『洛外での戦い』 ~ 遠武令 ~
今回は短めです。
将軍の座をめぐり、三好家と朝倉家が、それぞれ義栄・義秋を擁立し争っている。
当初は、上洛を果たした朝倉勢が優勢ではあったが、足利義栄に従五位下”左馬頭”がくだされたことにより、今度は三好勢が息を吹き返した。
もともと四国のみならず畿内にまで勢力を伸ばしていたのだ、三好長慶が残したものは大きい。
さすがは”天下人”になりかけた長慶の遺産(三好家)である。
それまでに築きあげた、”外交”が三好家に力を与えている。
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― 京.朝廷 ―
永禄10年(1567年) 9月
『京に無用な兵を立ち入らせるべからず』 との詔が出された。
”遠武令”という。
京より武を遠ざけるという意味である。(厭武の意味もあるようだ。)
『洛中にみだりに兵を入れることのないよう、また示威・威嚇であっても一切の軍事行動しないように』との異例の通達が発せられたのであった。
幕府を狙う者達が、どちらも未だ”将軍宣下”を終えていないがゆえの強気発言である。
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将軍位の争いは、過去にも度々起こっている。そしてその度に京のまちを戦火に巻き込んだ。
此度も同様に、京の町への被害が起こるであろうと懸念された。
今回は、左京大夫の六角家・三好家の名代として、俺(浅井長政)が京の守りを担当するよう、朝廷より命がくだされた。
正親町天皇の意向を受けて、臨時措置として令外官『京都守護職』に就任した。
(もちろん、俺の入れ知恵である。)
令外官とは、律令の令制に規定のない”新設の官職”の事をいう。
平たくいえば、臨時の部署に臨時の役職である。
現実的な政治課題に対して、既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟かつ即応的な対応を行うために設置された官職である。
もちろん由来は中国である。
本朝では、8世紀末の桓武天皇の改革期に多くの令外官が置かれた。
その後も新たに発生した事案に対して現実的に対応するよう、いくつかの令外官が設置されていった。
浅井家は、朝廷の命を受け、洛中での三好・朝倉の両家の監視の役を仰せつかったのである。
もとより、三好家の警戒をしている浅井家にとってはさほど負担はない。
まあこの仕事ゆえに、弟の政之を自分の名代として派兵することとなったわけである。
『京都守護職』は、あくまで、洛中の平安を守るという職務に限定されているのだ。
というわけで、俺が引き連れてきた軍勢に追加を含め三千名の兵で、京の警備に当たることとなった。
俺は、本陣を本国寺へ移し指揮に当たった。
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それに伴い、洛中にいる朝倉勢は洛外に退去する運びとなった。
勢力を取り返そうともくろむ、三好家との争いが目前に迫っていた。
独自の官職を出しました。
些か、”不幸なニオイ”がする役職ですが……。
気にしないでいただきたいです。
洛中法度が、努力目標から強制力のあるものへと替わります。
帝より権限を得た形となりました。




