利益になる”と信じてもらうことが先決である。
幸い、『洛中法度』の実績と朝廷・摂関家へのパイプがあったので、何とか最低限の信用は得られているようである。
先ずは、地道に京の平安を守ることから始めて行きたい。
それが、将軍後継の争いがある今の吃緊の課題であるのだから。
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― ある日の長政 ―
将軍後継戦争は、なおも続いている。
双方が政略・知略・謀略・戦略の限りを尽くし戦っている。
”義秋・義栄のどちらが将軍となるのか?”
それは未だ判らない、そんな状況がしばらく続くのであるが……。
ここでは、長政の京での活動のみに話を絞って進めたいと思う。
― 来客 ―
浅井長政が、「京都守護職に就任したお祝い」と称して大勢の者達が本国寺の陣屋に駆けつけた。
先ずは公家衆。
主賓は、近衛前久卿と山科言継卿であろう。
「長政はん、上手く行きましたなぁ」
『お公家さん』こと、山科言継が微笑みを浮かべ成功を言祝いだ。
「はい、これも関白殿と言継卿のお蔭でございます」
「うむ、くれぐれも都を戦火に巻き込まぬよう頼むぞ長政」
前久が、くどいほど念押しをする。
なんといっても目下の最重要課題といえばコレである。
『遠武令』が出たとしても、それを守らせなければ無意味なのだ。期待は大きい。
(公家といえども戦いに巻き込まれてしまえば、死を待つより他はないのである。)
「はい、義兄上様。この長政にお委せを」
「ほほほ、ほんに頼もしい」
「まことにのう」
すでに、利益で結ばれ、『運命共同体』である3人に”裏の言葉”など必要なかった。
京の平安、日の本の静謐、そして、お家の繁栄。
そのために、3人はかたく手を携えているのである。
(まあ、お公家さんは相変わらずの酒好きではあったが……。)
京の町衆は、すでに懇意にしている者も多く、案外素直な気持ちでお祝いに来たようである。
寺の僧侶は、長政の『信仰の自由』について探りを入れに来ている者が多かった。
浅井家が本願寺と懇意にしている関係で、警戒を強めている所もあったが、長政からは分け隔て無く対応されてひとまず落ち着きを見せるのであった。
他にも利益やお零れに預かろうとする者が大勢押しかけたが、長政の家臣達によってそれなりに丁寧に対応がなされた。
― 軍神の来訪 ―
そんな就任直後の慌ただしさ中、大物の来客があった。
上杉謙信公が、密かに長政に会いに来たのである。
長政の今回の消極的な動きに対して、不信感をというよりは不満を抱いていた謙信であった。
本来であれば、すでに義秋公を将軍につけていてもおかしくはないのである。
朝倉義景の采配でなく、謙信が主導したのであれば、またたく間に三好を駆逐していたであろう。
そう思うと歯がゆかった。
長政の本意を知ろうと、多少喰い気味に問答がなされた。
が、最終的には、戦を求めずひたすら平和を願う姿に心を打たれたようであった。
互いに酒を酌み交わしながら、お互いの熱い思いの丈を語り合ったのである。
謙信は、立ち塞がる敵を討ち果たした上での平和を望み。
長政は、お互いの対話と歩み寄りによる平和を願うのだった。
《長政は、よき漢である》
それが、謙信の感想であった。
旨い酒こそが、”似ているようで違う理想”を持つ二人をつなぐ絆であった。
求めるものは同じである。
”好き友と、盃を交わす” それだけだ。
翌朝、謙信は笑顔で戦場へと向かった。
「弟、政之のことをお頼み申します。使ってやって下され!」
「相判った!!」
僅かな供を引き連れた謙信は、愛馬.放生月毛に跨がり颯爽と去って行った。
― 『洛中見廻り組』 と京の地理 ―
長政は精力的に、京の町を見廻っていた。
もちろん、自身での見回りにはおのずと限界がある。
そこで長政は、年長の小姓連中を京へ呼び寄せ見廻りの任に付かせた。
『洛中見廻り組』の誕生である。
もちろん警邏の意味もあるが、京の町の様子を肌で覚えさせる事をねらっている。
(まあ、半分は観光なのかも知れないが、見聞を広めるという意味はある。)
またそれに先立ち、前世の記憶にある”京の通り名の唄”を元に、各通りに名前を付け直した。
荒れ果てた町並みを再生するには、先ずは通り(みち)を回復することである。
整然とした碁盤の目の町を取り戻すのだ。
《東西通り名の唄》
まる たけ えびす に おし おいけ
あね さん ろっかく たこ にしき
し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう しち(ひっ)ちょうとおりすぎ
はちじょう(はっちょう)こえれば とうじみち
くじょうおおじでとどめさす~♬
まる:丸太町通り
たけ:竹屋町通り
えびす:夷川通り
に:二条通り
おし:押小路通り
おいけ:御池通り
あね:姉小路通り
さん:三条通り
ろっかく:六角通り
たこ:蛸薬師通り
にしき:錦小路通り
し:四条通り
あや:綾小路通り
ぶっ:仏光寺通り
たか:高辻通り
まつ:松原通り
まん:万寿寺通り
ごじょう:五条通り
せきだ:雪駄屋町通り
ちゃらちゃら:鍵屋町通り
うおのたな:魚の棚通り
ろくじょう:六条通り
しちじょう:七条通り
はち:八条通り
くじょう:九条通り
《南北通り名の唄》
てら ごこ ふや とみ やなぎ さかい
たか あい ひがし くるまやちょう
からす りょうがえ むろ ころも
しんまち かまんざ にし おがわ
あぶら さめないで ほりかわのみず
よしや いの くろ おおみやへ
まつ ひぐらしに ちえこういん
じょうふく せんぼん はてはにしじん♫
てら:寺町通り
ごこ:御幸町通り
ふや:麩屋町通り
とみ:富小路通り
やなぎ:柳馬場通り
さかい:堺町通り
たか:高倉通り
あい:間之町通り
ひがし:東洞院通り
くるまやちょう:車屋町通り
からす:烏丸通り
りょうがえ:両替町通り
むろ:室町通り
ころも:衣棚通り
しんまち:新町通り
かまんざ:釜座通り
にし:西洞院通り
おがわ:小川通り
あぶら:油小路通り
さめない:醒ヶ井通り
ほりかわ:堀川通り
よしや:葭屋町通り
いの:猪熊通り
くろ:黒門通り
おおみや:大宮通り
まつ:松屋町通り
ひぐらし:日暮通り
ちえこういん:智恵光院通り
じょうふく:浄福寺通り
せんぼん:千本通り
これを覚え、(x,y)座標で再現すれば、位置関係は完璧に把握できるのである。
『四条烏丸西入る北側』
といえば、四条通と烏丸通りの交差点を西に入った所の北側である。
おそらく、一昔前の車のナビの…
『目的地周辺ですっ!』
…よりは、よほど精度が良い。
(次の両替町にまで行ったら行きすぎであるから戻れば良い、数10メ-トルとズレが無いはずである。)
これで小姓達で編成する『見廻り組』も、迷子になる心配は無さそうである。
(長浜の町も碁盤の目でありまして、そこで育った作者:ひさまさは、城下町に行くと必ず道に迷うのである。)
さあ、お盆も終わります、明日は 『送り火』です。
”そうです! 京都に行きましょうぞ!!”




